4.
姿を見せたのは、一メートルほどの背丈の地蔵だった。
一見何の変哲もない地蔵。
手足は地蔵らしくデフォルメされ、顔においても丸みを帯びた普通のそれである。丁度地蔵の胸の辺り、袈裟の左袖には『仄』と読めなくもない文字がある。
地蔵の前には花生けだろうか、蓋付きの可愛らしい小瓶が供えられていた。
(それにしても……。)
地蔵の身につける袈裟などの装飾品はひどく汚れており、台座にしても苔むし古びた様相を呈している。が、一方で地蔵本体はというと、真新しいとまでも言わないが、妙に奇麗に保たれているのである。つるりとした表面は艶っぽく濡れ輝いており、まるで生物の肌のようにさえ感じられる。
「……。地蔵か。驚かせないでくれよ」
口ではそう言いつつ、けれど、幹人はその地蔵をただの地蔵として見流すことができなかった。
相手は地蔵……、ただの地蔵……。
頭ではそうとわかっていても、心的な部分ではまったく緊張感が拭えないでいた。
(――何かが……、何かが違うのか?)
地蔵の全体に再度目を配り、そして見返すようにして地蔵を見つめていると、
――ぬるっ、ぬるり。
そんな音が、聞こえた。
地蔵の切れ長の目。その細い隙間の奥で眼球が右に左に上下にと動いたのだ。今し方、幹人が地蔵の姿を検めたのと同じように、今度は地蔵が幹人の様子を確認していたのだ。
目の錯覚。見間違い。
そう自分に言い聞かせ、再度目を凝らす。
しかし、そこには身動ぎひとつしない地蔵がただ立ち尽くすのみ。
幹人は地蔵への視線を引き剥がして、顔を前に向けて、車を発進させた。
ミラーで後部の様子を確認する余裕はなかった。
まっすぐに、ただ前方だけを見つめて車を走らせた。
そこから五十メートルも進まぬうちに、とうとうアスファルトの舗装が消えた。泥水の溜まった穴ぼこがいくつも点在し、石ころが疎らに散らばった砂利道のようになっている。
そして――。
「おいおい、嘘だろ……」
トンネルの出口にあった地蔵。あれに似た地蔵が、左右の道に二メートルおきくらいの間隔でずらりと並んでいるのである。
視界に入るだけでもざっと五十体はくだらない。しかもそれらすべてが整然と並んでいるわけではなく、どれもこれもが道に対しててんでばらばらな方向を向いているのだ。
その統一感の無さは、地蔵のひとりひとりが別個の意思を持ってそうしているようで、彼らの生の表明にも思えた。
(――ここを行くのか……。)
ここまで来て引き返すわけにもいかない。
道もずっと一本道である。間違えようがない。
幹人は半ば諦めの感情で、恐る恐る車を進めた。
右……。左……。左……。
右……。左……。
車両の両脇を地蔵の群れが流れていく。
幹人は、水の溜まった穴ぼこを回避しようとハンドルを切る。再び道の真ん中に戻ろうと、不意に右のサイドミラーに目を遣った――、
「えっ……」
後方の地蔵すべてが、ミラー越しにこちらを向いていた。
尾てい骨から脊椎を駆け抜けるように、寒気が這い上がってくる。
幹人は半ばパニックを起こしてアクセルを目一杯踏み込んだ。
道に転がる岩や水の溜まった穴ぼこなどお構いなしに猛然と車を走らせた。
じゃり……。
ぎ、じゃじゃ。ぎり、じゃりり……。
特別に車高が低い車ではない。けれど、勢いついた車速と荒れた路面のせいで何度も何度も車底を擦り、車内には金属と石の擦れる嫌な音が響き渡っていた。
(――早く、早く着いてくれ。)
じゃじゃ。ぎり、じゃり、ぎりぎりぃ……。
擦れる音が車内に谺する。頭の中は音に支配されていく。
音は想像を頼りに勝手に形を持とうとする。
ぎり、じゃじゃり、ぎりぃ……。
(――これは何の音だ? 車底を擦る音。そう、それ以外にはない。それなのに……それなのにどうして……。)
その擦れるような音は、地蔵がその向きを変える音のように思えて仕方がない。
こうして走っている最中も、後方では地蔵が次々に方向を変え、こちらを向いている。そんな映像が鮮明に脳内に描き出される。
(――嫌だ嫌だ嫌だ。早く早く早く……。)
どれくらいそうして車を走らせただろう。
気がつけば、辺りにはもう地蔵の姿はなかった。
道の先には、白いペンキの剥げた欄干を備えた鉄橋がかかっていた。
近づき見れば、ペンキの剥げ落ちた跡には赤黒く鉄錆が広がっている。トンネル同様、もう数十年も補修なぞ施されていない様子である。また、かなり昔の建造物のためなのだろうか、安全性はそこまで考慮されなかったようで、その欄干はかなり低い位置に設えられていた。
橋の向こう岸に見える山沿いには、ぽつぽつと民家の明かりらしきものが灯籠の明かりのようにぼんやりと揺れている。
おそらくは、この橋を渡った先が目的の入出塚村なのだろう。
時刻は午後六時になろうかしていた。
陽はすでに山の向こう側に消え、辺りは森閑とした闇に支配されている。山の稜線だけが火に焼かれたように赤い線を描き、夕刻であることを物語っていた。
幹人はゆるゆると、霧に抱かれた鉄橋を渡っていく。
欄干から覗く下界の景色は黒一色だが、かろうじて聞こえてくる流水の音から、そこに沢が流れていることがわかった。
橋を渡り終え、道なりに左に折れる。
対岸の山を上っていくとようやく、集落と覚しき場所に到達した。
集落……。
果たしてそう言っても良いものかどうかはわからない。が、ここが終着点と考えるよりない。
ライトの照らす道の先は行き止まりになっており、丁度のその道の切れるところに五軒程度の民家が並んでいた。
幹人は表札を辿りながら車を進めていく。
(――一軒目。……違う。)
民家の磨り硝子越しに黒い影が動くのが見えた。
(――二軒目。……ここも違う。)
細く開けられた玄関戸の奥で人の蠢く気配があった。
「……」
三軒目、四軒目と表札を確認をするも、探す名は見つけられない。そしてそれまでと同様に、すべての家々でこちらを窺う人の気配があった。けれど、どれも人影や小さな動きだけ。はっきりとした人の姿は捉えられないのである。
盗み見られているようなこの感覚は、地蔵から感じたあの視線に酷似しているように思えた。
そうして、最奥の――五軒目の民家に到達したときだった。
軋みを上げるようにぎこちなく玄関戸が開かれた。
その隙間から姿を現したのは痩せ身の、異様に手足が長い男性であった。
男は窮屈そうに身体を曲げて戸をくぐり出てくる。
幹人はその顔を窺い見ようとするも、周囲の暗さもあって、表情までもは見通すことができなかった。
幹人は車を完全に停車させ、その人物の動向を注視していた。すると、闇の中の男の影もこちらをじぃと見据えていたのだろうか、こくりと小さく頷く返してきた。そして、こちらに向けて緩やかな歩調で足を動かし始めた。
男は車の斜め左前方にいる。真っ直ぐにこちらに歩いてくると、ヘッドライトの照らす明かりの中を抜けることになる。
一歩……、二歩……。
三歩……。
男がヘッドライトの光中に入った刹那。
幹人は我が目を疑った。
あれは……、あの日見た――。
白い包帯に巻かれた……。
張り付く包帯を解いた下にあった……。
黒く焼け爛れた父の、あの顔……。
あのときの骸がそのままに生を取り戻し、目の前を歩いている。
とても信じられないことであり、非現実的な発想であることは幹人自身も理解していた。けれど、そうとしか思えないほどに目の前の光景は衝撃的だった。
男の影が、幹人の隣――窓ガラスの横に立つ。
そして、身体を押し曲げて車内を覗き込む。
「……っん」
生唾を飲み込み、幹人はその人物を見つめた。
薄く広い眉の下にある落ち窪んだ眼下。三白眼の瞳が焦点の定まらないままに忙しく動き回っている。丸く盛り上がった頬から顎にかけては抉れるほどに窶れ落ち、皮膚が弛み伸びている。
顔の全体像の与える印象は、精悍な父の姿とは似つかない。
けれど、薄くも広い眉や小さな瞳、頬の張り方などの細部のパーツのひとつひとつが父を連想させる。
父のようであって、父でない者……。
(――この人物が……。)
「よう、やっと還ってきたか」
男が笑った。
それは、爬虫類めいた笑みだった。
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