第134話異常事態

 報告書に目を通し眉を潜めていると才造の気配がした。

 振り返ろう気もなく、何を言うかと待ってみた。

 何を言うでもなく才造は傍まで来て夜影を報告書から引き剥がした。

 今夜は眠るつもりで敷いた布団の上に夜影を寝かせ上に覆い被さった才造の目を見つめ嫌な予感がした。

 その手が頬を優しく撫でる。

「仕事が残ってる。」

「それがどうした。」

「片付けなきゃ。」

「しなくていい。」

 構えと言わんばかりの返答に溜め息をついた。

 立場的にはそれを言えるところにいるのは夜影の方だ。

 だがどうだ、この忍は今忍隊としての立場を置いておいて本当に旦那としての顔でものをいう。

「どうしたの。」

 もう返答はない。

 覆面を外し首を舐めて、手が体を這ってくる。

 両手で押し退けようとしても力が足りなかった。

 こんなことで頼也や伊鶴を呼んでも仕方がない。

 こういう時は目を閉じて眠ってしまいたい。

 才造の求める目が怖くて苦手なのだ。

 仕事は諦め睡魔が来ることを願いながら目を閉じた。

 瞼を舌で撫でられて、それから両手で頬を包まれる。

「目を開けろ。寝るな。」

 恐る恐る目を開けると、その目と目があう。

 その、どうしようもない目が怖い。

「逃げるな。」

 低い声が耳元でそう囁いてくる。

 体が麻痺したように動かなくなった。

 どうせ動けないなら眠ってその間に好きにしてくれた方がずっといい。

「嫌。頼也。頼也っ!」

 才造の様子がどう考えても可笑しい。

 その目も言葉も今は受け入れたくない。

 叫んで助けを乞うと口を口で塞がれる。

 そして離れた頃には体が恐怖で震えてしまってもう抵抗への力は一切残っていなかった。

「ワシ以外の名を呼ぶな。」

 頼也が来ないことに、不安が膨らむ。

 嫌な夢であって欲しい。

「頼也!伊鶴!小助!冬獅郎!明朗!海斗!鎌之助!三好!」

 十勇士の名を叫んで、誰でもいい反応を寄越して欲しいと願った。

 それでも来ないものは来ないし返答もなかった。

 才造の苛つきが増すだけで、首に噛みついてくるその傷みに混乱まできた。

 こんなことならば任務といって外に出ていれば良かった。

「虎太ッ!」

 もう藁にもすがる思いで最後の希望の名を叫んだ。

 風の音が聞こえない外に耳を澄ます。

 いっそ殺してくれてもいい。

 そこまで恐怖が迫っていた。

 風が唸った。

 鈍い音がして覆い被さる重みも失せる。

 そして体が浮いた。

 虎太に抱き上げられていることに気が付いて目を見開く。

 そして才造がゆらりと立ち上がり殺気を放つ。

 虎太は夜影を抱えたままその場から素早く去った。

 才造の追跡を振り切って、草然の屋敷に連れられる。

 降ろしてもらってから涙が出てきた。

 虎太に抱き着いて声を殺して泣いた。

 恐怖からの解放と安心感に泣かずにはいられなかったのだ。

 落ち着いてから虎太に頭を下げた。

 虎太からすれば忍び込んで情報を探ろうとしていたら震えたこえで名を叫ばれた。

 その声が夜影のものであったことはわかっており、何か可笑しいと感じながら言ってみれば助けを求めていたので咄嗟に才造を蹴り飛ばしただけだ。

 才造が夜影を殺そうとしていたわけではないだろう。

 それでも夜影は恐怖で震えていた。

 そして才造の殺気からそのまま夜影を連れて逃れることにしたのだ。

 連れてきてしまったがどうすることもできない。

 今から戻れというのも無理な話だ。

 よくよく思い出してみれば夜影の声は虎太以外の名も叫んでいた。

 それでもこの状況にあったということは。

「どうした?それは…武雷の!」

 しまった。

 たとえこんな状態でも敵は敵である。

 話してどうにかなるものでもない。

「あら?ちょっとお待ちになって。」

 主の妻がそういって傍まで来た。

 涙がまだ収まっていない夜影は両腕で顔を隠したが、隠してもわかってしまう。

「何があったの?連れてきたのは、きっと何か事情があるのでしょう?」

 察してくれたようだ。

 敵の忍とわかっているはずだ。

 言葉が出ない夜影はその優しさにさえも怯えるように顔を背けた。

「ふむ…ならば落ち着くまで待つか。武雷の忍を頼むぞ。」

 虎太はそれに頷いた。

 妻の方は心配そうに夜影を見つめ、離れようとはしない。

 やがて夜影が徐々に落ち着いて、二人にあったことをぽつりぽつりと話していった。

 才造の目が普通ではなかったのだ。

 いつもならば嫌と言えば控えるし、控えられないほどだといってもあそこまで酷くはない。

 何よりも、異常に恐ろしく感じたのだ。

 あの目も声も。

「そう…。」

 夜影ほどの者ならばたとえ旦那でも抵抗して逃れることもできたであろう。

 それなのにできなかったのは恐怖が勝ってしまい冷静でいられなくなったからであろうか。

 その頃、夜影の声に応じることもできなかった頼也らは縛られていた。

 才造が夜影を襲うのを邪魔しないよう、声さえも。

 伊鶴は縛りつけても仕方がないので気絶させられていた。

 夜影の声が十勇士の名を全て呼んでそれから敵の伝説の忍を呼ぶのも聞こえていた。

 必死に助けを乞うて叫んでいるのを聞くことしかできなかった。

 冬獅郎はなんとかしようと夜影がいる一室まで廊下を凍てつかせ氷の刃先だけでも届けと努力はしたものの、それは叶わなかった。

 明朗の水も、頼也の閃光も届かない。

 一室の周囲は才造の霧が漂っておりよくは見えない。

 風の音が唸ったことに十勇士は間に合ってくれと願った。

 少しして才造の殺気を感じ、緊張が走った。

 伝説の忍が夜影を抱き抱え走り去るのを追って才造が走ってゆくのを見て、そのまま逃れきってくれと睨んだ。

 それから暫くして才造のみが怒りつつも戻ってきたことに安堵したのだった。

 才造の異常な状態から、何か施されていることは明らかだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る