13 神々の生贄に捧げてやろう


 勢いを増した炎が、俺を新たな獲物と見定めて、鎌首を持ち上げる。


 俺は裂けた外套を脱ぐと、炎の上に被せ、ブーツで踏みつけた。

 昨日の雨のせいで外套が生乾きだったのと、地下室が湿気ていた状態が、幸いした。


 俺の足の下で、炎は見る間に勢いを弱め、白く薄い煙を上げて鎮火する。焼けたパピルスや焦げた毛織物の嫌な匂いが、つんと辺りに漂う。


 ひとまず、焼け死ぬ危険からは回避されたが、コレティアが心配だ。一刻も早く、隠し部屋から出なければ。


 使える物は何でも使う。俺は部屋の奥へ戻ると、キウィリスが投げつけたナイフを壁から引き抜き、キウィリスが蹴った机を見やった。

 この机の高さなら、跳び上がれば、落とし戸へ届くはずだ。俺は机を、落とし戸の下へ押していった。


 机を動かす音を聞きつけた男達が、落とし戸から顔を覗かせる。

 外にいる人数は四人らしい。

 全員、髪とひげを長く伸ばし、たくましい体は、俺より一回り大きそうだ。


 てっきり、俺が焼け死ぬのを待つだけだと思っていたらしい男達は、ぴんぴんしている俺を見て、罵声を浴びせてきた。

 が、ゲルマン語なので、何と言っているかはわからない。


 一人、膝をつき、手をついて身を乗り出し、落とし戸から覗き混んでいる奴がいた。好奇心旺盛なのは結構だが、油断し過ぎだ。


 俺は素早く机に飛び乗ると、思い切り跳ね、身を乗り出している奴の袖口を掴んだ。


 体勢を崩した男もろとも、重力に従って落下する。

 俺は受け身をとったが、不意を突かれた男は、机から更に床に落ちて、呻き声を上げた。

 俺は、すかさず男へ寄ると、即頭部を蹴りつけ、気絶させる。


「おい! こいつを殺されたくなかったら、俺をここから出せ!」


 俺はグラディウスを抜くと、床の男に突きつけ、落とし戸へ向かって叫んだ。

 だが、返ってくる言葉は、俺が理解できないゲルマン語ばかりだ。これでは、交渉のしようがない。

 俺は舌打ちして、もう一度、大声で叫んだ。


「キウィリスを呼べ!」


 キウィリスという名は男達に伝わったらしい。

 ところが、男達は首を横に振ると、一斉に抜剣した。人質の男の命より、キウィリスの叱責の方が恐ろしいと見える。

 しかし、地下室の中と外では刃は届かない。


 俺はグラディウスを鞘へしまうと、男達を見上げた。男達は、俺が上へ登ろうとすれば、すぐさま斬りつけようと、待ち構えている。


 俺はゆっくりと、床に散らばった書字板の一枚を拾い上げた。左手に書字板を持ち、やおら、男達の一人へ投げつける。

 先程、コレティアが同じ手段を使っていた場面を見ていた男は、数歩、退いて書字板を避けた。が、書字板はおとりだ。


 俺は机に飛び乗ると、書字板に気をとられた別の男に、キウィリスのナイフを投げた。

 狙い通り、ナイフが男の右の肩口へ突き刺さる。男が悲鳴を上げ、剣を取り落とした。


 間髪を入れず、俺は最後の男を目がけ、懐から取り出した小袋を、口を軽く開けて投げつけた。

 袋の中の粉を吸い込んだ男が、奇声を上げて、手で顔を覆う。


 袋の中身は胡椒こしょうだ。

 調味料と言えば、塩くらいしか知らないゲルマンの男には、さぞかし刺激的だろう。

 黄金にも匹敵する高級品の胡椒は、俺の財布にも痛いが、命に比べれば安い買い物だ。


 男達三人が怯んだ隙に、俺は乗っかった机から跳び上がって落とし戸の縁を掴んだ。両腕に力を込め、体を持ち上げる。

 外の冷たい空気が頬を撫でた。


 書字板を投げつけた男が、いち早く俺に気づき、剣を振りかぶる。

 俺は素早く両足を持ち上げると、剣を振りかぶった男の足をぐ。男は体勢を崩して尻餅をついた。


 立ち上がった俺は、尻餅をついた男のあごを容赦なく蹴る。男が白目を剥いて仰向けに倒れる姿には目もくれない。


 続いて、胡椒の刺激に身悶えする男を、背後から落とし戸へ突き落とした。悲鳴を上げて、男が地下室へ落ちていく。


 俺はコレティアの姿を求めて、辺りに視線を巡らせた。


 いた。

 コレティアは、四阿あずまやの側の地面に押し倒されていた。


 キウィリスがコレティアの腹の上に馬乗りになって両腕を封じ、右手で肩を、左手で口を押さえつけている。

 キウィリスの手下の一人が、暴れるコレティアの両足をなんとか縄で縛ろうと悪戦苦闘していた。脇には、コレティアに蹴り倒されたらしい男が一人、伸びている。


 かっ、と怒りに視界が赤く染まる。


「キウィリス!」


 叫んだ声は、自分の声だと信じられないほど、憤怒にひび割れてた。


 グラディウスを抜き放つ。

 四阿の低い壁を跳び越え、キウィリスに走り寄る。


 殺意をほとばしらせて駆け寄る俺を認めたキウィリスは、一つしかない目を、怒りに細めた。

 突き出した俺のグラディウスを、横へ転がって避ける。


 すかさず、コレティアが上半身を起こし、足を拘束していた男に肘鉄ひじてつを食らわす。体勢を崩した男の顎を、コレティアの自由になった右足が蹴り上げた。


 俺は避けたキウィリスを追って、更にグラディウスを突き出した。

 キウィリスは体格からは想像もつかない身軽さで、一回転して立ち上がった。

 剣を抜き、グラディウスを弾く。


「ローマの鼠が! 大人しく焼け死んでいればいいものを」


 キウィリスが俺に斬りかかる。キウィリスの眼差しは俺を射殺さんばかりだ。一つきりの瞳に、激情の碧い炎が宿っている。


 俺はキウィリスの剣を、グラディウスで受けた。


 重い一撃だ。気を抜けば、グラディウスを取り落としそうになる。

 だが、俺は内心の動揺を隠して、太々しく笑ってみせた。


「言っただろう。大人しく殺されるつもりはない、と」


 今度は、俺から攻勢に出る。

 素早くキウィリスの死角へ回り込み、剣を突き出す。


「ならば、わたしがお前の首を叩き斬って、神々への生け贄にしてやろう!」


 キウィリスが一歩退いて体を開き、突きをかわす。

 深く踏み込んだ俺の首を目がけ、キウィリスが剣を振り下ろす。俺は跳びすさって、剣を避けた。


「ルパス!」


 突然、背後からコレティアの声が響く。

 同時に、馬のいななきと蹄の音も。


 振り返らずとも、コレティアの行動は、すぐにわかった。庭の隅の馬小屋の馬を奪って逃げるつもりだ。


 キウィリスが俺の行く手を阻むべく、剣を繰り出す。俺は後ろへ大きく跳んだ。 振り返りたいが、キウィリスの前で無防備な背中は見せられない。


 左手を懐へ突っ込み、胡椒の袋をキウィリス目がけて投げつける。袋の口を開いている間はない。


 キウィリスは上半身だけで袋をかわした。

 受け止めるか、斬りつけるかする展開を期待したが、甘かった。しかし、一瞬、キウィリスの攻撃の手を止める役には立った。


 俺はグラディウスを鞘へ納める。その間にも、背後から蹄の音が近づいてくる。


「ルパス! 跳びなさい!」


 コレティアの鋭い指示の声。

 蹄の音が高く響き、コレティアを乗せた馬が、俺の真横を通る。


 俺は地面を蹴って跳ぶと、馬の鞍に手を掛けた。体がぐらつく。

 コレティアが手綱から右手を離し、俺のテュニカを掴む。


「そのまま、掴んでくれ!」


 振り返った俺の目に、キウィリスが懐から、もう一本のナイフを取り出した姿が、はっきり見えた。


 まずい。今、馬を刺されたら逃げられない。

 たとえ、キウィリスの屋敷から逃れられたとしても、ノウィオマグスから脱出しなければ、無事に首都へは戻れないだろう。


 キウィリスが、右腕を振りかぶる。俺はキウィリスの狙いを見定めようとした。 グラディウスを鞘ごと腰帯から抜く。


 ナイフが、キウィリスの手から放たれる。


 俺は鞍を掴んで身を乗り出すと、グラディウスを振った。

 馬の後ろ右足の付け根を狙ったナイフが、高い音と共に弾かれる。


 俺は右腕と腹筋に力を込めて、コレティアの後ろに元通りまたがろうとした。


 と、突然、分厚い布地が俺の体をでる。


 応接間タブラリウムへ入ったのだ。

 玄関から中庭ペリスティリウムまでが一望できる視覚効果を狙って、タブラリウムの仕切りは壁ではなく、厚い布の幕で作られている場合が多い。


 薄暗いタブラリウムの中を、コレティアは馬を疾走させる。

 馬の上に体を安定させた俺は、振り落とされまいと鞍を掴んだまま、ペリスティリウムを振り返った。


 キウィリスがゲルマン語で大声で指示を出している。馬で俺達を追う気かもしれない。


 応接間を抜ければ、玄関アトリウムだ。キウィリスの指示を聞きつけた奴隷達が、アトリウムへ飛び出してくる。

 が、疾走する馬の前へ身を投げ出すほど勇気のある奴はいない。


 コレティアは巧みに手綱を操った。

 立ちすくむ奴隷達の間を抜け、アトリウムの床中央に設けられた炉床を回り込む。


 屋敷の玄関扉は閉まっている。

 が、昼日中の今は、かんぬきは掛かっていない。

 閂を掛けようと、若い奴隷が一人、扉へ駆け寄ろうとした。


 だが、遅い。


「掴まっていなさい!」


 コレティアが鋭く叫ぶ。俺はコレティアの腰に腕を回した。


 コレティアが馬の手綱を強く引く。

 馬が前足を上げて立つ。と、蹄で扉を押し開けた。


 小雪混じりの冷たい風が、邸内に吹き込む。

 外套からこぼれ出たコレティアの金髪がたなびき、真冬に場違いな薔薇の香りが、俺の鼻をかすめる。コレティアがいつもつけている香水だ。


 戦いの女神ミネルウァもかくやという勇姿だが、残念ながら、腰に俺がお荷物としてくっついている。


「はっ!」と気合いもろとも、コレティアは手綱を操ると、放たれた矢の如く、屋敷から飛び出した。



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