第55話心を聴け
馬小屋にはある一頭の暴れ馬がいた。
騎馬として育てられた、つもりだったが人を拒絶し、忍も上手くは扱えない。
黒く大きな体は、力強くその足で地面を蹴ってブルルッと
主はそれを困りどうしたものかと悩んでいれば、そこへあの忍が姿を見せた。
「何の用だ。」
「お馬さんのお世話を、とね。」
「お前がやる必要はない。お前は信用ならん。大事な騎馬に何をされるかわかったものではないからな。」
その鋭い目と声、そして言葉に従うわけでもなく、忍はふっと笑うた。
からかうようでもあるような笑みが苛つかせてくるのだから、気が収まらない。
「出て行け。」
「残念ながら、このお馬さんだけはあんた様の所有騎馬ではないじゃないですか。」
「それがなんだと言うのだ!
忍は迷わずその暴れ馬に近寄る。
それを見て蹴り上げられさえすれば良い等と思ってしまった。
しかし、蹴り上げるどころか黒い騎馬は大人しゅうなったのだ。
「わかるかい?あんたが子馬の時、一緒に歩いたよね。」
その手は騎馬に触れて撫でる。
語りかける声はどこまでも優しく、騎馬はそれに応えるようにその顔を擦り寄せた。
「人様が怖いかい?こちとらを殺した人間様が、怖いのかい?」
忍の言葉が信じられず、主は目を見開く。
大事な騎馬に良からぬことを吹き込んでおるのではないか、忍術で操っておるのではないか、そう思えて仕方が無かった。
「外は走ったかい?」
その問い掛けに騎馬は何と返したのだろうか。
忍には聴こえておるのだろう。
「嗚呼、あんたは走れないのか…。」
残念そうに、悲しげに忍は呟いた。
もう、そこまでが我慢の限界だった。
「
「はっ。」
「
「
その短い言葉を聞き取った忍は振り返り、笑んだ。
わかっていたのだ。
この騎馬に会うことで、会話することで、騎馬が救われたとしても、己は許されないと。
才造のその手が伸びる前に差し出す。
さぁ、捕らえてくれ、と。
それが、仕事なのだろう?とばかりに。
「何をやらかした?」
才造の問いに、忍は答えようとはしなかった。
ただ、牢の中で周囲を懐かしげに眺めては笑みを浮かべる。
どう見ても記憶を辿るようで、知りたくなる。
「この牢に何かあるか?」
「懐かしいのさ。そうだ、ここにね、
此処に、と手を置いては撫でて、目を細める。
久しぶりだ、というように。
決して牢はそういった思い出を語る場ではない。
だというのに、これはなんだ。
「ふざけるのも
「あんただって、こちとらを牢に閉じ込めたかったくせに。」
見透かすように言うと、身を落ち着かせて伸びをした。
くつろぐ気か。
才造の顔はいつもより険しくなる一方である。
「今この場で処分しても構わんぞ。」
「それでもいっそいい。お望みのままに。」
牢に響いた音は、声では無かった。
忍は悲鳴も涙も知らないように、笑むのだ。
痛みは?
そんなもの、効いてはいないのだと示される。
「何が可笑しい。」
「嫌なら殺せばいい。それでもあんた様はいたぶるばかりで。」
「治郎殿が
「『某はお前を認めておらぬ。』でしょう?知っておりますとも。」
息を吐き出して縛られたまま器用に身を正しく起こす。
そして真っ直ぐと主を
笑みを捨てて、無表情を
『
先程までを偽りであると、演じていたのだと、無言で語るのだ。
「お前はなんなのだ。」
「あんた様の、」
「某の忍ではない。」
「ええ、そう
態度を変えた忍が、また別人のような素振りをするから、今までいたぶっていたのを忘れてしまいそうになる。
「ならば、何と言いたい?」
「貴方様の、捨て駒となりましょう。」
捨て駒。
その言葉の意味を知らないわけではない。
ただ、嫌いな響きではあった。
忍の顔が
血を吐き出して、
その目は、否、忍は『無』である他なかった。
それが酷く気味が悪かった。
戦場に出る。
荒れた戦況は、我が軍の
「捨て駒と言ったな?ならば行け。そして終えるまで戻ってくるな。」
「御意に。」
あの忍を野に放つ。
姿を影にして、何処かへ去った。
「主……流石に死ぬのでは?」
「それが何か問題か?」
「いえ。」
問題か、と問われて問題だと思うのは己のみだと才造は目を閉じる。
『日ノ本一』が
嗚呼、そういう思考が甘いのだと主と才造共に思うたのは、たった一匹の忍が戦の幕を降ろす頃であった。
忍は、影を広げて騎馬や足軽やの足を囚える。
そしてその首を一瞬にして十も二十も奪えば。
終わらせれば主は満足か、否、戻るなということは此処で逝けということか。
そう思考しながらも、徐々に『伝説』を繰り返そうとしていた。
この身に刃が当たれどそれが何だというのだ。
弾が当たれど、何だというのだ。
殺せ、殺してしまえ。
終われ、終わらせてしまえ。
喰いちぎった、抉り抜いた、もぎとった、切断した。
それを、投げ捨て踏み潰す。
意識なぞとうに飛んでいた。
刃を首に突き立てて、見下しながら、その身を踏む。
ここで止んだのは、敵陣の大将を己は始末して良いものなのか、ということだった。
主の獲物なのではないのか、己が喰いちぎって良いのだろうか。
戦況の話どころではなく、敵陣はもうこの大将以外は討った。
生きてはおるまい。
人である面影さえない血肉の海で生きておる者は此れくらいだ。
刃を振り上げる。
戦を終えるまでは戻ってはならない。
ならば、殺して終わらせてやろう。
そして、己も終わってやろう。
戻るは来世。
それでいい。
それが望ましかろう。
ザシュッ
地に落ちた首を見下ろして目を細める。
さて、だ。
吐き気がした。
目の前の戦場は、敵陣の人というものもおらず、血肉の海が広がるのだ。
草の緑は見えぬほどに赤に染められた地。
そして、この屍の異臭。
その先では、最後を躊躇し刃を向けて身を止める忍がいる。
何を躊躇ったか知らぬ。
しかし結局は素早く首を落とした。
誰一人として生きて帰さぬ気であったのか。
才造を見やれば、目を見開いて固まっていた。
ここまでとは、才造ですら思えぬことであったらしい。
さらには、首を落として戻ってくると思うておったのだが、彼奴は天を見上げて刃を己の首へと向ける。
何のつもりか、と問う必要は無かった。
此処で、意味もなく、逝くことを選んだのだ。
何を思ってそれを実行に移るのだ。
「才造、あれを、」
止めてこい、と命令しようとした瞬間に、あの忍は己を刺した。
「……拾うてこい。」
「…………。」
「才造?」
もう一度振り返れば、才造は我に帰ったように頷いて素早く忍の元へと走った。
才造が抱えてきた時、忍の息は微かにあったが、この状態のまま放置したならば確実に死ぬのであろうとわかる。
何故、を問いたかった。
捨て駒の名の通り、捨てられようとでも思うたか。
戻るな、と言うたのを実行したか。
終わるまで、を己を含めてのことと捉えたか。
わからぬ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます