第66話 8月の名前を呼ぶ声

[27歳・・・5月 悠介]

  

「あ、カフェ。」

街並みに溶け込むようにひっそりと佇んでいるナチュラルな風合いのカフェを見つけた。アンティークな木材の扉の前にはメニューが書かれた木枠の黒板が置かれている。悠介は立ち止まる。

「こういうとこ、好きそう。」

割と近いし、待ち合わせここに変えて、中でコーヒーでも飲んで待ってようかな?ふと、そう思ったりもした。でも・・・、やっぱり戻ろう。職場まで迎えに行こう。もし、あいつがカフェ行きたいって言ったら、そしたら、ここまで一緒に歩いてきたっていいし。

なんとなく、2人で並んでこの街を歩くのもいいかなって思う。

悠介はスマホの時間を確認した。4時5分前。

「そろそろ帰り支度終わって出てくる頃かな。」

踵を返し、もときた道を戻る。少し傾いた太陽が悠介の顔を照らす。

「でも、あいつ、トロいからなあ。」

彼女の顔が目の前にちらつく。思わず口元がほころび笑顔になる。ほら・・・会えることがこんなに嬉しい。それなのにあいつは・・・オレの気持ち、何にも分かっちゃいない。あいつには、未だに、心に引っかかってることがある。

先月、負けた試合の後のデート思い出す。試合に負けたオレを励まそうと、一生懸命、オレの良かったところを、身振り手振りで話してくれてたあいつ。そんなあいつにオレは笑って言った。

『どんなプレイでも褒めてくれるから、おまえの意見は、あんま当てになんないんだよなあ。』

何気なく出た軽い言葉・・・でも、この言葉はとてもあいつを傷つけた・・・。

まあ、オレのせいなんだよな・・・。いつもなんだか青臭くて、恥ずかしくっって、高校の・・・特にあの頃のことを思い出すような話はあえてしてこなかったから・・・。

オレの心の中をパカッと開けて見せてやりたい。どんだけ好きだか。

でも、言わなきゃ分かる訳ないよなあ。あ~、苦手だ。昔からそういうの。

だけど、しょうがない!今日こそはちゃんと話してみるか!

ったく、柄じゃないけど。

昼のニュース。ヒロ・・・ううん。タムラコウキが出ていた。タムラコウキは忘れていた高校時代を悠介に思い出させた。

「好きな人がいて、お付き合いしています。」

画面上のあいつの目。写真ではあったが、あいつの切れ長の真っ直ぐな目。それが、なんだかオレの想いまでも後押ししてくる・・・そんな気がした・・・。



[18歳・・・8月12日]


 突然倒れ込んで、自分の胸元に顔をうずめる奈津。コウキは、ドギマギする。Tシャツ1枚に覆われただけの奈津の上半身が自分の体に身を任せてくる。言おうとしていた言葉を思わず飲み込む・・・。

「聞きたくない。聞きたくない・・・。」

胸元で激しく頭を振る。

しかも、

「明日までこのままでいる・・・。」

なんて言う。ぼくの心臓が平気でいられる訳がない。

コウキは花火が上がっている方の空を仰ぐと、心臓の鼓動を吐くようにフーッと息を整えた。そして、振り続ける奈津の頭をコウキはそっと抱きしめた。

「奈津・・・聞いて・・・。ちゃんと聞いて。」

コウキの優しい声が耳元で聞こえる。

その声を聞かないように、奈津は今度は両手で両耳をふさいだ。

いつの間にか、コウキの胸元もTシャツもぐしょぐしょになっていた。・・・奈津の涙で。

コウキは奈津の頬を両手で包んで、顔をあげさせる。

予想通りぐしゃぐしゃの泣き顔。トナカイみたいな真っ赤な鼻。

「いや・・・だ・・・。聞き・・・たく・・・ない・・・。」

ヒックヒックとしゃくりあげて、何度も奈津は繰り返す。

いつもは・・・サッカーがめっちゃ上手で、勉強もできて、しっかり者のマネージャーで、凛太郎くんのお姉ちゃん兼お母さんで、いつも明るく元気で強い奈津。・・・崩れることなんてまるでない。

・・・でも、きっと、それは、みんなの見ている奈津・・・。

ぼくの奈津は・・・。コウキは目を細める・・・。

「ごめん。わがまま言うよ・・・ぼくは・・・」


コウキが何か大切なことを言い始めた。『ごめん・・・。』の後のコウキの言葉。どんな言葉も、もう聞きたくない・・・。奈津は、コウキの言葉をキャッチする気なんかなかった。コウキが何て言うのか・・・聞こえない。聞かない・・。奈津の頭は扉を閉じると、どんどんぼんやりと曇っていった・・・。


1番言いたいことを、今、静かに大切に奈津に伝えようとする・・・。

耳を押さえている奈津の両手の手首を掴む。

「奈津、聞いて。」

奈津の泣きはらした目を見て語りかけようとする。

でも、奈津は虚ろな目をやめない。

その目はコウキを通り越して空(くう)を見たままだった。相変わらず、クタッとして力の入っていない上半身。

いつも泣いたとき、もっと目立つ赤い鼻が、今日はあまり目立たない。だって、それ以上に顔が赤い・・・そう思ったとき、コウキは自分の手のひらが感じる異常にやっと気がついた。

「熱い・・・。」

そして、急いで奈津の体を抱きしめる。・・・すごく熱い。

「・・・こんなに・・・。奈津、すごい熱!!あ・・・昨日、雨に濡れたから!」

遠のく意識。奈津の耳に、コウキが「奈津!奈津!」と何度も呼ぶ声が聞こえた・・・。


それからのことは夢の中・・・。

お父さんの声がし始めた。消毒の匂いがする場所。知らない人の声。わたしはどうなってる・・・?そして・・・ずっとずっとわたしの体は寄りかかっていた・・・あったかくて優しい誰かに・・・。


朝日が顔に当たる。相変わらず蝉の声が外で聞こえる。見慣れた天井がぼんやり目に入る。ボーッとした頭の霧が少しずつ晴れていく・・・。

ここは、わたしの部屋。

そして、朝。

・・・夜は終わった。


コウキ・・・

帰った・・・

コウキはヒロに戻った

アイドルになった


・・・タムラコウキはもうここにはいない


いない。いない。もう会えない・・・。


ツーッと涙が流れる。手で顔を覆う。

お父さんや凛太郎に聞こえないように、声を殺す・・・。

涙と鼻水でぐしょぐしょになって、ティッシュを取ろうとベッドの脇のテーブルに手を伸ばす。パタパタと手を上下に動かし、手探りで探していると、ティッシュじゃなくてスマホに手が当たった。奈津はおもむろにそれを掴んだ。昨日の朝からずっと開いていなかったスマホ。

『ぼくの想いはもう送ったよ。』

『携帯に送った。昼に。』

『ぼくが後出しみたいになるのも嫌だったから・・・。』

『うん。ぼくの想いはやっぱり変わらない・・・。』

夕べのコウキの言葉を思い出す。

わたしの方が先にリセットするって言ったくせに・・・。

コウキからの別れの言葉。コウキの口からとうとう聞けなかった・・・。ううん。聞かなかった・・・。

あんなに取り乱して・・・とんだわがままだ・・・。

また、涙が出る。

スマホを顔の上に持ってくる。そして、画面を開く。コウキからのメッセージ。昨日の昼にとっくに送られていたコウキの想い・・・。きっと、感謝と別れへの想い・・・。

自分の気持ちに区切りをつけなきゃ。リセットしなきゃ。

奈津はいつもそうするように、自分に言い聞かせて・・・そして、無理に納得させる。

奈津はそっとメッセージを開いた。


『奈津・・・』

奈津の名前から始まってる・・・。

また、目に涙が溜まる。

だって・・・その文字からは、奈津の名前を呼ぶ優しい声が聞こえてきたから・・・。



[27歳・・・5月・奈津]


 薄暗い長めの廊下を抜けると、光の充満する明るい病院の待合ロビーに出た。「まぶしい・・・」奈津は思わず一瞬目を細める。人気のないロビーの、どこか澄み切ったような空気がそっと奈津を包んだ・・・。すると、瞬間、全ての時間が止まった気がした・・・。奈津は足を止めた。



[27歳・・・5月・悠介]

 

悠介は、太陽が射し込むガラス戸の向こうに彼女の姿を見つけた。こちらに向かって歩いてくる彼女。

「よ!こっち!」

悠介は、建物の外で、パスをもらうときのような大きな声を出し、勢いよくその右手を挙げた。



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