7.
話を終えると、フミは自室のある二階に上がっていった。
八畳ほどの部屋には布団が敷かれており、すぐにでも横になって休める状態だった。時計を見ると、九時の直角が出来つつあった。
「ふぅ……、お地蔵さま、か」
彼の頭の中では、フミの語った地蔵への言葉がぐるぐると回っていた。
――幸せだけが集まってくる。
それは、亡父の言葉に極めて近しいものだった。
地蔵を信仰し、それによって救われる。
この村はそういうところである。
フミと同じく、父――学人もそう言いたかったのだろうか……。
「どうなんだろうなぁ……」
幹人は呟き、布団に転がった。
旅館の布団のような柔らかさはない。冷たい固さに、長いこと仕舞い込んでいた衣類独特の湿った匂いが満ちる。
見上げた視界にあるのは、格子に切り取られた板張りの天井だけ。
(――寝るか。)
幹人はまだまだ早い時間と思いつつも、電灯の紐を引っ張った。
明かりを落としただけなのに、室内の静けさが何倍にも膨れ上がった気がした。
外界の、蛙や虫……そうした小さな虫獣たちの囁き声だけが遠くに聞こえる。
目を瞑り、布団を肩にまでかける。
(――寒いな。)
五月とは思えぬ冷気が家全体に満ちていることに、遅まきながらこのときになって初めて幹人は気がついた。しかし、そんなことをそう長く考える間もなく、身体の疲労によって、意識は遠くなり始めた。
もう、眠ってしまう。
音も、感覚も。
すべてが遠く、遠くに流されて……。
ノイズのように聞こえる虫々の声たち。
眠りの淵は近い。
――ずるり……ずる、かちゃかちゃ。
眠りに落ちようかという寸前のところで、そんな音によって現実に意識が引き戻された。
どこからか、何かの、這うような音が聞こえる。
気がつけば、先ほどまで鳴いていた虫の声も、ぱったりと止んでいる。
――ずる、ずる。ぎぃりり。かちゃ。
這いずる音と何か固いものがぶつかる甲高い音。
さらに、そこに板間の軋むような音が混じる。
(廊下? 廊下に誰かいる?)
幹人は布団から身を起こした。
ゆっくりと襖に近づき、廊下を窺った。
廊下に灯りはなく、ただただ暗い闇が広がっている。
そして――。
――ずるり、ぎぃ。かちかちゃ。
闇の中でさらに黒く、何か塊がのそのそと這いずっていた。
――ずるり、ぎぃ。ひぃっ。
時折、ひくつくようにして背中と覚しき箇所を震わせて呼吸をしている。その様から考えるに、人か、そうでなくても何か生き物であることは間違いなかった。
謎の存在の正体が気懸かりであったが、しかし部屋の明かりをつけてその正体を確認をしようとは、到底思えなかった。
(〝あれ〟に、こちらの存在を悟られてはいけない。)
そんな意識のまま、歩きゆく塊を見遣っているうち、それは突き当たりの廊下で左に折れた。
(左は……、たしか台所のある方向だったか?)
左に折れてからは這いずる音も徐々に遠ざかり、まったく音は聞こえなくなった。
幹人はそれを追いかけようか逡巡して、それからそっと襖を閉じて再び布団に身を横たわらせた。
「ふぅ……」
後を追えば、謎の存在の正体を明らかにすることができるであろう。しかし、得体の知れぬ何者か相手にこちらから出向こうとはとても思えない。自ら首を突っ込みたいとはとても思えない。
目を閉じ、再び眠気に身を委ねる。
――ぎり、り。
よくよく考えれば、この家の住居人やその人数について、詳細を聞いてはいない。この家に入ってから、卓治とフミ以外の家族とは会っていない……。
――ごりり、ぎり。
もし仮に今の人物が会っていない住居人だったとして、夜の暗闇で鉢合わせて、それでなんと話をしたら良いのだろう。彼――彼女かもしれない――が、村への到着以後も顔を出さないということを考慮すれば、少なくとも彼らは、他者との接触を望んでいないという想像もできる……。
――ぎりぎいり、がり。
そんな彼らに……。
こちらからわざわざ出向いていくのは……。
気が、引ける……。
――ぎりりぃぃ。がりりぃり。
――、と、そんなふうに。
幹人は再び遠くなりつつあった意識の中で、そんな後付けの理由を考えながら、眠りに落ちていった。
後付け。
そう。
それらはすべて、後付けの理由でしかなかった。
幹人が、かの人物の後を追わなかった理由を端的に表現するならば、それは単に、恐怖に絡め取られたからに他ならない。
その証拠に、彼は震える手をぎゅっと握り合わせて状態で眠りに落ちていた。
――ごりっ、がっ、がりり、ごり。
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