第88話道理で

 今にも泣きそうな顔で、そう乞うた夜影に、ふつふつと怒りが沸き起こる。

「夜影、忘るることなかれ。よいか、お前の主は某だけではない!」

 その目がこれでもかと見開いて、揺れる。

 その言葉に反して、その手に抱えておる木箱はなんだ、と怒鳴りたくなったが、駄目だ。

 これは、真に迷い子となってしまっておるのだ。

 導いてやらねばなるまい。

 夜闇では、何も見えまいに。

「蘭丸殿も、残崎殿も!夜影の主だ!そして、他の過去の者も!夜影の主であった者全て!」

 首を振る。

 否定してはならぬ。

 逃げてはならぬ。

 その顔を振らないように固定してやる。

「ただ一人ではない!よいのだ、それで。お前ならば間違えまい。」

 そうだろう?

 揺れるその目の奥で、何かが蠢いた。

「夜影が忠義を誓っておるのは、真は某でも無いではないか。蝶華から聞いた。お前の真の忠義は、」

「あんた様は何もわかっちゃいない。」

 遮ってそう放たれた冷めた声。

 顔を固定する両手の甲に、夜影の両手がそれぞれ重なった。

「あんた様は、何もわかっちゃいないよ。」

 繰り返し重みをつけてそう言った。

 才造の溜め息が後ろから聞こえる。

「現実を見れない忍に、何が出来る?過去の夢ばかりを見て、それでいいわけない。」

 両手を掴んでそれを外し、降ろさせられた。

 もう迷い子のような顔も目もそこには無いが、まだ、目の奥で何か猫のようなモノが蠢いている。

「今を見ない、それ則ちあんた様のことを見ていないのと同じ。主であるあんた様を。」

 それではいけない。

 そうわかっている。

 理解はあるのに、言うことを聞かない脳を否定して諦めさせて欲しいだけなのだと、目はさらに語った。

「失礼でしょうが、今まで主と共に生きる間、過去の主を思うたことは片時もありません。」

 それがどうだ、お前という主に仕えてからはどうしようもなく過去の主が頭から離れないのだ。

 そう、暗黙に言われている気がする。

 いや、気がするのではなく、そうなのだろう。

 才造が壁を拳で一度叩いた。

 それに驚いて振り返る。

「つまり、六郎様が夜影の主に相応しくない、と言いたいのか?」

 才造の問いに夜影は溜め息をついた。

「少なくとも、相性が悪い、と…。」

 それが意外にもすとんと心に収まった。

 今思えば、そうなのかもしれん。

 それが何故かしっくりくる。

「やけに正直な事を言う。主、主とうるさいのお前が、『相性が悪い』だと?」

「主を選ぶことはしない。けれどね、こればっかりは。」

「道理で、書物に描かれた内容を妙に裏切る奴だと思えば。」

 どうやら才造にも違和感があったらしい。

 しかし、どうしようもなかろうに。

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