第63話 8月のひび割れ
[27歳・・・5月]
奈津は、膝丈の薄いライトブルーのワンピースを着た。そして、更衣室の隅に置いてある丸いすを持ってきて座った。まなみはヘアクリップで奈津の前髪を留めると、クレンジングシートを取り出して、奈津に手渡す。奈津はそれを受け取ると、両手で、目元から当てていった。奈津がメイクを落としている間に、まなみは、床にタオルを敷くと、その上にメイク道具を並べた。そもそもほとんどメイクらしいメイクをしていない奈津は、あっという間にメイクを拭き終わる。まなみはコットンに化粧水を染みこませると、それを奈津の顔にポンポンっと当て始めた。
「ねえ、後出しって、後出しじゃんけんの後出し?」
目をつぶって、されるがままになっている奈津に、まなみが何気なく訊いた。さっき、耳元で奈津がつぶやいてた言葉・・・。奈津は目を閉じたまま「聞こえてた?」というような表情をした。そして、
「高校の時のこと思い出してた・・・。」
と言った。まなみは今度は手早く乳液を手にとると、それを慣れた手つきで、奈津のおでこ、あご、両ほっぺ、鼻にのせながら、
「何々?コウキ?」
と訊いた。
コクン。
奈津がずうなずく。
「後出しするの嫌だから・・・ってコウキが言ったの思い出した。」
「それ、初めて聞く!意味深だなあ。どんなシチュエーション?もしかして、何回訊いても教えてくれなかった最後の日?」
乳液を奈津の顔に広げながらまなみが訊いた。
高校時代、小麦色に日焼けしていた奈津の顔は、今はどちらかと言えば色白の部類に入っている。その白い肌がパッと赤みを帯びる・・・。そして、また、
コクン。
目を閉じたまま、うなずいた・・・。
[17歳・・・8月12日]
太陽が空にいる間、2人ずっと笑顔だった。明るい陽光の中、眩しいくらいにお互いを見つめた。だけど、太陽が沈み、暗くなった今・・・2人の顔から笑顔は消えた。
手をつないで歩く・・・。人の波をよけながら、河原に並ぶ屋台にそって・・・。横を歩いているコウキの顔を奈津はもう見ることさえできなかった。顔を少し下に向けたまま、コウキのペースに身を任せながら歩く。優しく触れるように握っているコウキの手の感覚が、静かに、奈津の心をざわつかせていた。
その時、
「奈津!奈津じゃない?」
不意にすれ違った浴衣女子のグループの1人が声をかけてきた。奈津とコウキは歩みを止める。そして、奈津は顔をあげた。
「やっぱ、奈津だ~!」
高校は別々になったが、小・中学校いっしょで仲の良かった美香だった。
「え~!奈津、もしかしてデート?」
美香は、奈津のつながれた手を見て、ニヤニヤした。そして、ちょっとうつむき加減であちらを向いているコウキに目をやると、
「何恥ずかしがってんの!悠介!あんたら、やっと付き合い出したんやね!よかった。よかった。」
と言った。
「あの、美香、えっと・・・。」
奈津が間違いを訂正しようと口を開いた時、
「美香、行くよ~。」
人の流れに乗って、4,5メートルほど進んだ友達が美香に声をかけてきた。
「は~い!今、行く!」
美香は友達に向かって声を張り上げると、奈津がしゃべろうとするのを遮る勢いで、奈津の空いた方の手を握ると、
「すっごい、シンクロ!12日って言えば、奈津の誕生日だったな~!って、ふと思い出したところだったんよ!まさか、ホントにその奈津が目の前にいるなんて!ね、すごいシンクロでしょ!それにしても、誕生日デートなんて、悠介も気が利くようになったもんだ!」
とマシンガンのように一方的に一気にしゃべった。そして、それが終わると、また、チラッとコウキを見たが、美香は人違いしてることに気づかないようだった。高校が変わって、美香は悠介とも会ったことがないに違いない。
「じゃ、行くわ!奈津またね!悠介もね~!」
そう言って、浴衣の腕をガバッと振り上げて、手を振ると、台風が去って行くように美香は人混みに消えていった。
奈津はその後ろ姿を見送る。
心なしか・・・、奈津の手を握るコウキの手に力が入ってるような気がした。
「ごめん。なんか、美香、悠介と勘違いしてたね。今度会ったら、違うって・・・。」
そこまで言って、奈津は口をつぐんだ。そうだ・・・「今度」なんて無かった・・・。
すると、何も言わないまま、おもむろに、コウキが歩き始めた。奈津も慌てて歩き始める。心なしか・・・ううん、明らかに、斜め後ろから見るコウキの横顔が怒ってるような気がした・・・。
コウキが口を開く。
「中山のことじゃない。そんなことじゃない。」
前を向いたまま続ける・・・。
「どうして、今日誕生日だって、ぼくに言わなかった?」
あ・・・。
奈津は口に手を当てる。
コウキが立ち止まる。そして、奈津を見た。立ち止まった2人を人の波がよけて流れていく・・・。
「下の道に行こう。」
人の行き交いの少ない下のアスファルトの道路を指さした。そして、コウキは土手の急な坂を手を握ったまま降り始めた。エスコートするように、奈津の手を引く。
「大丈夫!」
奈津はコウキの手をサッと離すと、次の瞬間、その坂を軽やかにタンタンタン・・・と駆け下りて行った。そして、うまく下の道に着地すると、パッと振り返って、コウキに向かってピースをした。
呆気にとられていたコウキは、
「ほら、すぐそうやって・・・」
小さい声でつぶやいてから、同じように・・・ううん、もっと軽く、奈津よりも大きな歩幅でタンタンッと駆け下りた。
そして、傍に行くと、奈津の頭にポンッと手を置いた・・・。
頭に置かれたコウキの手。
「ごめん・・・。誕生日のこと・・・。でも、このまま・・・言うつもりなかった。」
奈津が言った。
「明日・・・ぼくが帰るから?」
コクン。
奈津はうなずいた。
「ぼくのわがままは・・・」
コウキがそう言い始めるのと同時に奈津がコウキのTシャツの裾を掴んだ。
突然、奈津の心の蓋にピシッとひびが入った。
「・・・ずっと居る・・・。コウキが明日の朝、新幹線に乗るまで、このままずっと一緒に居る。
コウキ、わたしのわがまま・・・きいてくれるんでしょ・・・。」
奈津の黒目がちな大きな目がコウキを捉えた。
Tシャツを強く掴む手。
コウキは突然の奈津の言葉に息を飲んだ。すぐに言葉が出ない。
何も言わないコウキ・・・。
奈津はハッと我に返る。後先考えず、自分が思わず口にしてしまったことの軽率さと大胆さを恥ずかしさと共に後悔する。
「な~んて・・・嘘!」
発言をかき消すために、奈津がそう言おうとした時、
「ぼくんち行こう。縁側から、遠くて小さいけど花火が見れるって。」
Tシャツを掴む奈津の手を握る。
「そして、ずっと一緒に居よう・・・。」
コウキが言った。
奈津は目を丸くする。
そんな奈津を、コウキはお構いなしに連れて行く。
わがままなんて言わない奈津が、どんな思いで発した「一緒に居る」なのか・・・。それを思うと、コウキの胸が痛くなる・・・。
いつも、君に先を越される・・・。あの日の「好き」っていう告白も・・・。今も・・・。
奈津・・・。さっき言えなかったぼくのわがままはね・・・。
[27歳・・・5月]
「なあに、顔赤くして!」
奈津の眉毛を描きながらまなみが笑った。
「なんか、あの頃、幼いながらも一生懸命だったなあ・・・って思って。」
奈津ははにかんだ。
奈津から少し離れて眉毛のバランスを見ながらまなみが目を細める。
「10年も経ったんだから、もう時効・・・でしょ。あの日のことしゃべってもらうからね!花火で手をつないで歩いてた・・・までは噂にもなってたし、知ってたんだけどなあ。あ~聞きたい!」
眉毛の手直しをしながら、まなみが続ける。
「でもね、現在進行形!今日のデートが大事!あの日のコウキとのことは無事デートが終わったら、じっくり聞かせてもらうから!」
まなみの言葉に奈津は、ウンウンと2回うなずく。
「来月、この病院やめるって・・・、今日会った時に言うんでしょ?」
まなみはアイメイクに取りかかろうとしていた。
「だったら・・・まだ、あいつ、知らないの?」
ウン。
奈津は首だけ縦に振る。
「じゃあ、びっくりするね~!!
それにしても・・・、すっごい決断。結婚するかもまだ決まってないっていうのに。・・・傍に行くって・・。」
まなみは突然腕組みポーズをして、感心する。
全然、そんなことないよ。奈津は首を横に振る。
「また・・・わたしのわがままが出ただけだよ・・・。」
そして、そうつぶやいた。
「そうだ!あさってのレノファ戦、サッカーの応援行くんでしょ。そん時のメイクとコーデは自分でしなさいよ!わたし、大阪帰っていないんだから。」
まなみが奈津の目元を仕上げながら言った。
「まなみがしてくれてるメイクを覚えようと頑張ってはいるんよ。でも・・・なんかわたしがするとイマイチで・・・。それに、向こうも『いつもの奈津でいいよ。』って言ってくれるし・・・。」
奈津が少し頬を膨らませて抗議する。
「あのね。あいつはいいんよ。奈津だったら何でもいいんだから!周りよ周り!あんたはそろそろ覚悟して、あの人の彼女です、恋人いますっていう自覚を持たないと!さっきの看護師たちみたいに好き勝手言われるんだから!ホント、悔しい!見てて、絶対、美男美女カップルって言わせてやるんだから!」
まなみはまるで自分がディスられたかのように、悔しそうに般若のような顔をすると、メイクブラシを握りしめた。
「わかった、わかった。ちゃんと自覚するから!」
そう言って、奈津はまなみをおどけて制したが、心の中では、そんなまなみへの感謝があふれ出てくる・・・。
その時、奈津のスマホがピロンと鳴った。
奈津はスマホの画面を開き、中味を一読する。
「もしかして、もう、来て、待ってるって?」
まなみが質問する。奈津はそれには答えず、スマホの画面を閉じると、目だけ天井に向け、頭の中で何かを巡らせた。それから、
「まなみ、大阪帰るの伸ばして、日曜日のサッカーの応援、わたしと一緒に行こう!」
とおもむろに言った。
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