第15話見せない

 青空が広がるこの頭上を、静かに飛ぶ影がいる。

 それは何を表すでもない。

 忍が腕を差し出せば、その影は舞い降りてその腕へとまった。

「忍殿、忍殿って呼ばれちゃ、もう、頭可笑しくなりそう。」

 影鷹かげたかは、静かにくちばしを開閉させる。

 声、というものがない。

 しかし、忍は笑んだ。

「冗談。」

 それだけ言うと、覆面を外して空を見上げた。

 あくびを一つ、ふわりと。

 その指一つ、天を指さしクルクルと円を何度も描いた。

 それに意味はない。

「こちとらさ、蘭丸ランマル様の忍になってから、馬鹿やり出したんだ。今まで、そんな失敗したことなかったのにさ。」

 何か返事を返さない影鷹に、控えた声は喋り続ける。

 木の枝に座って、幹に背中を預けて。

「蘭丸様に、死んで欲しいわけじゃない。でも、死にそうな状態にばっかさせてる。学べってんじゃない。多分、これは…。」

 気配が、聞こえる。

 気配が、忍を黙らせる。

 目を細めて、覆面をした。

 これが、部下でないことは察している。

「久しぶりね。」

 その声にも、姿にも、忍の目は向かなかった。

 指を引っ込めて、ただ、空を見上げている。

「同盟の話は?」

 腕から、影鷹は飛び去って行った。

 忍に答えはなかった。

 沈黙の間に、風が滑り込んで通り過ぎていく。

「答えないのね。」

 忍の飛苦無とびくないがその声を黙らせた。

 くノ一は、数分間を沈黙に置き換える。

 それでも、去ろうとはしなかった。

 忍が笑い狂いであることを知ってるわけでもない。

「ねぇ、」

ね。」

 声をさえぎって、そう放たれた声は低く鋭かった。

 殺気を含んだそれに、くノ一は一つ瞬きをしてから、気配ごとこの場を去った。

 何処の忍も、戸隠とがくれだとか何処かの忍の里という場所で子忍こしのびとなり、そして忍になり巣立つ。

 何処出身か、というものはあるのだが、この忍は不明のままだった。

 確かに忍の里から巣立った。

 それでも、複数の忍の里の名が浮かぶのだ。

 忍は、何度も死んで、何度も生まれ変わっている。

 それを信ずることは出来るか?

 だがしかし、それが事実。

 生まれ変わるたびに、その記憶と共に忍へと成り直す。

 その度、忍の里は違う。

 それが理由だった。

 生死なぞ気にしないかのように、この武家へ仕え続ける。

 ゆえ、死して生まれ変わり、武家へと雇われ直せば、既に準備は整っており、「おかえり。」とでもいいそうな雰囲気を出すのだ。

 おさという立ち位置は失わず、そこを空白にすることによって、必ず戻ってくるのだと。

 主、そして忍衆はそれをようわかっておるのだった。

 それを、忍は妙だと思うのだが。

 姿さえ変わりはしない、声さえ変わりはしない、何処も変化なぞせず戻る死んだはずの忍を、人間ならば気味悪がる。

 だが、この武家はこの忍を好いているようだった。

 だから、嬉しがるのだそうな。

 勿論、忍はそれを知らない。

 忍が武家に継がれるまなこを好くように、武家は長いこと代々仕え続けてくれる腕のいい忍を好いた。

 忍の忠義の熱さを好いていたのである。

「聞いてよ、影鷹。こちとらさ、必要だって言って欲しいみたいだ。」

 己を貶すような笑い方をした。

 そこに、影鷹はもういない。

 忍はまだ、元主である源次郎ゲンジロウの存在を見ていた。

 それに重ねて、現主である蘭丸の存在を見ている。

 源次郎が、忍をいとも容易く手放しこんな幼いおに、与えた。

 それがまだ、どうも、引っかかっているのだ。

 今までだって、なかったことだ。

 それが、どうしても、気になる。

「けど、潮時しおどきだよね。上手くやれば、こちとらの主様は、日ノ本一のつわもの、行くなら日ノ本一の大将だ。さて、日ノ本一の忍がそれを成せさせることは出来るかな?」

 狐のように笑った。

 己の妄想は、妄想で終わるような気がしたからだ。

 潮時、つまり物事をするのに一番良い、好機という意味だ。

「甘えん坊さんはこちとらかねぇ?ほら、呼んでよ、蘭丸様。何処までもお供致しますよ?」

 たった一人の言葉のお遊び。

 狐のように、まだ笑う。

 これが素顔であるにしても、それを誰にも見せはしないのだから、誰もがこの忍を勘違いする。

 冷たく、感情もない優秀な忍であり、忍のかがみだと。

 そして、無表情であり、何も答えはしない、などと。

 優秀であるにしても、実際、そう見せているだけの忍の鑑というものは、やはり笑えたものだ。

 見せないように、そして…。


 屋根裏で、極めて静かに護衛をしている忍がいる。

「忍殿。」

 声をかければ、いつもなら返答がある。

 それなのに、今夜はうんともすんとも言わぬのだ。

「忍殿、降りて来ぬか。」

 三度目の声にも、声も音も返さなかった。

 主は首を傾げた。

「忍殿。」

「…今はお呼びなさらないで下さい。」

 ただ、低く重たい声が、やっと落ちてきた。

 薄暗い部屋は、蝋燭ろうそくの火が揺らす明かりのみ。

 忍の赤い目は浮かばない。

 それが、気に入らぬ主は口を開いた。

「何故だ。」

「貴方様を殺しとう御座いません故。」

「殺せと申しておらぬ。降りて来いと申しておるのだ。」

「嗚呼、勿論、わかっておりますとも。しかし…嗚呼、護衛を代えてもよろしいでしょうか?」

「ならぬ!」

「なれば余計に、お声をおかけになさらないで下さい。」

 苦しそうな声は、ただただ、耐えるように落ちてくる。

 主にはわからなかった。

 わかるわけがなかったのだ。

「忍殿、降りて参れ。」

「なれば、その目をお閉じ下さいませ。」

 忍のその言葉に、目を閉じる。

「これでいのだな?閉じれば、お前は降りて来るのだな?」

 得体の知れない何かが擦れ這い上がってくるような感覚と何かが現れるような気配がまぶたの向こうにあった。

 目を開けてはならぬと思いつつ、待った。

「お眠り下さい。どうか、わたくしを見ぬままに。」

「何故、見てはならぬのだ?」

「貴方様を殺さない自信がありませぬ故。」

「怒っておるのだな?」

「そう、思うのですか?」

「でなければ、お前は俺を殺そうなぞ、思わんだろう?」

「たとえ、怒りがあろうとも、主を殺しは致しません。」

 この目を開く。

 目の前には、此方こちらに背中を向けた忍が、おぞましい影の中でうずくまっていた。

 その様子はまさに書物に映るあやかしのようでもある。

 もしくは、取り憑かれた類なるものか。

 主は近付いて、背中を撫でた。

 その背中は小さく跳ねる。

「何を、」

「苦しいのか?辛いのか?忍殿は、いつも頑張っておるからな。」

「嗚呼、今すぐにお離れになって下さい。」

「どうしたのだ。」

 忍の影が広がった。

 その影の勢いに押されて後ろへとひっくり返る。

 顔を上げれば、忍は獣のような鋭い爪を構えて、低く唸った。

「忍殿?」

「申したでしょう?殺さぬ自信はない、と。お逃げください。」

 その爪を振り上げる、忍の顔は黒い影で見えず、赤い目だけが光っている。

 蝋燭を吹き消した影はまだまだ広がる。

 爪が落ちた先は頬を掠めていた。

 畳に深く刺さる。

 それでも、主は怯えなかった。

 その手を両手で握ったのだ。

「忍殿、苦しいのだな?そうだな?隠さずとも良いぞ。俺はわかるぞ。泣くでない。」

 影が、一寸さえ進むのを止めた。

 そして忍の赤い目が細められる。

「蘭丸様…。」

「泣いておるのだろう?この手が震えておる。」

 その両手は忍のもとへと伸び、抱き締める。

 主の頬に、上から落ちてきたのは水だった。

「忍殿は、泣くのだな。」

「(熱い…あんた様の手は、熱い。焦がされそうだ。)」

 影が沈んでいく。

 影が収まれば、忍がしっかと見えるようになった。

「お前が泣くなら、お前の部下も泣くのだな?忍という者は、泣けるのだな?良かった。」

「何故、いと思うのですか?」

「忍殿も俺も、同じなのだな。」

「(嗚呼、そうか。人様には、『寂しい』があるのか。)」

 忍は、何故主が忍を呼びこうも抱き着き、そんなことを言うのかようやくわかった。

「(あんた様は、寂しいのか。)」

 この手はそれを抱き締めて良いのかわからずに空中で留まっていた。

 この手をどうしていいか、わからなかったからだ。

 触れては傷付けてしまう気がするのだ。

「忍殿、苦しいのはとれたか?」

「苦しいなぞ、」

「そうなのだろう?」

「(苦しい、けど、それは。)」

 迷う。

 どういう返答が正しいか。

 何処からくる苦しさなのかもわからない。

 何故、主を傷付けてしまうかわからないのだ。

「疲れておるのか。」

 その手がこの頭を撫でる。

 優しく、撫でる。

 忍は動けなくなっていた。

「母上がな、疲れた時や苦しい時に、撫でて下さったのだ。だから、お前が疲れておるのなら、苦しいのなら、俺が撫でてやるぞ。」

「蘭丸様、」

「楽になったか?」

「わかりません。…が、一つ、我儘わがままを申してもよろしいでしょうか?」

 忍が、震える声で恐れたように言う。

 主は手を止めないで、笑った。

いぞ!」

 嬉しかったのだ。

 忍が、ただ、弱々しく息を吐く。

「このまま、撫でていてください。」

 身を預けるように、忍の身体から力が最低限までに抜けていった。

「うむ!」

 主は嬉しげに、頷いて撫でた。

 疲れ果てたような、そんな我が忍のたった一つの甘え。

 許されざることである。

 しかし、今この主従の間では、許されることを。

 心身共に課せられた負荷が、忍の限界を貫いた。

 何年、何十年と溜まった疲れを、ゆるりとこの、癒しゆく。

 誰にも見せなかった弱み。

 敵にも主にも、部下にでさえ見せてはならぬ弱みを、見せないようにしてきた弱みを。

 徐々に楽になってゆくような気がした。

 忍の呼吸が、やっとかすかに聞こえる静けさだ。

 主は己が眠たくなるまで、忍を撫で続けた。

 忍は、主と共に、そのまま寝入るのであった。


 これは、蘭丸主従の秘密である。

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