第10話今や此処

「忍殿!」

「此処に。」

「お前、いったい何歳なんだ?」

「忍に歳を聞くとは、どういったご趣味で?」

 答える気はないという少しのからかいを混じらせた返答に、主は頬を膨らませる。

源次郎ゲンジロウ殿が申しておったのは、」

「何十年も前からこのお武家様に仕えている、ですか?」

「う、うむ。真なのか?」

おさッ!」

 会話を遮り部下が忍を呼んだ。

 息を切らしてそこへ膝つく様子、そして傷付いた体。

 忍の目に鋭さが入り込んだ。

奥州おうしゅうの、」

初陣ういじんか。」

「はっ。」

「良い機会だね。あんたらは下がんな。こちとらが行く。」

「しかし、」

「経験積ます。今すぐ数人引っ張って来な。(あっちのお子はもうそんな年頃か。)」

「初陣?」

蘭丸ランマル様にはまだお早いので。それでは。」

 目さえ戻すことなく、忍は影へと溶けていった。

 忍はまだこの忍隊に来て間もない経験も少ない若い部下らを連れて、奥州の武士の初陣へと向かった。

 忍の足の速さに追いつけないであろうことを知って、速度は緩めてある。

 木々をつたって走る姿は、影としか捉えられない。

 少しの距離を置いて、戦が始まろうとするその場へ目を凝らした。

「手出しはしない。何かあればこちとらへ伝えな。」

「はっ。」

「(こりゃ、劣勢れっせいじゃないの。こんな初陣、うちのお様にゃさせたくないねぇ…。)」

 目を細めながら、目立つ赤を閉じたまま影から見やる。

 部下とは距離を置いたが、部下の近くには己の分身があるのだ。

 心配は無用。

「忍。居るだろ。」

「………。」

「お前、何処のだ?」

「………。」

「この戦、劣勢だってわかるだろ?」

 木の上と下で、一方通行な会話だ。

 この戦を抜け出して来たのだろう。

 今やあの本陣は初陣を迎えるための武士であるお人様が消えて大騒ぎ…といったところか。

「(劣勢だから逃げたにしちゃ、落ち着いてる。何を企んでるやら。)」

「お前なら、どうにか出来るよな?」

「………。(どうにかしろっての?)」

「何処の忍かわからねぇのに、頼むのは可笑しいってわかってる。けど、負けたくねぇ。」

「(そら、何処の武士もどの戦もそうでしょうね。わかってんならむしろ帰りゃいいものを。)」

「劣勢を、くつがえせねぇか?」

 溜め息が出る。

 まぁ、奥州の方には確かに昔の借りがある。

 それを返すというのも悪くは無いのだろう。

 それが、人間様であったのであれば。

「戻れ。」

「どうにかしてくれ。」

「しない。初陣だろうが、負け戦だろうが、関係ない。」

「…死にたかねぇんだ!」

「(手を出せばこちとらが解雇くびだっての。)」

 戦が始まろうとしている。

 騎馬きばのその音も、足軽のその声も。

 何とも思わなかった。

 負け戦も、劣勢に陥る様も、何度も見た。

 その荒々しさは、しかし正々堂々と戦おうとする人間独特の馬鹿らしさらは、酷く煩く、何も感じられやしない。

 名乗りを上げて、刀や槍やを手に向かう。

「…。(一歩目が死地しちってのもこくな話、ってやつかね。)こちとらなら、回り込むけど。」

「忍…。」

「見えるんなら、落ち着いて戦況を見りゃわかる。あんた自身が初っ端から出撃する必要は無い。これ以上は言わないよ。今すぐ戻れ。」

「わかった。」

 足音と気配が遠ざかっていく。

 もう、この木の下には誰もいない。

 誰も、この会話は知らない。

 それでいい。

 無かったはずの会話だ。

 無いままでいい。

「(酷く甘くなったもんだね。けど、これで借りは返したってことで。)」

 劣勢が覆りはしないだろう。

 ギリギリの戦になる。

 あれが本当にわかって見えているのなら負けはしない、だろう。

 木の葉の中で、ただ、その雑音を聞いた。

 笑えはしないこの戦を、好む者も、戦の中でしか生きられぬという者もいる。

 嗚呼、きっと、それは己なのだと欠伸あくびを噛み殺す。

 退屈たいくつだ。

 これから始まろうとしている戦は、見世物みせものにもならない。

 泥の投げ合いみたいに、痛くもない。

「(ある意味、無関係だからだけど。)」


「忍殿?」

 呼べど現れない我が忍を目で探した。

 不安が襲ってくる。

 月明かりもない、暗闇に蝋燭ろうそくを一本。

 それだけが、頼りになった夜中。

 カァ、とからすが一羽だけすぐそこの外で鳴いた。

 障子を開ければ、それが忍の烏であるとわかった。

 烏は、声を抑えるようにまた鳴いた。

 何を伝えたいのか、わかりはしない。

 あの忍だけが、わかる。

「どうしたのだ?あやつに何かあったのか?」

 カァ、と鳴く。

 いなと答えた気がして、笑んだがそれでも不安は消え去らない。

 カァ、カァ、と急かすように二度鳴いた。

「逃げろ、と言うておるのか?」

 カァ、と強く短く、おうと鳴く。

 そうなのか。

「忍殿がそう申しておるのだな?」

 カァ、と一度応と鳴けば、烏は音を控えて暗闇へと飛び去った。

 不安を抱え、一つ忍の残した短刀を両手に抱えて廊下を走った。

 素足が床の上を、音をたてて過ぎていく。

「蘭丸様、こちらへ。」

 忍の部下が、手招きをする。

 警戒したような声が、主を招く。

 それに従って、走る。

 物陰に入り込めば、部下は顔をしかめて周囲に目をやった。

 声を出さぬように、息を潜めようと。

 気配はわからない。

 足音もしない。

 けれどその隣で赤が飛び散ったのに、気付けばもう意識が遠く走っておった。

 素足で外へ飛び出して、忍を探した。

 何かにつまずいて、転んで足元を見れば人が倒れておる。

 泣き出しそうになった。

 泣いてはならぬ。

 膝から血が出ても、走った。

 何も見えぬ、暗闇を闇雲やみくもに走る。

 何かが追いかけてくるのがわかった。

 振り返れば風を斬る素早い音が聞こえて、咄嗟にこの短刀を振り回した。

 いやな金属の音がぶつかった。

「忍殿、忍殿…。」

 口からはそればかりが流れ落ちていく。

 せめて月明かりさえあったなら。

 いや、忍が居たならば。

 月明かりに何が出来ようか。

 月より忍の影を今此処に。

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