11.


 鼻をつくのは消毒用アルコールの匂い。

 それに混じった汗の匂い。


 身体は不安定に、けれど力強く温かいものの中にある。

 とん、とん、とんっと心地の良い波が、寄せては返す。


 霞む視界には白い襟と、下から見上げた人の……顔?

 首を回すと、無機質の廊下にぽつぽつと、蛍光灯の明かりが続いている。


「幹人」


 頭上から声がする。見れば、顔はこちらを向いている。


「起きたか?」


 視界は一度縦に上下する。


「少しは楽になったか?」


 縦に動きかけた視界は、斜めに傾く。


「そうか。まだきついか」


 とん、とん、とんっと身体が揺れる。


(――ああ、私は今、父に抱かれているのか。……にしても、これはいったいいつの記憶だったろうか。)


 ずっと忘れていた幼き日。

 風邪で高熱を出して……点滴を打った……あの日の帰り道。


(――あの日、私は……、朦朧とする意識の中で父と会話を……。)


「どうした?」


 ぼそぼそと振動がする。何かを言ったらしい。


「ははは、そうか。針が痛かったのか」


 腕を軽く撫でられてから、袖を捲られる。

 彼はじっと腕を見つめると、


「えっとなあ、何回だこりゃ。三回……四回か。まあ、人間のやることだからな、失敗ぐらいある。でなくても、お前の血管はちと刺しにくい。それくらい許してやれ」


 再びぼそぼそと振動。


「ははは、怒るな怒るな」


「…………っ!」


「そこまで口が動くなら大丈夫だな。はははは」


 快活に笑うその顔がどうにも許せなくなって、途端に目頭が熱くなり始める。


「おいおい。怒ったと思ったら、今度はそれか? そんな顔をするな」


 そう言って覗き込む顔の輪郭が、くしゃっと潰れてしまう。鼻の奥がツンと痺れる。


「風邪なんだから、お前が悪いわけでも、まして看護師が悪いわけでもない。誰も悪くないんだ。しいて言うなら、お前をこんなにしている病原体が悪いんだ」


「っう……っう……っ」


 堪えていたものは決壊し、とうとう視界は役に立たなくなる。代わりに耳に届く声だけが、明瞭に聞こえ始める。


「まあ、なんだ。そんなに我慢するくらいなら――」


 滲む視界に父の顔は像を結んではいない。

 けれど――。

 そこにどんな顔をあるのか。

 どんな表情で父がこちらを見ているのか。

 なぜだかそれだけは手にとるようにわかった。


「――泣いてしまえばいい」


「……って、そんなこ……。泣いてな……なぃ……」


 必死に何かを言い返そうとしたのだろう。けれど、すぐに咳き込み、言葉が続かなくなる。


「泣いてすっきりするならそれに越したことはないんだ。泣いてしまえ。泣いて全部流してしまえ」


 そこから先――。

 視界も音も匂いも何もかもが、切れ切れになっていく……。

 そして、最後には暗転して……。


 記憶の最後――途切れる間際に感じたのは、目頭に溜まったものが頬を伝う感触。そして、それが与える刺すような、ひりりとした頬の痛みだった。


 …………。

 ……。


「おじさん、おじさん」


「え? ……ああ。うん」


 幹人は目を瞬かせ、十子を見つめた。


「おはなし聞いてる?」


「ああ、うん」


「ほんと? ぼうっとしてた」


「ああ、大丈夫」


 口ではそう言いつつも、彼は戸惑っていた。

 今の今まで、彼は十子の語る〝十子の父〟について聞いていた。


 それなのに。

 いつの間にか。

 意識は、忘れかけていた過去の記憶を辿っていた。


「それでね、お父さん、よく肩車してくれたの。十子はお父さんの頭にぎゅって抱きつくの。落ちないように。そしたら、お父さん、見えない見えないってグルグルするの。十子が父さんの目塞いじゃうから。それがおもしろくってね。十子何回もするの。ずっとね、お父さんのあったかいが十子の手にあるの」


 感情に乏しいように見えた十子は、今や捲し立てるように喋り続けていた。楽しそうに、嬉しそうに、亡き父を語っている。


 そんな無邪気な姿が、幹人には微笑ましく見えて仕方がなかった。

 胸の奥から愛おしさとも言える感情が広がっていく。


 だから。

 だから、いっそう――。

 脆く。危うく。

 風に吹かれただけで崩れてしまうんじゃあないかと思える。


(――こんな顔をつい最近どこかで……。ああ、あの人だ……。病室で見た、あの人の笑顔。)


 笑顔に満ちれば満ちるほどに、その裏には計り知れないほどの〝暗〟が眠っている。


「…………」


「ああ。お父さん、早く還って来ないかな」


 不意に、十子がそんな言葉を零した。


「……え?」


「ん? 早く還ってきてほしいなって、お父さん」


 ぽつりと零した少女のその言葉を、幹人はどう返して良いものか逡巡した。

 いくら幼い少女とは言え、死の意味を正しく理解していないとは思えない。

 だから、それは心から漏れ出た願望でしかなくて――。


「お母さんはね、待つしかないって言うの」


「待つ?」


 こくりと、十子は頷く。


「お母さんも早くお父さんに還ってきてほしいんだけど、そのためには時間が必要なんだって。だから、頑張って、頑張って。待ち続けるしかないの。お父さんが還ってくるのを待つの」


「頑張るって……。いったい何を……」


 幹人の中で何かが変質した。

 何かが蠢いた。


「待つって……そんなことをしたって何も……。それに。還ってくるだなんて」


「おじさん、何言ってるの?」


 見つめ返す瞳は雨粒のように澄んでいる。

 それは決して嘘を吐いているようにも、大人を謀っているようにも見えない。


「死んだ人は還ってくる。ここではみんなそう。お父さんも、きっとそう。だから、待つの」


 十子は、小鉢から最後の一切れを摘まみ上げて口に運んだ。


「おじさんのお父さんも還ってくるかな?」


 指の粉を舐め取りながら、ぴょんと岩から地へと降り立つ。


「ずっとこればっかり。もう飽きた。けど、お母さんが食べなさいって言うの。必要なことなんだって」


「…………」


 光乏しき霧の中で、少女の白い姿だけがぼぅと光を放つようだった。

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