第81話過去を呼ぶな

「そういえば、輪丸という者の名を呟いておったな。」

「輪丸…?主の名ではなく?」

「うむ。言い方が吐き捨てるようであったからな。」

 夜影が輪丸という者を火を見て思い出し恐怖したとは思えない。

 輪丸ではなく、火自体に恐怖したのだろうが、火に飛び込んでいくまでもした夜影が恐れていたとはやはり考えにくい。

 だが、恐れながら先程の話のように抵抗したのであれば、そういうことなのだろうか。

 だが、輪丸とは?

「夜影に聞いてみますか?」

「いや、それはならぬ。夜影が一瞬怒った目をしたのだ。」

「怒る?というと、それほど嫌っている者、でしょうか?」

「わからぬ。」

 夜影の好き嫌いは意外とはっきりしている。

 才造からすればなかなかに慣れてきた今頃はその好き嫌いの差も伺える。

 本当に、極端だった。

 好むモノには愛想さえあるが、嫌いなモノはとことん嫌って殺意さえ持ち出そうとするのだ。

 怒るのもわかる。

 輪丸という者が主の名であったならば、『様』と付けるだろうし、夜影の性格からして吐き捨てるような言い方は出来ないであろう。

 では夜影とそこまで接点があった人物で、主ではない何か。

「忍…でしょうか。」

「輪丸がか?」

「はい。もしかすると、同郷の忍だったのでは?」

 主はそれには頷けなかった。

 同郷の忍ならばそこまで酷い目はしないのではなかろうか。

 夜影の友であり、裏切られたというのならばどうだろうか。

 夜影は忍の『裏切り』というものにあまり何かを言うようなことはしない。

 忍はそういうものだ、と片付ける時でさえあった。

 ううむ、と二人して唸る。

 本人に聞かなければ、わからぬ。


 目を覚ました夜影を才造は再び抱き締めて、頭を撫でる。

 それに抵抗はしないが、戸惑う夜影は目を泳がせた。

「夜影、何に恐怖しておった?」

 そう問い掛ければ、夜影ははたとその目を主へ留めた。

「あのように取り乱すのは怯えておったのだろう?」

「何を、」

「火事の時か?戦で何かを見たのか?」

 遮って問われるそれに夜影は目をそらして、眉をひそめる。

 考えるようでもある。

 自覚がない、のかもしれないが。

「どうか、この事は忘れて下さい。」

 夜影の答えはそれだけであった。


 主が去ってから、夜影は途端に震え始めた。

 撫でる才造に顔を埋めて、震える。

 才造はその変化に目を細める。

「何があった?」

 その問いに夜影は震えた声で答えた。

「あの時の火柱が、また、殺そうとするんだ。あの火が、また、壊しにくる。」

『あの時』がいつのことか、才造にはわからない。

 けれども、夜影の記憶にこびりついた外傷とらうまなのだろうと察した。

 夜影はやはり、あの火事で恐怖を感じていたのだ。

 そして焦っていた。

 夜影が恐怖に怯えて足が竦むほど弱くはないのはわかっている。

 夜影なりにそれらに対して少しは克服を覚えようとした努力はきっとあった。

 しかし、夜影には重すぎたのだ。

 あの戦で突如狂ったのは、その恐怖がまだ心に残ってしまっていたからか?

 切り替えも立ち直りも早い夜影が?

 そうとは考えられない。

「夜影。戦で何を見た。」

 夢と答えるかもしれない。

 それでも何か掴まなければ。

「火矢がいっぱい、迫ってきた。それに燃やされて騎馬が鳴くんだ。鳴いてたんだよ。」

 息を切らせそう告げた。

 夜影には動物の言葉がわかる。

 もし、その時、騎馬の言葉が悲痛で、それが聞こえていたならば。

 その燃える姿とその悲痛な言葉できっと記憶を抉り返されただろう。

 夜影が狂い始めたのは戦が始まってから暫くたった後であったが、その前から夜影の目は何処か不確かだった。

 もう既にその時点で夢を、見ていたなら。

「輪丸とは誰だ?」

 夜影の爪がこの身に食い込む。

 爪を立てて、息を詰まらせた。

「すまん…。苦しいか。未だ、怖いか。」

 縋るように。

 夜影のその様は幼い子が怯える様子と酷く似ている。

 その頭を撫でながら、もう、これ以上の言葉は作らなかった。

 夜影の震えが収まるまで、ずっと、そうしていた。

 夜影は何かに縛り付けられている。

 記憶なのか、それとも他の何か。

 それらからの解放を望んでいるのだろう。

 発散さえも。

 心の奥にあったそれらが夜影に不可思議な夢を見せた。

 そして、夜影は確かに迷った。

 戸惑った。

 静かな部屋には、何の音も流れなかった。

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