第57話 5月の食堂・8月の雲間

[27歳・・・5月]


ピロン。

奈津のスマホが鳴る。

今に引き戻され目を開けると、目の前には、日替わり定食が見えた・・・。

奈津は、機械のような一連の動きで、スクラブのポケットからスマホを取り出し、その画面を開いた。そして、メッセージを一読すると顔を上げた。その表情はいつものクールさを取り戻している。

奈津の表情を見て、さすがだな・・・と、まなみは妙に感心する。

「彼からとか?」

まなみはBEST FRIENDSの報道からの、2人の間に流れるこの空気をどうにか整えたくて、当てずっぽうに言ってみた。明るく、冗談っぽく。

うん・・・。うなずく奈津。『あ・・・意外。当たってた・・・。』当ててしまって、まなみの方が少し動揺する。奈津はため息をついた。それは、どこか不自然に見えるため息。

「どうしよう・・・。6時に待ち合わせだったのに、4時にしようって。もう、こっちに来てるんだって。」

眉間にしわを寄せ、少し困ったような顔をする。

「ハア~。奈津に会いたくってしょうがないんだね~。」

まなみはランチの唐揚げを箸で掴むと、口元を緩めながら言った。

「奈津、仕事は?」

そう言ってから、まなみは唐揚げを口に放り込んだ。

「前々から彼が来るの分かってたから、午後から休みはとってる。でも、溜まってる仕事を少し片付けて、それから、家でちゃんと支度してから会うつもりだったのにな・・・。4時まであと2時間ちょっとしかない。しかも、病院まで来るって。」

奈津は口をとんがらせた。そんな奈津を見て、今度は、まなみがニヤニヤしたいのを我慢しながら、わざと大きくため息をついた。

「彼、病院まで迎えに来るの?」

うん。奈津がうなづく。まなみは、急いで唐揚げを飲み込むと訊いた。

「それで・・・、訊くの怖いけど、奈津、今日、何着てきた?」

「ジーンズとトレーナー・・・。そして、スニーカー。あと、口紅しか持ってきてない。」

奈津は小さなお椀に入った味噌汁をすすりながら、平然と言った。

「フラれる・・・。こいつ、絶対フラれる。」

まなみはガクッと首を垂れる。奈津はそんなまなみの頭をコツンと叩くと、

「もう!失礼だなあ。フラれません!!」

奈津はハハッと笑った。「よくもまあ、ヌケヌケと・・・」今日ばかりは、まなみの方が気が気じゃなかった。

だって・・・、ヒロの・・・ヒロのあんな報道を見てしまった後だから・・・。

「更衣室・・・。そうだ、奈津、病院の更衣室って使える?」

まなみはガバッと顔をあげると、名案を思いついたとばかりに、奈津の方に身を乗り出した。

「う・・・うん。今、更衣室使ってる女医って2人だけで、佐伯先生は仕事が終わるまでは使わないから・・・。」

まなみは、目を輝かせた。

「よし!じゃあ、早くご飯食べて、仕事切り上げてきて!そんで更衣室行こ!場所は奈津んちから変更!!そこで変身させちゃる!」

奈津は眼鏡の奥の目を丸くすると、まなみを見つめた。それから、まなみの言わんとすることを理解すると、右手の親指を立て「オッケー!」と合図した。

そう・・・今日はデートだった・・・。奈津は、病院に迎えに来てくれる彼のことを考えようとした。それなのに・・・、考えようとすればするほど、奈津の頭の中には、先ほど映ったヒロの顔ばかりが広がってしまう。あの頃の少年だったあどけなさは抜け、ヒロは・・・息を飲むほど大人っぽく変わっていた・・・。鼓動が鳴る。奈津は上を向いて息をゆっくり吐いた。

それから、定食をがっついてるまなみを目を細めて見た。

「ありがと。」

奈津はまなみに言った。まなみはご飯を口にほおばったまま、奈津を見て笑顔を返した。まなみはわたしと彼のデートを心配して、実は、今日わざわざ来てくれた。化粧っ気のないわたし。おしゃれにも無頓着なわたし。大事なデートの前に、そんなわたしを変身させるんだって言って・・・。

まなみはいつもわたしの恋を応援してくれる。そう・・・いつだって・・・。

奈津は一旦目を閉じると、静かに食事を再開した。




[17歳・・・8月11日 深夜]


 唇が離れると・・・コウキは奈津の肩と頭を抱きしめた。ギュッと・・・。奈津はコウキの背中に手を回した。彼の胸に押し当てられる耳と頬。左の耳に彼の早鐘の鼓動が聞こえる。

トクトクトク・・・

長いキスの後の・・・それは、永遠を紡ぐ音・・・。初めての恋。そして、こんな恋は・・・もう2度とできない・・・。

神様。今のこの気持ちをコピーする魔法をかけて・・・今だけ・・・。1回こっきりの魔法でいいから・・・。離れてしまっても、この気持ちをいつでも再生できる・・・そんな魔法。

奈津はそっとお願いをする。それは不可能だと・・・そんなことわかっていても。


クシュン。

くしゃみと共に奈津の体が弾んだ。そして、それと同時に、固く繋がり合った2人の永遠が終わる・・・。コウキは腕に込めている力を緩めた。

「寒い・・・?」

いつの間にか、2人に降りぞぞいでいた雨はやんでいた。でも、過ぎていった雨が、夏だというのに、奈津の体温を奪っていた。

暗がりの中、コウキは奈津の顔にかかった濡れた髪を、指でそっと耳にかけた。

「こんな時間にどこに行くつもりだったの?」

コウキの声が優しく耳元に響く。コウキの手の動きにいちいちドキドキする・・・。それに・・・そんなの訊かなくても、分かってるくせに・・・。奈津はちょっと口をとんがらせる。

でも、誰も何も邪魔するものがない、この空間が奈津を素直にさせる。感じるのは・・・ヒロでもコウキでもない、そんな誰か・・・なんて越えた・・・ただただ唯一無二のこの存在・・・。大好きな人。

奈津は彼の右手を両手で包むように握る。そして、おでこに当てる。途端に、次から次から涙が溢れる。言葉にならない言葉を、声にならない声を、奈津は伝える。

「会いたかったの・・・。ただ好きだって・・・言いたかったの。そして・・・ただ・・・泣きたかったの・・・。」

おでこに当てた2人の手に、コウキはもう片方の自分の手を添えた。そして、自分のおでこもそれにくっつけた。何も言わず・・・。黙ったまま・・・。

・・・彼が嗚咽するように泣いてる・・・ただそれだけが、奈津に静かに伝わってきた・・・。

いつの間に、雲間ができたのだろう・・・。満月の前のまん丸になりきれていない月が顔を出す。幼すぎて頼りない・・・でも懸命な2つの魂を、月明かりがそっと見守る。荒波で出会って、手が触れ合い・・・今やっとその手を握り合った・・・。そんな2つの魂を月の光が優しく包む・・・。

月は何も語らない。泣くことしかできないこの2人を、ただただ黙って見守る・・・。光だけ、優しく注ぎながら・・・。

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