10.

 家への帰路。

 最初に感じたのは妙な匂いだった。蔓延る霧に紛れて、草木の焦げたような匂いが漂っていた。野焼きのときに嗅ぐあの匂いにとてもよく似ていた。


 小径を下れば下るほどに、その匂いは増していき、ついには喉がいがらっぽく感じるまでになった。


「あの、これっていったい……。墓から家のほうを見たときに上がっていた煙と関係があるんですか?」


 幹人は前を行く二人に呼びかけた。


「お母さん、ちゃんと始めてくれているみたい」


「ああ。けど、にしてはちいと濃くないか?」


「まあ、たしかにそんな気もするわね」


「佐山さんとこもやっとるのかもしれんな」


「ああ、きっとそうよ。あの奥さん、また炊いてるのよ」


「儂らも早う戻らんと」


「そうね」


 言うなり二人は、老人とは思えぬ速さでずんずんと道を下っていく。慌ててそれについていくため、幹人もペースを上げた。

 そうして走りながら、


「あの、……お母さんって誰ですか? それに炊くっていったい何を……」


 息も切れ切れになりながら、それでも幹人は後ろから問うた。が、何かに取り憑かれたように黙々と歩を進める二人には、幹人の声は届いていないようだった。

 もう十メートルも下れば庭の入り口に到着というとき、霧の中で門扉がきりりと軋みを鳴らして開いた。

 姿を見せたのは白いワンピースを着た子どもだった。


「十子ちゃん、どこ行くの?」


 フミに声をかけられた子どもはびくりと肩を揺らして、その場に立ち竦んだ。おそらくは、昨晩と同じく、一人で沢に降りようとしていたのだろう。


「お母さんには言ったの?」


 近づき問う彼女の言葉に、十子は俯いたままで反応を示さない。


「ねえ、十子ちゃん。聞こえてる?」


 さらに一歩十子に近づく。

 すると、ようやく、


「……言って、ない」


 蚊の鳴くようなか細い声だった。


「お母さんが心配するのわかってるでしょう?」


「……」こくりと、十子は頷く。


「ふぅ……。幹人さん」


 フミは振り返り、


「十子ちゃんの様子見ててもらえるかしら? 私たちは家に戻らないといけないし。いいでしょう?」


「え、ええっと……しかし、家ではいったい何が……」


「幹人さん。?」


 断ることなど絶対にできそうになかった。


「わ、……わかりました」


「そういうことだから十子ちゃん。おじさんが一緒に行ってくれるから。よかったわね。お母さんには伝えておいてあげるから。次からはちゃんと自分で言うのよ。わかった?」


 一連のやり取りの間、十子は一度も面を上げることはなかった。しかしそれでも、最後のフミの言葉には、こくこくと頻りに頷いていた。


 家へと戻る二人を見届けてから、幹人は十子に近寄った。

 昨日とはデザインの異なる白のワンピース。袖口から伸びるほっそりとした腕は、服の白よりも一段と白く透いている。


「十子ちゃん、それは何?」


 彼女はその小さな手に小鉢を持っていた。


「…………」


 問うも十子は返事をしない。

 彼が小鉢の中を覗くと、半透明の茶色い塊がごろごろと入っていた。見た目はゼリーか、蕨餅のようにも見える。きな粉だろうか、ぱらぱらと白っぽい粉が振りかけてある。


(――ああ、これは。)


「あくまき、かな?」


 言うなり驚いた表情で十子は顔を上げた。何かを言おうと、口を開きかけ、しかし、それが何かの音になるまでには至らなかった。


「どうかしたかい?」


「……」ふるふると首を振る十子。


「えっと、下に降りるんだっけ?」


「……うん」十子は目を合わせたまま、頷く。


「そっか。じゃあ、行こうか」


 十子はくるりと半身を翻すと、たったと小径を下り始めた。


「え、そんなに急ぐと危ないよ」


「だいじょぶ。いっつも……通っ……る」


 返答さえも満足に聞こえなくなってしまうほどの速さで、彼女は道を駆け下りてゆく。


(――まいったな。)


 任されてしまった以上、ここで怪我をさせるわけにはいかないと、幹人は慌てて彼女を追いかけた。が、時すでに遅く、十子の姿は霧の向こうに消えてしまっていた。


「十子ちゃん、待って」


 下るほどに、ざらざら、ざらざらと沢の音が近づいていた。しかし、濃霧に阻まれ沢がどれほど先にあるのか、まったく見当がつかない。


 いくら道に慣れているからと行っても、十子はまだ小さな子どもである。泥濘む道に足を取られてそのまま川底に、という最悪の事態も考えられなくはないのだ。

 幹人は出来うる限りの速さで、小径を下っていった。


「…………はぁ、はぁ」


 普段の運動不足もあって、息はとうに上がり切っており、前へと運ぶ足にも疲れが現れ始めていた。

 それでも彼は足を止めることなく、先を降りていった十子の後を必死に追った。


 焦りに任せて下っていくと、枝道が重なり小さな広場に辿りついた。周囲にはもう目の前に川があるとしか思えないほどに、打ち砕ける水音に満ちている。


「いったいどこに……」


 幹人は首を左右に回し、十子の姿を見回す。しかし、川の近くということもあって、いっそう濃く広がった霧は目視二メートルにも満たない視界しか与えない。


「こっちか?」


 枝道のひとつに彼が足を踏み入れようとしたとき、


「ちがう」


「!」


 いつの間にか隣にいた十子が服の端を引っ張っていた。


「そっちは道ない。ダメ。こっち」


「ああ、……いた。よかった。……ふぅ」


「?」


 幹人の安堵に、十子はよくわからないといった表情を浮かべている。


「行こ」


 十子は服をぱっと手放し、跳ねるような足運びで道を進んでいく。

 もう河原にまで来ているだろうことは音から感じられた。右手の奥からはざらざら、ざらざらと、激しい水音がしている。


 犬が蹲ったほどの大きさの岩々を難儀しながら越えていくと、突然前を歩いていた十子は立ち止まった。そうして、近くにあった岩に登ると腰を下ろした。


「どうしたの?」


「ついた」


「え?」


「ここ」


「ここって……、ここに来たかったの?」


「うん」


 見れば何でもない河原である。無数に石の転がる何もない道……。特別周囲に何かがあるわけでも……。

 と、辺りを見ていると、十子の腰かける岩の下に、干涸らびた花草があるのに気がついた。花草といっても立派なものではなく、近くでむしってきたとしか思えないような質素なものである。


「もしかしてここが?」


 彼女は無表情な顔のまま、手に持っていた小鉢からあくまきを摘まみ口に運ぶ。


「ん? なにが?」


「いや、だからその……」


 幹人が直接的な言葉を躊躇っていると、


「お父さん、そこにいたの」


 十子は指についたきな粉を舐め取ると、丁度幹人の足許辺りを指さして言った。


「えっ」幹人は思わず一歩後ろに引いた。


「お父さん、そこにいたの。そこで死んじゃった」


「……ああ、えっと」


 なんと言って良いのかわからず、言葉が続かなかった。


「いないの」


 辺りには、ざらざらという水音が満ちていた。


「……お父さん、どこにもいないの」


「えっと…………」


 幹人は言葉に詰まった。何と返答して良いかわからずにいた。


 ――ざらざら、じゃらじゃら……。


 音の狭間からは音が……、声がしていた。

 それは、この数日間に耳にした声たちだった。


 ――お悔やみ申し上げます。生前、学人さんにはとてもお世話になりまして…………本当に残念です。何度助けてもらったことか…………学人のことは残念だが、こればっかりは仕方ない…………犯人はわからず終いなんでしょう?…………お母さんも心配ね。あの様子じゃあ…………院長のサポートは我々全員で…………こんなことになるなんて…………人は誰だっていつかは…………近くにいながら私は何もできず…………それにしたって、どうしてあんな事件に…………お前だってそれくらいわかっているだろう?…………何かあったときにはすぐ私どもに相談を…………最後の最後までお世話になりっぱなしで…………こんな時期に死にやがってから。まったく…………また入院なんでしょう?…………これからはお前がしっかりして…………引き継ぎだって済んじゃあいないってのに…………だからせめてくれくらいは、と…………。


 父亡き後に耳にした言葉たち。


 それらに正解はあっただろうか。

 それらに不正解はあっただろうか。


 どれもが正解で、どれもが不正解のように思える。

 今に至ってなお、その判別はできていない。わかっていない。


 けれど、はっきりしているのは……。

 哀悼も良心も、心配も不安も、詮索も陰口も。

 人々の言葉のどれひとつもが、心に穿たれた虚空を埋めはしなかったということだ。


 すべての言葉が、暗い洞の奥に落ち消え、それっきりだった。

 だから――。


(――ああ、そうだったのか。こんなにも簡単なことで、私は悩んでいたのか。)


「十子ちゃん」


 気がつけば、彼の口は自然と動き出していた。


「ん? なに?」


 それは――父の死に際して得た、彼なりの答え。


「おじさん?」


 他人の言葉で埋まらない洞は、


「お父さんって、どんな人だったのかな?」


 自分の言葉で埋めるしかないのだ、と。


「お父さん?」


「そう、十子ちゃんのお父さん。どんな人だった? 面白いとか、楽しいとか怖いとか。おじさんに教えてくれるかな」


「あのね」


 ふわりと。

 その一瞬だけ霧が薄くなったような気がした。

 感情の薄い彼女の表情に、色味が差したような気がした。


「十子のお父さんはね、あたたかいの」

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