第142話毒牙に怒気を孕ませて

 赤子の泣き声が静かな闇夜に響いた。

 あるはずの安堵はないが確かな喜びはあった。

 頼也はその小さな命を受け取り夜影によく見えるように顔の傍に寄った。

 夜影は悲しげに、だが嬉しそうにも笑んだ。

 その小さな小さな掌が夜影の指を握る。

 赤子を夜影へ、そして身を引いた頼也は身を震わせていた。

 廊下にいた才造は床に手を着き安堵と喜びに震えたが寧ろ声が出ずにいた。

 大きく息を吐いて、目を閉じる。

 頼也が廊下に顔を覗かせ才造を小さな声で呼び中へ入れる。

 才造が息を切らせて任務から帰ってきた瞬間の産声だった為に廊下でその身の力が抜けたのだろう。

 呼ばれてゆるりと体を起こし覆面を降ろした。

「才造、男の子。」

 夜影が才造にそう告げるのを聞きながら頼也は廊下へ出てそっと閉めた。

 そして壁に両手をついて座り込んだ。

「頼也、ご苦労だった。」

 伊鶴が頼也を見下ろし僅かな笑みを浮かべる。

「帰ってくるのが遅い。馬鹿な旦那だ。」

 本当は、産まれる瞬間に才造を立ち会わせてやりたかったのだ。

 夜影が望んでいたように、そうしたかった。

「馬鹿だ。」

「ああ。」

 一番に気を張っていたのは頼也だった。

 夜影も赤子も無事、才造も死なず。

 いつもより疲れを感じ、なんとか立ち上がったがこれ以上何かをする気は起きなかった。

 赤子を抱いた才造は目を細めた。

「よく頑張った…よく、産まれてきてくれた…。」

 夜影と赤子にそう掠れた声で言う才造に夜影は目を閉じる。

 本心は才造に産まれる瞬間を立ち会って欲しかったが、それは叶わなかった。

 勿論、才造が悪いわけではない。

 息を切らせて帰ってきてくれた、我が子をちゃんと抱いてくれた。

 だけど今度は遅刻してくれるなと言っておこうかと考えながらゆらゆらと眠りに落ちていく。

 夜影を抱き締めてから才造は部屋を出た。

 部屋を出てから感じた気配に恐怖を覚えた。

 振り返った時には遅かった。

 油断を突かれたのだ。

 才造は咄嗟に我が子を見たが狙いは最初からそこだったのだろうその首はなかった。

 吐き気がした。

 続けて夜影を襲う敵を前に、才造の理性は切れていた。

 頼也、伊鶴も気配を感じ走って戻ったがそこにある血と小さな死体とを見て絶望さえ覚えた。

 そして才造が尋常じゃない殺気を放ちながら敵の忍を片っ端からぶっ殺している状態がある。

 夜影は出産直後で動けなかったのだろう怪我はあったが放心状態だった。

 敵の忍が死んでも才造は何度も刺し、息を切らせて怒鳴った。

 才造が本気で怒っているのを見たのは久しぶりのことだ。

 頼也は才造に圧倒され寧ろ怒ることはできなかったが息苦しく未だ名も無き赤子を抱き上げた。

 転がっている首を拾い上げて伊鶴を振り返る。

 呆然とする伊鶴に、頼也もどうしていいかwからず何も言うことはできなかった。

 夜影の傍に赤子の死体を置くと、夜影の両目から涙が溢れて流れていった。

 死体が面影さえなくなくほどに切り刻まれて、それが人であるのかさえわからなくなったところで才造はその手を止めた。

 静かに泣いている夜影の元に寄って抱き締めているのを見ながら、頼也は悔やんだ。

 産まれたことへの安堵で気を抜いていた。

 この様子ではこのことを主に報告するのは無理がある。

 頼也はそっと離れて伊鶴に任せ、主の元へ向かった。

 産声は主にも届いていたらしい、笑顔を見て苦しくなった。

 だが言わぬわけにもいかぬ。

 なんとか主に全てを伝えた。

「…そうか。折角、戦の力を得たと思うたのだが。次に期待しよう。夜影と才造は無事だな?」

 気が付くと頼也は主の頬を殴っていた。

 ただ一度殴ってしまうと、殺してしまうまで殴りたくなった。

 倒れている主に歩み寄って拳を震わせる。

「…頼…也…!」

 主に集中し、濁流の如き唸る我が怒りを真っ直ぐと向ける。

「頼也、落ち着け!」

 冬獅郎と明朗に腕を掴まれたが、どうでもよかった。

 親友の為ならば誰であろうと殺せる。

 そのくらいは理性が切れていた。

 血が天井から落ちてきて、音を立てた。

 畳の上を赤く染める。

 夜影が降り立ち、頼也はやっと殺意を怒りを抑えることができた。

「夜影、頼也を…。」

 その先にあった言葉はわからない。

 ただ、声の途切れた次に聞こえたのは畳を転がる首の音と、血が飛び散った音だけだった。

 静かな、ただ極めて静かな夜になった。

 才造は我が子を抱いて座っていた。

 泣こうにも涙が出てこない。

 動こうにも体が動かない。

 伊鶴がその背中を擦ると、我が子を強く抱き締めて身を震わせた。

「すまん…。」

 その掠れた声が静かに落ちていった。

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