第参章 記憶と共に

第51話鹿おどし

 静かなる水が流れ、れは溜まりゆく。

 竹が石を叩いて、こぉん…とくぐもった優しい音をたてた。

 嗚呼ああ、この静寂をその一つの音に刻まれて、時の経過を再認識させられる。

 音が響き消えてゆけば、時が止まったかのように、静寂は訪れるのだ。

 ただ一人の忍が目の前で目を閉じ、気配さえ消している。

 呼吸を聞こえさせないで、死を見せられる錯覚は、この忍だからこそ味わらせることが出来るのだろうと、我は思うた。

もと一の戦忍いくさしのび』とうたわれる忍はそれだけの命を殺し、それだけの死をその目にしてきたのであろう。

 時には、おのれ自身で、死を味わいながら。

 この忍は、『死』を知っている。

 誰よりも。

 だからこそ、この空間でも血も涙もなく再現できる。

 勿論、忍はその気さえないのであろう。

『精神統一』というただ一つを忠実におこなっている。

 邪魔をしてしまってはいけない、と思いつつ、ただ眺める。

 我の気配は忍に届いておろう。

 ふと、忍が息をした。

 一筋あった緊張が絶たれ、その目は見開かれる。

「終わったか。」

「嗚呼、あんた様の思考は煩いからねぇ。」

 そう笑んだ忍には、もうこの心を読まれていたようだ。

「いつに我が居ると気付いた?」

 分かりきったことを問う。

「あんた様の気配が、こちとらに触れた時から。」

 飽きさせない答えが、また返ってきた。

「我の気配とはどんなものだ?」

 もう一つ問う。

「『生』の気配……そう、他と変わらず人間様らしい気配だよ。」

 影が立ち上る。

 その影は何ぞとまだ、問うてはいない。

 この忍は人を飽きさせない。

 その代わりに、己を答えることはしないのだから、きっと誰もこの忍を喰うことは出来ないのだろう。

 己を口から出すことを、忍のおきて通り禁じている。

 答えるようで、実は、何も理解させない。

 相手が理解しないということは、それすなわち己を知らせることが出来ていないことを示す。

 それを利用している。

 まったく喰えない奴である。

 忍は、『無』を持って、『死』を魅せる。

『死』は『無』を示すが、『無』が『死』のみを示すとは限らず、その曖昧をどう想像させるか。

 その目を閉じ、精神統一を行った先程よりもより一層この忍は、『死』を感じさせてくる。

 己の死ではなく、我の死でもない、第三者の存在が目に見えない感覚的なものから脳を刺激するようにしてくる。

 今まで我が戦場いくさばで殺した者の血を思い出せとでも言うのか。

 それとも、その者と向き合えとでも言うつもりか。

 そうではないのだろうが、そうであるように引っ張られる。

『死』を魅せることを意識しているのではないことは、わかってはいるのだが。

 忍を『生きたしかばね』だと此処ここへ来る前に盗み聞きしたことを思い浮かべる。

 成程なるほど、と思う。

 確かに、嗚呼、確かに、この忍は『生きた屍』の言葉通りだ。

 そうして、其れに心を持っていかれてしまう。

 忍は己から何か言葉を発しようという目はしておらず、静寂を維持するようにただ我を見つめ返す。

『人として』の礼儀、相手の目を見ることを、人が相手なのだからと行う賢さも、好かれるものだ。

 礼儀こそあれども、その舌は無礼なのだから、ふっと笑ってしまいそうになるのだ。

 化け狐か、化け猫でも相手にしている気分にもなってきた。

 これほど、ただの無言で楽しい相手はいなかろう。

 こぉん…と刻まれては、時の流れをまた思い出す。

 そのたびに、この忍は心地良いのか鹿ししおどしの響きが消えるまで音響を目を閉じて味わっている。

 他の忍にはない其れさえも、好かれるものだ。

 さて、今まで恐れて問わなかったことを問うてみようか。

 喉がつばを飲み込んだ時、忍は察するかのようにわずかに身を変えた。

 これが、『聴く体勢』なるものだ。

 この口が声を出す前に察してそう切り替えるが、会話の途切れを見ればまた僅かに身を変えて、この空間を味わおうとする。

 僅か、ほんの僅かのその差は、何度も此処へ忍に会いに足を運んでやっと気付くことの出来るすんすら大きいものだった。

 口を開けば、「さぁ、どうぞ。」と催促されている気分になってしまう。

 そういった僅かな雰囲気さえ気持ちのいいものだ。

 きっと、『主に扱われる忍』ではなく、『主を扱う忍』なのであろう。

「その影は何だ?」

「『飛んで死に逝く冬の虫』って知ってるかい?」

 話を変えるような空気さはなく、しかし目をそらせる話をされる。

 影の問いには答えているのだろうが、また遠回しで理解が難しい。

「人の言葉ではないな。」

『飛んで火に入る夏の虫』というのを間違えたわけでもあるまい。

 笑む忍は鹿ししおどしへと目をそらした。

 その途端、こぉん…と音を刻まれる。

 その後の言葉は無かった。

 目をそらしたとなれば、そこで忍の返答は終わりなのであろう。

 相手に考えさせて、理解まで到達しないのを知っていて、さてこの目は見せまい…という話の流れが見えている。

 それを避けようにも、この空間の手綱たづなを握っているのは我ではなくこの忍。

『飛んで死に逝く冬の虫』。

 きっと、その言葉一つが答えだったのであろう。

 それ以上を言わぬのは、そういうこと。

 相手がどの程度までを理解するかよくわかっている。

 ゆえに、理解に到達しないような会話を自然に、癖のように繰り広げてくる。

 これが厄介なのだ。

 知りたい。

「忍の言葉か。」

「『必要あらば、死を恐れぬ。生きる為、逝く』。」

 また、最低限を即答する。

 それが意味か。

 しかし、此処まできて、その意味と影の繋がりがわからず。

 だからとて、話を変えたつもりではないようではある。

「『火』は『影』か?」

『飛んで死に逝く冬の虫』、そして『飛んで火に入る夏の虫』。

『死』は恐らく、『火』に入れば『死ぬ』ことを直接的に置いたのであろう。

 人の言葉の真似事を忍が言うのだから。

 そう思えば、意味は『必要あらば、死を恐れぬ。生きる為、逝く。』であるから、『火』を『影』として、『影』もまた『死ぬ』ものだとする。

 必要あらば、死を恐れぬ。

 必要あらば、影を恐れぬ。

 そう置き換えても良いのかもしれぬ。

『夏』と『冬』の関係がわからぬ。

 唸れば、忍は言うた。

「少なくとも、こちとらは『人』じゃない。」

 どうやら我の考え方では、理解することは出来ないらしい。

 それも、永遠に。

 それを今この言葉が示したのであろう。

「その目が『人』である内は、『忍』のこたわかりゃしないさ。」

 わかるだろう?、と言うように首を傾げた忍に、我の敗けを理解した。

「答えは教えてくれぬのか。」

「『飛んで死に逝く冬の虫』、『影』は『冬の虫』である。それがわかりゃぁ簡単だ。あんた様ならね。」

 珍しく一歩 歩み寄ったことを答える。

 そこで意外性に驚かされ、さらには答えは出てしまった。

「『影』は『己』か。」

「そういうこと。『必要あらば死を恐れぬ。生きる為、逝く』。こりゃ、『己』の言葉だ。つまり『冬の虫 いはく』といったところかねぇ。」

『冬の虫曰く、「必要あらば死を恐れぬ。生きる為、逝く」』ということか。

 ほう、それは面白い。

「だが、『影が己』とはどういうことだ?」

 そこで話が止まってしまうではないか。

 嗚呼、忍は笑んだ。

「だから言ったでしょ。『人』である内は、『忍』のこたわかりゃしない、と。」

 喰われてしまった。

 そうか、一歩 歩み寄ったわけではない。

 これは、結局のところが理解出来るはずがないと確信しての会話か。

 その先は、我の目を変えよ、ということなのか。

 此処へ来る度に喰われる。

「物好きな人間様だこと。」

 今度こそ、話を変えられてしまったようだ。

 自然な流れで、空気ごと持っていく。

 そしてそれを、取り戻そうということを許さない。

 誰よりも厄介な忍だ。

 気が付く頃には、我々の方が忍に、いな、影に呑まれ喰われてゆくのだ。

 また、こぉん…と刻んだは、忍か、はたまた鹿おどしなのか。

 気配が入り込んだ気がした。

「何用か。」

 そう声をかければ、この忍の里のおさであった。

「言葉遊びは如何いかがかね。」

 低い声は鋭い。

「混ざるか?」

「そうするとしよう。どれ、夜影ヨカゲ。『影』とは何だ?」

 わざとであろう。

 無理矢理に空気も話も押し戻そうとする。

 忍は、大層機嫌がいいのか、ふぅ…と息をした。

「聞いておられたのでは?」

わしにさえ理解させん言葉を、な。『忍』である儂には理解出来るのではなかったか?」

 忍の目が細められる。

 何か冷たいものが背を這い上がる心地がした。

 興奮しているのか、忍の影は濃くなった。

「ご冗談を。」

 こぉん…とまた、刻めば。

 最早もはや、時の流れをこの忍が操っている錯覚さえ浮かぶのだ。

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