5.

「幹人さん、ごめんなさいね。こんなものしかなくて」


 フミは夕食の膳を並べながら言った。


「いえ、とんでもない。丁度、お腹も空いていたので助かります」


 染水家に到着後、通されたのは二十畳ほどの座敷だった。

 座敷の奥――長方形の短辺に仏壇が据えられ、それに向かって右の長辺の鴨居にはずらりと先祖の写真が飾られている。もう一方の長辺には縁側がある。さらにその向こうには小ぢんまりとした猫の額ほどの庭が広がっている。庭は、木板で作られた膝丈ほどの柵に囲われていた。柵下からは水の流れる音が微かに響いている。


「ほらほら、遠慮しないで食べて。私たちはもう食べちゃったから」


 食卓に並べられたのは、玄米飯に色味の濃い味噌汁、胡瓜きゅうりと茄子のぬか漬け。それからわらびと根菜の和え物と、実に質素なものだった。


「ありがとうございます。いただきます」


 口にすると、飯は水気を感じるほどに柔らかく、味噌汁はやけに味噌辛い。糠漬けも同じく糠に浸かり過ぎて塩味が強い。ほろ苦い蕨の和え物だけが唯一ほっと落ち着ける味だった。


「どう、美味しい?」


「ええ、美味しいです。蕨なんかすごく久しぶりに食べました」


灰汁あく抜きが少し面倒だからねえ。手間暇かけて作ろうって人は少なくなってるんでしょうね」


 食事の間、フミとはそんな他愛もない会話を交わした。


 一方、向かいに腰を下ろした卓治――例の痩せ身の男性である――は、焼酎のお湯割で口を潤しながら煙草を吹かしているばかりである。


 奇妙なことに、家に上がって以後、彼はまったく話しかけてはこなかった。幹人が食事をしている間も、目だけを忙しなく動かしてこちらを興味あり気に見つめているだけ。

 寡黙とはまた違う得体の知れなさのようなものがあった。


「卓治さん、飲み過ぎじゃあない? そろそろにしないと」


 そんな卓治にフミが言った。


「…………」


「卓治さん」


「ああ。これで終わる」


 残っていた酒をぐっと仰ぎ流し込むと、半分ほど残っていた煙草も一気に吸いきってしまう。彼は虚ろな瞳をはたと仏壇に置かれた骨壺に向けて、


「学人は……」と、それまで重かった口を開き、話し始めた。


「学人は、最期何か言ってたか?」


「最期っていうのは……」


「死ぬ前だ」


「それは……」


 幹人は口ごもる他なかった。


「どうした?」


 幹人は、父――学人の死の瞬間には立ち会っていなかった。


「父は、旅先の事故で亡くなりました。だから、最期の言葉はありません。それどころか、どんな最期だったのかさえはっきりとはしていなくて」


 石垣から南東およそ五十キロのところに浮かぶ孤島――數樓すうろう島。

 その島に建つ館にて発生した火災。

 それによって学人は命を落としていた。

 死因は一酸化炭素による中毒死。火災による建物崩落に巻き込まれ、身動きの取れぬところを煙に巻かれたのだろうと断じられた。


 解剖の結果、および生存者の証言から得られた情報は、たったそれだけである。


 火災前夜までに館内で起こった連続殺人事件との関連性も検討されたが、同火災にて当の犯人が死亡しているために、本当の意味での真相は闇に葬られる恰好になっている始末である。


「なら、学人からは何も。……何も、なかったんだな」


「ええ」


 病院という職場環境上、これまで数多くの死の現場に幹人は立ち会ってきた。中には思い出したくないような最期もある。けれど、それら数多の人の死に直面しながら、自身の親の死に目に立ち会えなかったというのは、皮肉と言えば皮肉な話だった。


「そうか。何もないか」と、どこか安心そうな顔を見せる卓治。


「ああ、ですけど……」


 学人の死の間際については何もわからない。

 彼が何を思っていたのか、どう行動していたのか。

 それら一切は不明である。


 けれど、はっきりと思い出せる――学人の最期は、たしかに存在していた。


「旅行に行く日の朝、『――それじゃあ、行ってくる。後のことは、よろしくのう』って。記憶している限りは、それが私の知る父の最期になります」


 それは、取りようによってはたしかに、別れの言葉だった。

 あの日、玄関を出る父の背だけは、瞼の裏に鮮明に焼き付いている。


「…………」


 それを聞いて険しい顔をする卓治。


「卓治、さん?」


「……十分じゃあないか」ぽつりと卓治が言った。


「ああ、それだけあれば十分だ」


 食後に出された湯飲みの茶は、おりが落ち着かず、渦を巻いていた。


「どんな意図でも構うか。死の前、お前は学人と話した。それがたまたま最期になった。思い出してみれば、それは別れとも取れる言葉のやり取りやった。それだけで十分じゃあないか。お前はそれでは不満か? それ以上に何を望む? どんな別れやったら満足やった?」


 それまで、まるでこちらを意識せずに話していたかに見えた卓治は、いつの間にそうしていたのだろう、幹人の眉間を射貫くようにその濁った瞳を向けていた。


「どんな別れだったら、なんて……」

 幹人は唐突に迎えた別れを、良き別れとはまったく思っていなかった。むしろこんな最期があってなるものかと、そう心に激情を膨らまし、けれどそれをどこかに吐くことさえせず、心の奥底に沈めていた。


 冷静に淡々と、目の前の成すべき事を成す。

 葬儀に。母の介抱に。

 親類や関係者らへの挨拶。

 病院の引き継ぎ……。


 そうして、父亡き現実と向き合っている自分を作り出していた。


「学人はまだ小さい頃からこの村を出たいと言っとった。ちょうど隣の十子とおこくらいの時期やったか。フミ、そうじゃろう?」


 フミは仏壇近くに坐っていた。

 彼女もこちらの話に耳を遣っていたようで、


「ええ、お隣の十子ちゃんくらいの頃でしたね」と、相槌を打つ。


「俺らが子どもの頃いうんは、大人も子どもも明日をどう生きようかって、それだけを考えとる時代やった。そんな時代に、儂らは親を亡くして放り出されてしまった」


 卓治の言葉はまるで恨み事を言うかのようである。


「親が亡うなって、行く当てなかった儂らが、やっとの思いで地獄を抜けて。海渡って、流れて、隠れて……。それで食い扶持繋いだんがこの村や。暮らしが良かったとは言わん。村でも毎日のように人が死んどった。けど、儂らは生きていられた。村にも同じような人間がいて、儂らはその環に入れてもらえたからだ。それなのに、あいつは、学人はすぐにここを出たいと言いよった。儂は、どんなに貧しくても飯さえ食えたら良かった。その日を生き延びることができればそれで良かった。けど、あいつは違った。村から出たい出たいって何度も言いよった。まだ幼かった儂でさえ強く覚えてるくらいやから、相当に繰り返し言うとったんやろう。けど、奴のそれは決して言葉だけやなかった。奴は本気やったんや。拾いもんの本を広げて独学で勉強して、町んとこの金持ちに渡りをつけよった」


 卓治の話す若き日の父の姿が、はっきりと幹人には想像できていた。


 快活で剛胆で。

 年老いてなお向上心を失わない医師としての父。


 幼き頃の幹人はそんな父をずっと見ていた。

 夜布団を出てトイレに行くとき、父の書斎にはいつも灯りがあった。中を覗くと椅子に深く座り込んでは、書類を片手にしたまま力尽き寝入ってしまった父がいた。そんな姿を何度も目撃している。


 院内での仕事ぶりに関してもそうだ。

 いまだに父の残した熱源は燻っている。父の仕事ぶりを毎日のように耳にする。院長ならこうした、ああした、と。そんな話は院内の関係者に限らず、患者、その家族にまで及ぶ。


 仕事に対しては揺るぎない真摯さでもって、彼は生きていた。

 そして、認められていた。


 しかし、それは同時に、家族を顧みる余裕のない父の姿でもあった。


「町に出てからは早かった。気がつけば儂らの手の届かんとこまで登って行ってしもうた。大学を出たなんてのは儂らからしたら想像もできんことや。その後は、大っきな病院の娘と一緒になって、婿養子に入った。まあ、そこからはお前さんのほうが詳しいか」


 卓治は目を瞑ると、鼻から深く息を吐いた。


「己が妄執のためなら手段を選ばん。どんな手でも使う。結婚もそのひとつだ。それが奴だ。儂はそんな奴の生き方を良かったとは思わん。そうなりたいとも思わん。けど……、けど、たしかに妬ましさがあった。あったんだ。妬ましさとか羨ましさとかが」


 卓治の拳が固く握られる。


「そんなことを思ってしまう自分の感情それ自体も儂は許せん。けどな、けど考えてしまうんだ。奴がそうして生きていった以上、自分にもそんな可能性があったんじゃあないかってことを」


 ふっ、と力を抜くと卓治は項垂れる。


「まあけどな、そんなものよりもずっと、ずっと大きいもんもあったんだ。あったんだと思う。奴が死んだと聞いてはっきりした」


 卓治は僅かに面を上げ、御猪口おちょこの縁の一点を見つめている。


「あいつは生きて明るい道を歩いとった。けども、その道は儂らとは決して交わらん。そんなんは死どるのと同じや。会えんくなった人間は死んどるのと同じ。だから儂は――」


 卓治の言葉は消え入りそうなほど小さいにもかかわらず、強い意思が宿っていた。


「奴との最期がほしい。奴の最期の言葉がほしかったんだ。…………」


 ひとり独白を終えた卓治はおもむろに立ち上がると、


「もう、疲れた。寝る」


 仏壇の骨壺を名残惜しそうに見つめてから、卓治は座敷を出て行った。

 卓治が過ぎ去って数分してから、


「ごめんなさいね。あんな話聞かせちゃって」


 フミが困ったような笑みで言った。


「いえ、そんな」


「きっとあの人もあんな話がしたかったんじゃあないと思うの。自分の知らない学人さんのことを、あなたからもっと聞きたかったんだと思うの」


「そう、なんですか?」


「ええ、きっと。私だってあそこまで学人さんについて思っていることを聞くの初めてだったんだから。人と話すのが苦手な人だからね、ああいう言い方しかできないの」


 フミの言い方には出来の悪い子どもを見るような色があった。


「さっきも話した通り、兄弟なのにあんまりにも長いこと離れて暮らしてしまっていたから、お互いに気まずくなっちゃって。もう四十年以上合わず終い。それでそのまま学人さんが亡くなってしまったものだから、彼もどこにどう気持ちを向けたら良いのかわかっていないの。口ではもうずっと昔に死んでしまっているなんて言って、心ではそんなこと少しも思ってないんだから。じゃあなかったら、わざわざこっちに分骨をなんて言い出さない」


「それじゃあ」


「電話でも少し言ったけど、言い出したのはあの人。どうしてもお兄さん――学人さんに還って来て欲しかったのよ……」


 卓治がしたのと同じように、フミも仏壇の学人の骨壺を見つめている。


「――さて、じゃあ、そろそろ私も休みましょうかねえ」


 時刻は八時に差しかかった頃合いだった。けれど、この家ではもう遅い時間なのだろう。


 フミが立ち上がろうとした、そんなときだった。


 庭に面した縁側の戸が、どんっ、どんっ、と音を立てた。


 幹人は何事かと身構えるも、フミはまったく驚いた様子などは見せない。


「はいはい どなたですかね?」


 どころか不審がる様子も見せず、縁側に歩いていく。

 フミの声が表の人物にも届いたのだろう、ずるずると戸が引き開けられ始めた。


「夜分にすみません」


 戸の向こうにいたのは若い女性だった。

 年齢は三十になるかならないかぐらい。色の薄いブラウスの上からカーディガンを羽織っている。長い黒髪が顔にまで覆いかかっているために翳った印象を受ける。下から覗く肌の色もたいそう白く病的でさえある。手にはか細い光を放つ懐中電灯が握られていた。


佐山さやまさん、こんな時間にどうしたの?」


「それが……」と、女性は幹人の存在に気がつく。軽く会釈をして用件を続ける。


「こちらにうちの子が、十子がお邪魔していませんでしょうか?」


「十子ちゃん? いいえ、今日は来ていないけど」


「そうですか。いませんか。はぁ……」


 女性は困り顔と心配の入り混じったような表情を浮かべる。


「そしたら、あの子また沢に降りて……」


 女性は視線を崖下の暗闇に投げた。


「大丈夫? 早く行ってあげなさい」


「はい、すみません」


「あなたも気をつけて降りるのよ」


「はい。ありがとうございます」


 言って、女性は頭を下げると、戸を閉める。

 外からはざっざっという駈ける音が聞こえてきた。


「今の方は?」幹人が訊ねた。


「お隣に住む佐山さん。十子ちゃんってのはそこのお子さん」


「今の話だと、その十子ちゃんって子がいなくなっちゃったんですか?」


「いなくなったっていったらそうなんだけど。まあ、行く場所はわかってるから」


 フミの声音には焦った色はない。

 おそらくはこれが初めてではないのだろう。


「最近、十子ちゃんが沢に降りることが多くなってしまってね。その度に、ああしてお母さんが迎えに行っているの。子ども一人では何があるともしれないから、注意はしているみたいなんだけど。十子ちゃんの気持ちを考えると、そう強くも止められないみたいで」


「気持ちを考えると?」


「先月のことになるんだけど、佐山さんのところの旦那さんが橋から落ちちゃって。それで亡くなってしまったの」


「橋ってあの橋ですか? ここまでの道にかかっていた、あの」


「そう、あの橋。事故の前から旦那さんは体調が優れなくてね、ふらっと気が抜けちゃったところを運悪くって状況みたい。奥さんが発見したときにはまだ息があったんだけど、出血がひどくて。救急車が来るまでは持たなくて」


 ここまでの道中を思えば、救急車の到着に時間がかかってしまうのも頷ける。


「少し前までは、この村にもお医者様がいたの。けど、その人ももう三年くらい前に亡くなってしまって。だから、みんな困ってて……」


 フミのその言葉にはどこか窺い窺いしている様子があった。幹人も違和感を覚えこそしたが、それは自身が医師であるからこそのものだと、そう押し込めておいた。


「まあそんな感じでね、十子ちゃん、もうこの一ヶ月の間、気がつけば沢に降りてしまっていて。お母さんからしたら気が気でないんでしょうけど」


 父の死の現場に足繁く通う娘。


(――ああ、それはまるで……。今ここに来ている私自身のようでもあって……。)


「十子ちゃんもね、早く気がついてくれたらいいのに」

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