第56話 5月の食堂・8月の明かり

[17歳・・・8月11日 夜]


 月と星が厚い雨雲に遮られている空間は闇が広がる。田んぼに挟まれた道には、街灯のような人工的な灯りすらない。奈津の自転車の白いライトの灯りだけが、頼りなげに行く先を照らす。道の向こうから近づいてくる灯りも、奈津のと同じように頼りなく見える。さっきから降り出した雨が顔に当たる。

ふと、不安になる・・・。もし、コウキが家にいなかったら。もし・・・もう、日本を発っていたら。もう、会えなかったら・・・。

『触られたくもない!!』

そう言われた時のコウキの顔・・・。そして、去って行くコウキの背中・・・。奈津の表情はグシャッと崩れた。

「ごめん。違うのに・・・。」

急に、いてもたってもいられなくなった。ハンドルから左手を離し、ポケットに手を入れ、スマホをギュッと握る。「あの自転車が行ってしまったら・・・。」奈津は少しスピードをあげる。雨が顔に当たるのを避けるように、少し下を向く。お年寄りなのだろうか、前から来る自転車の進みが遅い。心が焦る・・・。ようやく、道の端と端同士ですれ違う。耳に入る音で、自転車が横を通り過ぎたのを確認した。奈津は自転車を止めて、足をついた。スマホを取り出し、一旦上を向く。落ちてくる雨粒が顔を濡らす。奈津は大きく息を吐いた。スマホの画面の明るさが暗がりにボヤンと浮かぶ。奈津は、『田村 弘輝』という名前を出した。そして、そっと指で触れた。呼び出し画面に変わる。スマホから呼び出し音が流れると、それは心臓の鼓動と重なった・・・。その時・・・、暗がりからかすかに着信音が聞こえてきた。思わずキョロキョロする。「あっ。」と後ろを振り向く。ボヤンとした明かりが少し向こうに現れる・・・。さっきの自転車?

「もしもし・・・。」

スマホの中から声。それと同時に、ボヤンとした明かりからも同じ声・・・。

「もしもし。もしもし。」

どちらの声も少しずつ大きくなる・・・。声の主は暗がりで、電話の向こうの誰かに声をかけている・・・。自転車を停め、暗闇の中、奈津はボヤンとした明かりとその声を手がかりに引っぱられるように近づく。

「もしもし。奈津!もしもし!」

フワッと胴体に腕を回す。背中におでこをつける。

「つかまえた。」

奈津は鼻声でそう言った。ポロポロ・・・涙がこぼれる。体温が腕とおでこに伝わってきた。あったかい・・・。

声の主は、自分に何が起こったか把握すると、たじろぎ気味に・・・だけど優しく答えた。

「あ・・・つかまった・・・。」



[27歳・・・5月]


「ヒロくん、電撃発表ですね。韓国では前々から噂になったりしてたんですか?」

司会者が誰となしに質問する。

「いや、それが全く噂にもなってなくて。彼、10代の頃、1度、熱愛報道されてからは、いっさい浮いた話はなかったんですよね。」

質問を受け、何でも知ってるから訊いてください、と言わんばかりの顔で、女性芸能リポーターが答える。

「お相手は一般の方なので、国籍、年齢、職業など、全く情報は開示はされていません。なので、交際期間もどれくらいなのか、今のところ分かっていない状況です。まあ、噂になってないことから考えても、恐らく、お付き合いが始まったのは、ごく最近なのではないか・・・というのがこちら側の見方です。」

ファンの胸中など知ったこっちゃない・・・という口調で、リポーターが情け容赦なく見解を述べる。

「えー!!一般人!きっと韓国美女でしょ!もしくは、財閥の娘とか!」

みさきがテーブルに突っ伏したのを呆れた顔で見ながら、二人の看護師は立ちあがった。

「ほらほら、そろそろ仕事戻んなきゃ。」

と1人がみさきの肩を叩いた。

「どっちにしたって、どうせ、手の届かない人なんだから!ほら、行こ!」

もう1人が、みさきのコーヒーカップを手にすると、食器返却棚に持っていった。

いつの間にか、テレビは違う話題に移っている。画面は2人組の男性芸人になっていた。


「手が届かない人・・・だったんだよね・・・。」

下を向いたままの奈津が、まなみにそっと言った・・・。まなみはテーブルに顔をくっつけるようにすると、うつむいている奈津の顔を静かにのぞき込んだ・・・。



[17歳・・・8月11日 夜]


 ガシャン。

サドルから降りると自然に自転車は倒れた。ちょっとよろめいて、片足で2,3歩ケンケンするような形になった。今、自分の背中にくっついているのは・・・コウキは体ごと振り向いた。そして、暗がりの中、それを思い切り抱きしめた。

「奈津。」

声を絞り出す。

「・・・好きだ・・・。とっても・・・。」

そして、もっともっと奈津を抱きしめた。


しばらくして・・・、奈津が腕の中でもがき出した。コウキが力を緩めると、コウキの体を両手で押して、自分の体から離した。コウキは咄嗟に『ごめん。』という言葉を言いそうになる。でも、その時、暗がりの中で奈津の指が彼の顔に触れた。そして、次の瞬間、奈津の唇が彼の唇に当たる・・・。あっという間の出来事。奈津からの短いキス・・・。唇が離れて、ほんの少し、暗がりの中見つめ合う。コウキは奈津の顔を両手で挟んだ。そして、自分の顔に強く押し付ける・・・。奈津の唇と彼の唇が不器用に重なった・・・。雨なのか涙なのか。それは長くて・・・そして少し塩辛いキスだった・・・。


 

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