9.

 翌日、幹人は身支度を整え、座敷へ向かった。

 睡眠時間の割に身体は重く、風邪のひき始めのような倦怠感があった。


 原因は明瞭である。

 昨晩に見続けたと思われる夢。

 悪夢……。


 それが精神に負担を与え、引いては身体の不調として現れているのだ。けれど、覚醒した今となっては、その夢の内容は一片たりとも残っていなかった。


 何を見たのか。

 それがどんなものだったのか。

 まったく思い出せないのである。

 ただ漠然と、悪夢を見た、という認識があるだけである。


 晴れきれない気持ちを抱えたまま、彼が座敷に向かうと、


「幹人さん、おはよう」と、台所からフミが現れた。

 次いで、無言で卓治もやってきて、腰を下ろした。


 そうして、三人で朝食を摂り――会話はほとんどなかった――、山の上にある寺に納骨に向かうことになった。


 寺に隣接している墓地に、目的の墓があるという。

 幹人は書類や寺へのお布施などが入った鞄を斜め掛けに背負う。そして、仏壇に置かれた板骨壺に手を伸ばした。


(――あら……?)


 それは違和感と呼べるほどの差異ではなかったかもしれない。何が、と腰を据えて考えたからといって判然とするものかもわからない。しかし、何かが違うという印象が漠然と彼を襲った。


「ほら、幹人さん。行くわよ」


 けれど、その違和感の正体に思い至るまでもなく、急かされるがままに彼は家を出た。三人は庭の奥の小径から分け入り、山を上へ上へと進んでいった。


 昨日に引き続いての曇天と低温も手伝って、雲とも霧ともつかない白い空気が山を舐めるように停滞していた。空を木々に阻まれた日当たり悪い小径は、そこら中に泥濘みができて悪路と化している。


「幹人さん。足許、気をつけて」


 前を行くフミが振り向くことなく言った。


「はい……」


 昼間のこの時間帯でさえこの荒れようなのだから、昨晩にこの道を懐中電灯一本だけで沢へと降りた佐山夫人は、相当に難儀したことだろう。


(あっ……。)


 膝丈ほどに繁茂した草木を両脇に見ながら道を登ってゆくと、唐突に円形にくさむらが禿げている箇所が幾度となく現れた。


(また……。)


 そうしてやはり、その円形の中央には例の地蔵が佇んでいるのである。案の定、てんでばらばら、左や右、中には真後ろを向いているものまでも。

 それらを視界の端におさめつつ、横目に後方へとやり過ごす。


 一体……、二体。

 三体……、四体……。


 その数が十体を越えたあたりで、幹人は数えるのをやめた。

 地蔵の数そのものに気味の悪さを感じたのもあるが、それ以上に、視界から消えた地蔵のすべてが、幹人の背中を見つめているような、そんな感覚にとらわれてしまったからである。


 じっと、視線が粘っこくも背中に張り付いている……。


 前をゆくフミも卓治も一度として、幹人を振り向かない。


「…………」「…………」


 二人はただ黙々と前へと進んでいく。

 それは、幹人の背後に見てはならない世界が広がっているから……。

 そんなあり得ない想像が脳内には浮んでいた。


 鬱然とした道を十五分も進んだところで、道の先に山門が現れた。山門をくぐると開けた土地に出る。


 山の中腹を平坦に切り出した二十メートル四方の土地。小径から見て正面奥まったところに、仏堂と覚しき建物が山肌に寄り添うようにして構えている。鈴緒や賽銭箱といった寺を成す構成物はたしかに存在している。しかし、それらがいくら揃っていても、外観の古びた様相からは、寺というよりむしろ崩れ朽ちかけた東屋といった印象を持ってしまう。


「おい」


 言って、卓治が手を伸ばした。


「え? あ、ああ。これですか」


 幹人は、慌てて鞄の中から分骨証明書などの書類一式を出した。


「じゃあ、住職に渡してくる。二人は墓のほうを頼む」


 卓治は素っ気なく言うと、幹人から書類を預かり、仏堂の横手にある家屋に入っていった。


「私たちも行きましょうか」


 フミとともに裏手にあるという墓地に足を向けた。

 山間の僅かな土地に墓地を作ったからなのだろう、墓地へと続く道は極端に道が狭く、足場も悪かった。墓地に入ってからもその状況は変わらなかった。


 見渡す墓々は犇めき合うようにして立ち並んでいる。さらにそれらの墓のどれもが腰丈以下の背しかないものばかり。近年増えつつあるデザイン重視の墓などは皆無。どれもが簡素で最低限の台上に棹石が立ち、水鉢と花立が並ぶ程度である。よくよく見れば、棹石の名すらも満足に読めない墓も少なくない。


「人がいなくなってしまったから、手入れも満足にできないの」


 幹人の奇異の視線に気がついたのだろう。フミは説明するように言う。


「みんなこの村を離れるか、残ったとしてもお年寄りばかりだから。こうなってしまうのは仕方のないことなんでしょうね」


(――村の過疎化は相当に進んでいる。)


 墓そのものの数ではなく、墓の傷みや苔産す度合いからそのようなことを思うとは、想像すらしていなかった。


「あの、フミさん、今この村にはどれくらいの人がいるんですか?」


 幹人は道中の民家の数を思い出していた。……記憶によれば、それはたしか民家五軒のはず。


「うちを合わせても、人が住んでいる家はもう三軒だけ。昔は橋向こうにも何軒かあったんだけど、今はもう誰も住んでいないの」


「えっ? そんなに少なく?」


「ええ。うちと、お隣の佐山さん。それから、ここの住職の八神やがみさん家族。八神さんの家は佐山さんとこのお隣。たったそれだけ」


「けど……、それじゃあ……」


(――昨夕に見かけた、民家からこちらを覗く人影たち。あれは何だったのだろうか。見間違い? そんなはずは……。だったら? その三軒に住まう誰かが別の家に用があってそこにいたと? そんなことがあるだろうか?)


「……どうなっている?」


 幹人は足許に視線を落として考え込んでしまう。


「幹人さん」


 歩みを止めて考え込んでいる幹人に、フミの柔らかい呼び声が飛ぶ。顔を上げる幹人。


 そこには表情のない笑みで――こんな表現が正しいとは思えないが、そうとしか表現できない笑みをたたえて――彼女は佇んでいた。


(――ああ、あの笑みだ。あの笑み……? あれを私はどこかで見ている……ような気がする。)


「大丈夫? 随分と顔色が優れないみたいだけど」


「ええ、はい。大丈夫です。……あの、これは確認なんですが――」


 これ以上を質問を重ねてはいけない。余計な詮索は避けるべきだ。

 本能がそう叫んでいた。けれど、一度吹き上がった疑問の数々は止まらなかった。


「あの染水の家には、フミさんと卓治さんの二人なんですか? 他に人がいたりとか……」


 民家に見えた人影たち。あれに類するであろう〝何者か〟に、彼は昨晩に遭遇している。あの廊下を這いずっていた……人影?

 村に人の住む家が三軒しかないのならば、その三軒の家に人が集中しているのではないか?


 そうと考えるより他には……。

 まさか……幽霊? ……いや、まさか。

 そんな想像は馬鹿げている。


「…………」


 フミは幹人から向けられた質問にしらっとした表情をして、


「どうなんでしょうね……」


「どうなんでしょうねって……、それってどういう?」


「そこの先。下のほうに家が見えるでしょう?」


 フミが顔を向けた先には灌木の間を縫うように細道があった。

 彼女はおもむろにそちらに歩を進める。幹人もそれに従うようについてゆく。


「ほら、この下……」と、フミは指をさす。


 幹人は、彼女の指す先におずおずと五、六歩進み出ていく。


「うわっ!」


 その道は唐突に虚空に消え、切り立った崖になっていた。


「あんまり行くと危ないわよ」


 幹人が恐る恐る崖下を覗くと、彼女の言葉通り家が見えた。湯煙りのように立ち上る薄霧に隠れ隠れではあるが、幹人が乗って来た車も目視できた。


(――ということは、あれが染水家……。ん、何かが霧に紛れて……煙が立ちこめている?)


 上から見下ろした家の形は随分と細長い形をしていた。下で見てみるよりもずっと崖に張り付くようにしているのがわかる。


「ちょっと見えにくいのだけど、下の家からもお墓が見えるの。こうして直接足を運ぶことは少なくなってしまったけど、家からは毎日お墓を見上げているの。見上げるとすぐ近くにご先祖様がいる。だから、そんなに遠いところにいるって気はしなくて」


「は、はあ……」


 フミの言葉をなんとかこじつけて解釈をするならば、『ご先祖様がこんなに近くにいるから、二人暮らしのようには感じない』と、そんなところになるのだろうか。しかし、他の住居人の有無については明言はされていない。……どう捉えるべきなのか。


 そんなふうに意味を咀嚼していると、フミがぽつりと、


「それにまあ、……普段からみんないてくれてるし」


「え?」


 幹人はその発言の真意を問い聞き返したつもりだったが、しかし、続きを待つも返答はなく、話はそれっきりだった。

 話を続けようにも、どうにも気が削がれてしまい、踏み込めなかった。


 その後は、戻ってきた卓治とともに墓の掃除、納骨の立ち会いとなった。やってきた住職は袈裟を着てはいるものの、宗教関係者らしい雰囲気は感じられなかった。広い額を忙しなく撫で回しており、僧侶らしい穏やかさはない。


「…………」


 住職の作業めいた読経が終わると、卓治と幹人の二人で墓石をずらして納骨室を開いた。

 墓石の作りによっては、納骨室を開くだけでも業者の手を借りなければならないらしいが――石垣の納骨の手続きではそうした業者の手配をしていた――、今回はそんな必要はなかった。蓋石は思った以上にすんなりと移動させることができた。

 納骨室の中を覗くと、すでに二つの白い骨壺が置かれていた。どちらも相当に昔のものらしく、埃を被り黒ずんでいる。


 幹人はしゃがみ込むと、それらの骨壺の横に父の遺骨を並べ入れた。


 そのとき、


 ――かんっ、からん。かちかち……。


 と、甲高い乾いた音が鳴った。


 押し入れた骨壺と前から並んでいた骨壺がぶつかってしまったのだ。幹人は咄嗟に父の骨壺に手を添えて振動を止めた。しかし、狭い納骨室にはまだからんからん、かちかちと残響音がある。

 となれば、今なお反響音を出しているのは、元から置かれていた骨壺である。

 幹人は慌てて音を鎮めるため、もうひとつの骨壺に手を伸ばした。


「――えっ……」


 音を鎮めるために軽く添えただけ。添えただけ。

 たった、それだけ。

 それなのに、触れた骨壺はするりと奥に滑ったのだ。


(――軽い? 骨壺がこんなに軽いのか? それにさっきの音……)


 そう思うと同時に、彼の中にはまた別の考えも。


(……ああ、そうか。そうなのか? あの時に感じた違和感はもしかしてこれ……。これのせい、だったのか? だったら――。けれど、そんなものをいったい何に……。)


 いくつもの疑問が泡沫のごとく沸いては消えてを繰り返す。

 しかし、納骨の途中であるために余計な言葉を挟む余裕はなかった。


 彼は父の骨壺を納め終えると、再び卓治とともに蓋石を閉めた。

 住職が再度の読経を唱える間、目を瞑り、父の供養を思うとするものの、まったく集中することができなかった。


 彼の頭脳は、答えにならない考えをなんとかまとめようと足掻き続けていた。

 異様な、原型の見えない手がかりだけが転がっている。けれど、それらが寄り集まって成す形は、どう取り繕っても異形でしかない。

 得体の知れない切迫感と身体の芯か這い上がる恐怖が、彼の中で渦巻いている。


「それじゃ、家に戻りましょうか……」


 フミがそう言ったとき、周囲の霧煙が一段濃く灰に染まった――ような気がした。

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