第65話忍には
「夜影、これは何と書いてあるのだ?」
主が夜影の書いた紙の上の文字を指差した。
忍であれば読めるのだろうが、主には読めないだろう。
いくら忍使いの武家に生まれ育ったとはいえ、
「興味があるのでしたら、お教え致しましょうか?」
「難しいのか?」
首を捻るそれは難しいのならば遠慮しようという目だ。
「人間様とそう変わりは致しません。いろはさえ知っているのであれば。知っておりますよね?当然。」
教えるのも面倒だが、知っていて損も得も無いだろう。
得があったとすればさて、どんな時になるやら。
「うむ。それは母上に教わったぞ。」
頷く主に夜影は主が救いようのない馬鹿でないことを再確認する。
稀にいるのだ。
無知な力のみのお馬鹿さんが。
『色はにほへど散りぬるを 我が世たれぞ常ならむ 有為の奥山今日越えて 浅き夢見じ酔ひもせず』
というのは、いろは唄とし知れ渡るもの。
『いろはにほへとちりぬるを わかよたれそつねならむ うゐのおくやまけふこえて あさきゆめみしゑひもせす』
と平仮名では書く。
これを元に忍特有の漢字で書いたものが忍いろは。
『木・火・土・金・水・人・身』と、『色・青・黄・赤・白・黒・紫』を組み合わせたもので、いろは方式で五十音全てあるのだが、『身』と『紫』を組み合わせた漢字は存在しない。
これの使い時は、忍同士の
人間様には普通わかるまい漢字であるが為、隠したい内容には持ってこいなのだ。
これを主に教えたとして、主が何かの拍子に忍のそれを入手し読んだ時にはわかるだろう。
だが、そんな機会は滅多にない。
だから得があるかないか微妙だ。
まぁ、忍隊と主とのやりとりが可能にはなるかもしれない。
普通、存在しない漢字ばかりになってしまい、読みもまた…となるのだから人間様に見られても困らない。
あの頃の恋文も忍いろはだったな…。
「うむ…覚えにくいな。」
「まぁ、覚えずとも困りませんからね。」
「気が向いたら覚えるとするか。」
「そうですか。」
「夜影や才造は酒を飲まぬのか?」
「ワシは、好みません。必要でなければ飲みません。」
「飲む時は飲みますが、酔いません。」
何を思ってそんなことを?、と二人して眉を寄せる。
「ならば夜影、宴会に付き合うてはくれぬか。」
「
「そうであったか!」
宴会は才造に向かない。
逆に夜影は宴では昔から舞を披露させられたり、ご馳走を用意させられたり、始まりから終わりまで色々とさせられているので問題は無いのだ。
「しかし、何故才造は好まん?」
「『忍の三禁』です。」
そう言い残し立ち去った。
主は首を傾げた。
主は忍を使うにもう少し学が欲しい。
いや、治郎様にはその程度の知識はあるのだろうから、きっと我が主となる者それぞれがたまたま全員そうなのかもしれない。
「『忍の三禁』とはなんだ?」
「忍が気を付けなければならない三つのものです。」
「その三つはなんだ?」
「『酒』、『欲』、『色』です。」
酒に溺れて酔えば確実に仕事がこなせなくなる故に。
欲に溺れてしまえば周りが見えなくなる故に。
色に溺れれば此処ぞと情報を探り暴かれてしまう故に。
この三つは気をつけなければならない。
「して、夜影は『酒』は平気なのだな。」
「飲んでも呑まれた事は御座いません。酒には強い体質なので。いくらでも飲めます。」
それには驚いた顔をする。
酒に酔わぬも日ノ本一かもしれぬ。
「ついでに『忍の三病』もお教え致しましょう。」
「ほう。」
やけに興味津々だ。
「忍が仕事をするにあたって陥り易い三つの落とし穴のことですが、知っておりますか?」
それに首を振る主に夜影は人差し指を立てた。
「一、恐怖を抱く。」
赤い目を煌々と光らせる。
主はそれに僅か恐怖した。
次に中指も立てた。
「二、敵を
影が広がり主の座るそれさえ覆う。
しかし、その影へと目をやることは出来なかった。
最後に隣の指を立てて。
「三、思い悩む。」
そして全てを解除した。
主はその瞬間に解放される。
忍は一瞬の機会を逃すと失敗に繋がってしまうのだ。
恐怖心は、集中力を奪う。
敵を軽く見ると思わぬ反撃を食らってしまうことがある。
いつまでも迷っていれば、一瞬の判断が必要な時、それさえ出来ず命取り。
「
「夜影でもあるのか?」
「ええ。敵を侮ることです。つい、敵を軽く見ては…。」
溜め息をついて反省の色を見せる。
事実であるからだ。
敵を侮り、時にはからかい、時には容赦なく潰す。
それを楽しんでいるのもまた、悪い癖だろう。
「しかし、負けぬだろう?」
「侮って負けたことは御座いませんが、だからとて、本気で戦ったことなぞありません。」
夜影はふと耳を動かした。
鶯瓦が鳴いたように思う。
目をその先へと移せば、一瞬のそれが見えた気がした。
「主、見逃してもよろしいでしょうか?」
「何をだ?」
「侵入者らしき者を今捉えまして。」
「ようないだろう!?」
面倒だと思いながら立ち上がる。
それから影へと身を沈めた。
また、侮っては始末してしまうのだろうが。
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