第二章 聖女と獅子

第1話 疑念と密偵姉弟

「シホー、戻ったよおー!」


 出し抜けに明るい女の声が、天幕内の静謐な空気を破った。肩までで切り揃えた浅緑色の髪は、声質と同じく、春の若葉のように快活に揺れ、天幕内の薄暗い灯りの中で、きらきらとした輝きを放っている。目尻の垂れた、甘やかな顔立ちのその女性を、笑顔で迎え入れたシホは、遠征用の簡易机の上に置いた眼鏡を掛けた。


 二日前、早々に準備を整え、聖王都シュレスホルンを発ったシホ・リリシアの一団は、レネクルス領まであと一日、という所で野営を張っていた。天空神教最高司祭の一人であるシホが、自身の私設武装組織とも言える『聖女近衛騎士隊』を従えての遠征である。本来であればそれ相応の宿営地を経由して移動するのだが、今回は急を要する、と判断し、最短の経路をシホ自身が選ばせた為、ここで天幕を張ることとなった。


 急を要する。


 シホがそう判断したのには、レネクルス領が侵攻を受けている、という事実以外に、ある懸念があった。いや、疑念、と言うべきだろうか。一つ、どうしても引っかかる事があり、出立を急いだのだった。


 神聖王国カレリア上層部は、突然の出立の申し出に、相応しい準備をさせる、と躍起になったが、シホ自身がそれをさせず、また、感じている疑念は表に出さず、兎に角急ぐ必要がある、とだけ押し通し、聖王都を後にした。


「戻りました、シホ様」


 後から入って来た人物は、その前に天幕に現れた女性と、よく似ていた。同じ浅緑の髪を耳に掛かる程度の短髪にし、性別を男性にした分、筋張った顔立ちではあったが、目鼻口、基本的な部分は全て同じだった。目尻の垂れた、優しい印象の男性は、シホと同じ十七歳だったはずだが、まだあどけなさもあり、年齢よりも幼く見えた。


「ええ、お帰りなさい、エオリア、イオリア」

「もう、疲れたあ。でもでも、シホの言ってた通りだったよお」

「……姉さん、シホ様、お困りになられますよ、そんな態度では……」

「いいじゃない、誰もいないんだし。それに最近のシホは肩に力が入り過ぎてる、っていうか? 何か固いのよねえ、顔が。いや? 目も? ほっぺもかな?」


 女性的な声色で、シホに擦り寄り、両手でシホの頬を引っ張る。輪郭が変わる程握られるが、シホはそんな彼女の態度が、嫌いではなかった。寧ろ、先の大きな『非現実』との戦い以来、公の場では気を張って生きているシホにとっては、大切な同年代の友人とのふれあいの様に思えて、構えない彼女の態度を好んでいた。彼女……エオリア・カロランはシホよりも二つ年上のはずだったが、やはり顔立ちのせいか、シホと同じ歳か、それ以下に見える。しかし、エオリアがシホに接する態度を、意識的に身近なものに変えた経緯が、先の大きな『非現実』との戦い以降である事を思えば、その気の周り方は、やはり年長者の物のように思えた。


「姉さん……」

「いいんですよ、イオリア。それより今回も大変な事をお願いして、申し訳ありませんでした」

「いいのよお、シホは。そんな事気にしなくて。ああ、シホのほっぺは柔らかくて気持ちいいわあ」

「……その、ご報告に上がりました」


 姉の態度を咎める、生真面目な弟であるイオリア・カロランは、シホが二人に頼んでいた、ある調査の結果を手に持っていた。紙の束を手渡され、身体に纏わりつくエオリアを抑えながら、それを受け取ったシホは、ざっとその数枚の報告書に目を通した。


 耳に掛かる金色のつる部分に、細微な装飾を施した眼鏡越しに、並んだその文言を見たシホは、やはり、と納得した。


「シホの読み通り、あいつら、騎士団を近郊に隠していたわ。明日の昼くらいには、ルートクルス城まで至るでしょうね」


 シホに抱き着いたまま、しかし声音と表情だけが一瞬にして変わったエオリアが、報告の先を続ける。


「この侵攻、確かに何かありそうな気がするわ。時期、場所、規模、これ程全てが、完璧に揃った侵攻。そこに来て、隠されていたあいつらの騎士団」

「……一体、これは何がどうなっているのでしょうか、シホ様」


 礼儀や態度は緩いが、自ら考え行動する事に長けたエオリアと、規律、戒律を絶対尊重するが、その分飛び出した個人的思慮はないイオリアが、それぞれ彼ららしい表情を見せる。何がどうなっているのか。イオリアの言葉に、シホは思考を巡らせた。


 確かに疑った事ではあるが、これ程予想通りの展開が待っているとは思わなかった。であれば、その先も、シホが予想した通りの内容になるのだろうか。だとすれば、神聖王国カレリア上層部では、一体、何が起こっているのだろうか。


「わたしにもまだ、分かりません。いまは……そう、いまはまだ、見守る他、ないのだと思います。わたしたちは、わたしたちの為すべき事を為しましょう」

「百魔剣、ですね」


 イオリアが言う。エオリアも無言ながら、にやり、と微笑んだ。


 先の大きな『非現実』との戦い以降、二人には通常の神殿騎士団とは異なる任務を任せていた。『聖女近衛騎士隊』の一員、という枠組みにはなっているが、それよりもさらに踏み込んだ、シホの密偵として活動して貰っている。公の個人としての彼らは死に体で、存在すらも伏せられた暗部と化していた。それをシホが望み、彼らがそれに応えてくれていた。百魔剣という常識を逸脱した力を、先の戦いの中で目の当たりにした二人だからこそ、受けてくれた事とは思っているが、こうしてシホの言葉に耳を傾け、その意志の代行執行者として動いてくれる事には、感謝と、わずかな負い目がシホにはあった。


「アンヴィの一件以来、大きな衝突はありませんでしたが、もし今回の侵攻に百魔剣の力が絡んでいるのだとすれば、大きな争いになる事は考えられます」

「その為のわたしたちじゃない、イオリア。その為に、わたしたちだって、それ相応の準備を進めてきたわけでしょう?」


 エオリアが妖艶にも見える笑みを深める。幼い顔立ちに似つかわしくない種類の笑みだが、その不釣り合いが彼女という人間でもあった。


「勿論じゃないか。その為に、シホ様と同じ対抗策を身に着けたのは、姉さんだけじゃないんだからな」


 こちらは少し向きなった様子で反論する様が、何とも年齢相応で、しかしやはりそういう生真面目な姿がイオリアらしい、と思える。凹凸と言うべきか、阿吽と言うべきか。互いに補完し合っているかのような姉弟きょうだいの姿は微笑ましく、シホはつい笑ってしまう。


「久しぶりに見たよ、シホのそういう笑顔ぉ」


 エオリアの指摘に、シホは笑顔を苦笑に変えるしかなかった。


「汚れ仕事や戦いの先陣は、わたしたちやルディやカーシャねえに任せればいいのよ。騎士長も戻って来たしね」

「ええ。戻られたクラウス騎士長と手合わせ頂きましたが、全く敵いませんでした……そ、それでも勿論、わたしなりに最善を尽くしたいと思っています」

「何、あなた、騎士長に挑んだの? で、手も足も出なかったの? もう少し強くなったと思ったのに」

「そ、そりゃあぼくだって、少しは強くなったつもりさ。でも騎士長は……」


 仲が良く、暗部の密偵にしては明るすぎる姉弟喧嘩を見ながら、シホは改めて、この家族の様な温かな人たちとならば、如何なる戦いにも臨んでいける、と思った。その為に、シホは公の場では『聖女』であり、『天空神教最高司祭』であり続ける決意をした。こうした時間を守る為に、この天幕を一歩出れば、また戦い続ける時間がやって来る。それでも、本当の破綻、本当の災厄に挑む為ならば、自分にしか出来ない戦いに挑もうと決めたのだった。百魔剣、という超常の力、常識を超える非現実との戦いの為。そして、この遠征では、侵攻したオードと、不穏な動きを見せる神聖王国カレリア上層部という、不特定の戦いも起こるかもしれない。


 そのいずれが、どの様に押し寄せようとも、シホは戦い抜く決意を強くした。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る