第弐章 猫と忍
第41話霧の始まり
この武家には代々伝わる話がある。
それは、名も名乗らぬ伝説の忍の存在である。
しかし、書物に残され、薄くなりゆくその話は、最早この武家ではある存在よりも勝ることは出来ず、忘れられる一途である。
その存在、それは一匹の黒猫である。
片目が赤にして、もう片目は深き黒。
不思議な不老の猫である。
だが、伝説の忍と似ているというのだから、また可笑しな話である。
この
伝説の忍が死した瞬間から、ずっとこの空白は埋められない。
誰もがまだ薄まるその記録で、揃って口にする。
『長は戻ってくるのだ。』、と。
忍隊の長、それは勿論、伝説の忍のことを指していた。
さて、ここに新たなる忍が雇われた。
長い黒髪を、耳より上でしばった目付きの悪い、そして無愛想な忍。
主に対しては言の葉を発するものの、部下等には無口であった。
この忍の方は、代々継がれるモノがある。
それは、薬だ。
それだけではない。
この忍は戦忍であり、腕も良い。
故か、数ヶ月経てば忍隊の副長への候補と囁かれた。
忍は、黒猫を目にする。
主について歩き、主と戦へ向かう。
その猫は刀をその身に、にゃんとも鳴くことなく。
いつからこの武家で飼われているか、分からないのだとか。
唯一分かっているのは、伝説の忍が死した後からのいつ頃か、ということのみ。
黒猫は、主以外の者の手を拒む。
餌も、主の手のものでなければ疑って食べない。
まるで、主を護衛している忍の如く、その目を鋭く光らせて主の傍から離れなかった。
そんな黒猫の傍に寄ることを許されるのもまた、主のみであった。
主の護衛の任を受けた時のことだった。
猫の警戒に入らぬよう距離を保ち、尚且つ敵襲はないかも疑った。
主は、猫を抱き上げて忍の前まで来る。
「こやつを、抱いてみぬか?」
明らかに猫が苛ついて尻尾を振っているのに、主は気付かぬようだ。
忍はその手をそのままに、顔を伏せた。
「いえ。」
短い否という答えは、意味を成さなかった。
「ほれ。」
「しかし、」
「良いではないか。」
これ以上の否はこの口からは出なかった。
再び猫を見やれば、顔を背けている。
恐る恐るではあったが、受け取り、抱けば主は満足そうに笑った。
無愛想な忍と、無愛想な猫は似た者同士。
そう見えて頷いている。
作品でも仕上げたかのような。
猫は大人しく、まるで事を理解しているかのように忍を拒まなかった。
「うむ、こやつもお前なら大丈夫そうだな!」
大丈夫そう、というのは何だ?
猫が忍を見上げて、にゃぁん、と鳴いた。
そろそろ降ろせ、とでも言っているのだろうか。
主に返そうとすれば、主は首を振ってそのまま元いた場所に座った。
膝を付き、猫をそっと降ろしてやると、猫は忍を暫く見つめた後に、その身を忍に擦り寄らせた。
懐いたわけではない。
猫がそれを行うのは、ただの主張となる。
物であれば、自分のもの、場所であれば、お気に入りの場所……だ。
先程目を背けたのは、猫にはそういう決まりがあるからだ。
忍の匂いを嗅ぎ始めたたので、手を差し出せばそこに集中した。
この猫にすれば、滅多にない行動だろう。
主以外のモノにするなぞ。
満足したか、膝を付く忍の隣で丸くなり尻尾を身につけて座った。
まだ、警戒心は残っている、ということだ。
猫に監視されているような、試されているような感覚だった。
薬小屋にて、薬を作っていれば気配がした。
その後にすぐ、にゃ、という短い鳴き声が聞こえた。
顔を上げれば黒猫がゆるりと中に入ってきていた。
猫は迂回して薬に近付かない様、忍の元まで来る。
そして、もう一度短く、にゃ、と鳴いた。
猫の言葉はわからない。
ただ、先程入る前に鳴いたのは、己が来た、ということを知らせているようであった。
「主の元には行かないのか?」
猫に問い掛けたところで、とわかっていながらもつい問いかける。
しかし猫の返答はあった。
にゃ、とまた短く。
人の言葉がわかるのだろうか。
「そうか。」
取り敢えず、そう返しておく。
薬が完成し、それを紙に包んだ。
主に頼まれた薬を作っていたのだ。
すると、猫が立ち上がった。
薬へ前足を差し出し、寄越せ、とばかりの目をする。
ここで、渡すべきなのかそうでないのか迷う。
だが、猫は素早い。
薬の包みを奪い取り、着地すれば入口へと歩き振り返った。
尻尾を天へ向け立たせ、忍から目を離すとそのまま去っていった。
溜め息をつき、片付ける。
主の元へ戻れば、既に猫は到着しており薬は無事届いていた。
「すまぬな!」
「いえ。」
主はまた満足そうに笑う。
猫は足元で座り、忍を見上げていた。
無愛想なままの顔をお互いに合わせる。
目だけは合わせずに。
伝説の忍は死んだ。
この猫も死ぬのだろう。
いつになったら、『長』は戻るのか、それをそうとどうやって判断するのだろう?
「主、長はお戻りになるのでしょうか?」
「わからぬ!
「話では、何と?」
「赤い片目が花のように綺麗なのだそうだ!それとな、影を纏っておるとも申しておったぞ!」
目を輝かせる。
その主の話は悪趣味であった。
仮にも忍、花のようだと、綺麗だなどと。
「伝説の忍の最期の主はな!
少し暗い顔をする主に、それ以上の故を聞く気にはなれなかった。
ただ、知っている名が出た。
「成政」。
それは、忍の爺に当たる者を殺した人物。
いや、それは正確ではない。
成政という武士が殺したわけではないが、謎に包まれたままの死を遂げたのは、その武士が爺の主を討った時だったと記憶している。
もし、その謎が伝説の忍の仕業だとすれば、可笑しくはない。
それでも、爺が残した書物は確かに憐れだった。
忍はそれが気に入らない。
爺が、伝説の忍に恋の情を持っていたなどと……。
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