13.
家の中は昏かった。
昼間にもかかわらず、陽の光がまったく差していない。
外に蔓延った霧のせいもあるのだろう。
曇天のせいもあるのだろう。
山際という立地条件のせいもあるのだろう。
けれど、それらを差し引いても、家の中は昏かった。
照らすは薄く灯る蛍光灯の光だけ。
当然、それだけでは空間の隅は照らし切れない。
そこかしこに見えない影が息づいている。
「戻りました。幹人です」
しん、と静まり返った家屋に幹人の声が飲まれていく。
彼は三和土で靴を脱ぐと、廊下を進んだ。
みしっ、みしっと板間が軋みを上げる。
「フミさん。卓治さん」
彼の声に反応はない。
座敷に顔を出すも、誰もいない。彼を迎えるのは、鴨居の顔々がだけである。
『…………った』
「声が……」
座敷には誰もいなかった。
しかし、さらに奥。
座敷横の廊下を進んだ先――台所のほうからもごもごとした人の話声らしきものが聞こえた。
『……あの人には感謝せんとねえ』
細い廊下を進み、台所の戸口に立つ。
『名前をなんて言ったか』
彼はノブに手を伸ばしかけたまま、硬直した。
中からはフミと卓治の二人の会話が聞こえていた。
『……ええと、坂田だったかしら』
『そんな普通の名前だったか? もっとこう……、ややこしいような……』
『そう? さか……さか……』
『さか、さかき。ああ、そうだ。榊じゃあなかったか?』
『ああ、そう。榊さん。そうよ、榊さん。あの人には本当に感謝してもしきれないわ』
幹人は、ノブに手をかけたまま、今日ここに至るまでのことを、最初から思い起こしていた。
(――どうしてこんなことになっているのだろう。初めは何だっただろうか。)
そう。事の初めはフミからの電話だった。
こちらからは連絡を一切していなかったのに、唐突にかかってきた訃報を知ったという電話。
『あの人が学人さんが亡くなったことを教えてくれなかったら、私たちはずっと知らず終いだったんだから』
(――さかき。そんな名前に思い当たる人物はいない。いや、どこかで……、あの島か? 父の事件のとき、あの島にいたという……。けれど。さかき……。果たしてそんな名前だっただろうか。)
『ああ、早うに連絡してくれたのもありがたかった』
次に湧いた疑問は何だっただろう。
『そうねえ。でも、幹人さんが良い人で助かったわ。幹人さん次第では、分骨って話すらも聞いてもらえなかったんだから』
そうだ。
どうして、フミはあれほどまでに納骨に詳しかったのだろうか。
病院には葬儀の人間も多く出入りする。幹人自身も彼らとのやりとりを数え切れぬほど経験している。だから、ある程度の知識は持っているつもりでいた。
それなのに……。
これまで分骨証明書などという存在を気にかけたことすらなかった。
『これもすべて、お地蔵さまのお導きね』
地蔵……。あの、まるで意思を持ったかのような地蔵たち……。
この村の信仰の対象。
彼らはいったい何をもたらすものたちなのか……。
『ああ、すべての幸せはここに集まる』
母から聞いた、父が残したという言葉。
――人によっては幸せを手に言えることもできる地だ。良いところではある。
あれはどういう意味だったのだろう。
『こうして滞りなく準備ができたのも、お地蔵さまのおかげ。幹人さんに変に思われたら大変だったもの』
違和感……。
そう、納骨のときに。
いや、もっとずっと前。
今朝、家を出るときに覚えた妙な違和感。
『どうだろうな。あいつもあいつなりに何かを感じてはいたのかもしれんぞ』
どうして。
どうして、今朝手にした骨壺は軽くなってしまっていたのか。
『まあ、いいじゃあない。事情を知れば、幹人さんだってわかってくれるわよ』
『そうだと良いが……。けども、十子と一緒にいたわけだろ。すでに何かに気がついてしもうとるかもしれんぞ』
十子……。
佐山家の少女。父を失った少女。
あの子は待つと言った。母とともに頑張って待つと。
『そうねえ、タイミングがよくなかったのはあると思うわ。こんなに生きている人が少なくなった村で、二軒同時になんて』
二軒……。
染水家と佐山家。その両方にあった共通点は何だろうか。
あの庭の……、何かを炊き出した跡にできる円形の焼け跡。
『それにしてももうご主人が亡くなられて一ヶ月でしょう? あまりにも長いんじゃあないかしら。やっぱり落ちた場所が良くなかったのかしらねえ』
十子とともに歩いた河原。父の亡くなった場所。
あの場所で、少女はあくまきを食べていた。
ずっとこればかりだと。もう飽きたと。
『きっと還る前に沢に流されてしもうたんじゃろう。だから時間がかかっている。大丈夫、お地蔵さまを信じ続ければ、いつかは還ってくる』
――還ってくる。
初めは、この言葉の意味を比喩的な表現として理解していた。
それはつまり、遺骨が故郷に戻ってくるという意味だと。
けれど、十子はそんな意味合いでは言っていなかった。
死んだ人は還ってくると、あの少女はそうはっきり言った。
だったら、十子だけじゃあなく。
卓治も、フミも。
〝還る〟の意味を、もっと直接的なものとして遣っていたのではないだろうか。
『うん、信じていれば還ってくると、そう私も思うわ。けどね、佐山さんの奥さん。本当に信じているのかしら。あの人、旦那さんに無理矢理この村に移住させられたようなことを昔言っていたから……』
佐山夫人。
あの人だけは還ってくるという表現を使わなかった。
なんと言っていただろうか。
――私は大丈夫です。ええ、大丈夫。だからこの子だけでも……。
あれは、娘の元にだけでも還ってきてくれたら、と。
そういう意味だったのだろうか。
『まあ、時間の問題だろう。すべては時間が解決してくれる』
『ええ、そうね。時間の問題……。それにしても、幹人さん時間かかっているわね。遅いわ』
幹人はノブから手を引っ込め、後ろ足に一歩、二歩と後退っていた。
(――ここから先は見てはいけない。聞いてはいけない。聞いたのは話だけ……まだ話だけ。こんな現実があるわけない。)
幹人の中でただの断片だったものたちが寄り集まり、とうとうその全貌を現し始めていた。
それは、現代社会では理解し難い思考の許に成り立つ異形である。
『それにお母さんも遅いわ』
『どこに行った?』
『お手洗いに。すぐに戻ってくるって言っていたのに……』
お母さん……。
それは、納骨からの帰り道、二人が言っていた人物。
この家のまだ見ぬ住人……。
いや、見ているのかもしれない。
(――昨晩、廊下を這いずるようにして歩いていたあの人物が……二人の言うお母さんなのか?)
昨晩の光景を想像して、身が竦んだ。
(――あの謎の人物は昨晩どこへ向かって歩いていた?)
ここに……。
幹人の借りた部屋の前を通り、かちかちと何かがぶつかるような甲高い音をさせてここに……。
この台所に……。
(――ああ、あのかちかち、かちゃかちゃという音は、この村までの道中の車内でも、今日の納骨のときにも、ずっと聞いていた音だ。あれは骨壺の蓋がぶつかる音。まさにそれそのものじゃあないか。)
竦む足に力を込め、なんとかまた一歩後ろに踏み出した。
「っ!」
板間がきぃと叫びを上げた。
『ほら、戻ってきたわ』
椅子を引く音が台所の中から聞こえる。続いて、戸口の前までやってくる足音。
幹人の脳内で何かが弾けた。
それは、本能が忌み物として記憶が排除した音。
昨晩の、悪夢に寄り添うようにして鳴っていた、あの音。
――ごりっ、がっ、がりり、ごり。
タイヤが砂利を踏む音か。――否。
砂利が車底を擦り削る音か。――否。
地蔵がその身を翻す音か。――否。
あれは、暗みに落ちゆく渦の音。
深きに落ちゆく回転の音。
――どんっ。
後退った幹人の身体に、何かがぶつかった。
廊下は真っ直ぐ。
彼も真っ直ぐに下がっていた。
背後の空間には何もないはず。
けれど、ぶつかったとなれば、それはもう、ひとつの帰着しかあり得ない。
先ほど席を立ったという〝お母さん〟なる人物。
その人物が背後にいるのだ。
幹人がゆっくり振り向くと、そこには傴僂の老婆がいた。
「みぃいひぃどぉ」
老婆は声にもならない声を発している。
「っ!」
生きているのが不思議に思えるほどに顔は干上がり細く、目鼻口といった孔という孔すべてがひどく窪み、光の届かぬ影と化していた。
嗄れた声で老婆は続ける。
「だぁげぇれ」
しかし、幹人にはその声を正しく読み解くことはできない。
孔から漏れ出る空気が塊となり、かろうじて音を成しているに過ぎない。
恐怖に絡め取られ、何も出来ずに立ち竦んでいると、台所の戸口が開かれた。彼は慌ててそちらを振り返る。
『ああ、お母さん。幹人さんと来たのね。ちょうど良かったわ。もう準備できているから」
「だぁげぇれぉお」
それに合わせて背後の人物が再度同じ呻きを上げた。
「ええ、お母さん。わかってるわ。幹人さんも一緒に」
そして、フミの口から出たその言葉に、幹人の目の前は真っ暗になる。
『――食べましょう』
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