3.

 父の供養を思って、という気持ちもあった。


 しかし同時に、幹人の胸中には、父が幼少を過ごした故郷を見てみたいという感情が湧き上がっていた。


 香苗から聞いた『人によっては幸せを手に言えることもできる地だ。良いところではある』という言葉も、彼の興味を引きつけている要因のひとつであった。


 彼は分骨した骨壺とともに鹿児島県南部、O**半島の南端に位置する入出塚はいづか村に向かった。


『ああん? ああ、学人の息子か……、来るか。そうか。気い付けて来い。まぐれんようにな』


 村の場所の詳細を聞くために電話した際、電話口にはぶっきらぼうな男性が出た。

 学人の弟の卓治たくじとのことだった。


 方言こそあるものの、声の低さや口に溜める話し方はどこか父に似たように幹人には思えた。


 卓治の話によれば、入出塚村はとある岬へ向かう道中、山間に分け入った細道を進んだ先にあるとのことだった。


 空港から岬までが車でおよそ二時間半ほど。途中山道に入ってからのことを考慮しても、三時間もあれば到着できる距離である。


 石垣から那覇、福岡と経由し、鹿児島空港に到着したのは午後二時も半分過ぎた頃だった。


 空港のカフェで遅い昼食を済ませると、レンタカーを借り入れて岬に向けて走らせた。


 東Q自動車道からO**道を通り、街道を南下する。

 街道にはソテツやヤシ、シュロといった南国風の木々が立ち並び、右手には鹿児島湾が悠然と広がる。薄雲が広く蔓延ったあいにくの空模様だったが、雲間からは薄明光線が差し込み、層を成しながら海面に環を落としていた。


「レンブラント……、ヤコブの梯子だっけか」


 ――向こうの世界への梯子。


 そんな意識がふっと浮かび、慌ててかき消した。


 海の情景も束の間、街道をさらに南下すると、海の気配はぱったりと消え、山間を縫うようなワインディングロードに変わる。岬までの道路はドライブコースとしても有名で、観光道路としての整備が進められていた。走り易い二車線の道路で、ツーリング中のバイク集団とも幾度かすれ違った。


 快走路を三十分も進んだ頃だろうか。


 道路沿いの小さな神社を過ぎてからは、道はより深く山間に入り込み、鬱蒼とした森に覆われ始めた。細い県道に入ってからは、いよいよ森の様相が大きく変化を見せ始める。


 それまで疎らに点在していたソテツなどの南国樹が、密集して群生することで、樹木の壁を形成しているのだ。


 ここまでくると、森というよりは密林という表現のほうがしっくりくるかもしれない。そんな密林の直中を進む道路においても、普通の道路とはならず、上下に歪なうねりと左右の蛇行を伴った奇怪なものとなっていた。


(――果たしてこの道は正しいのだろうか。)


 そんな不安がむくむくと膨張し始めた矢先、生い茂る密林の裂け目に朱色が見えた。



『入出塚村→』



 黒文字に朱色の矢印が引かれた小さな板切れが立っていた。


「ここを……、入るのか?」


 板の示す先には、もう長いこと整備がなされていないことが明らかな荒れたアスファルトが露出していた。罅割れた隙間からは植物の根が顔を出している。道幅は中型車がやっと通れるかといった狭さである。もしも対向車が来た場合、離合には手こずることが容易に想像できた。


 道が正しいのかという不安はますます大きくなり、路肩に車を止め、一度その道の奥を覗き込むようにして確かめた。しかし、曇天のせいもあって、森の奥地へと伸びる曲がりくねった道は見通すことができない。道路情報を調べるも、脇道は主要道路ではないために地図上にその存在はない。


(――時間も時間だしな。)


 時刻はもうすぐ午後五時に差しかかろうとしている。


 空港を出発してからおよそ二時間なので、当初の予定から考えれば、この辺りで村への脇道に入るのは妥当に思えた。


「よし、行くか」


 自らを鼓舞するかのようにあえて口に出して、サイドブレーキを解除。ウィンカーを点灯させたとき、


「おい、お前さん。ここ行くんか?」


 幹人の車の脇に一台の軽トラが停車していた。助手席のウィンドウを下げて、白髪混じりの老人が声を飛ばした。


「ええ。そうですが」


「あんた、入出塚村の人間か?」


「……いえ、違いますけど」


「そんじゃ、どして?」


「親戚がいまして」


「親戚ぃ?」


 老人は目と鼻と口とを中心に集めた困ったような、はたまた気持ち悪そうな、そんななんとも言えない表情をして、


「こん先には数えるほどしか家はねえぞ」


「そうなんですか?」


「ああ……」


 老人は幹人の人相をしつこいほどに見つめ、それから視線を車内――助手席に向けた。


「ふぅん……。まぁ、そういうこと、か」


「そういうこと?」


「んにゃ、なんもない。まだ若いんじゃから。気い付けぇな」


 言うだけ言うと、老人は車を走らせて行ってしまう。

 走り行く車の赤いテールランプが、まるで逃げ去るかのようだった。


 老人の妙な素振りに気を削がれたが、もう一度気を取り直してハンドルを握った。

 道に入ると、予想通り、車は路面の凹凸を拾っては上下に揺すられた。


 まだ日のある時間であるにもかかわらず、葉を広げた樹木に覆われた道は薄暗く、ヘッドライトを付けなければ先の道がどちらに曲がっているのかすらわからない。あわせて、むくむくと蔓延り始めた霧によっても視界は不良を極めた。


 数十メートルも走るうち、どうやらその道は山の斜面に沿って九十九つづらに下っているらしいことがわかった。


(――本当に、こんな道の先に村があるのだろうか。人が住んでいるのだろうか。……いや、あの老人の言葉だと村があるのは間違いないと考えていい。いい、とは思うのだが……、あの人はいったい何を……)


 ――がらがら、じゃらざらざら……。


 意識を別のところに向けた途端、車体が道端の枝葉に擦れて嫌な音を立てた。余計なことは考えずに運転に集中しなければ事故に繋がりかねない。

 そうしてなるだけ運転だけに意識を集中させ、十分か、十五分か、徐行で車を進めた。やっとのことで勾配のきつい坂を下り終えたときには、心底ほっとしたものだった。


 悪路から一時解放され、人心地ついて幹人は空を見上げた。


 フロントガラスに切り取られた狭い視野。

 さらにそれを森の木々と霧が覆い隠し、見通せる空は掌ほどもない僅か。

 その僅かな空さえも、厚く垂れ込めた雲によって灰に覆われていて……。


 灰に……。

 いや、灰ではない。


 今や雲は夕陽の朱を受け、赤黒い血管のように脈動している。

 雲間にできた細い切れ目は傷のようにも見えて、その傷口からは今にも異形の〝何か〟が零れ落ちてきそうで――。


 幹人はぶるりと身を震わせると、正面に目を向け、汗ばむ手でハンドルを握り直した。妙な緊張感を携え、さらに車を進めた。


「あれは……」


 そこからさらに奥へと車を進めると、古びたトンネルに行き当たった。


 トンネルには外から見る限り、内部に灯りの存在は認められない。アーチ状に積まれた不揃いの石には黒緑の蔦が絡まり、もう長いこと人の手が入っていないことが見てとれた。入り口の脇には、色褪せた青いプラスチックベンチと錆びの広がったバス停らしき標識が立っている。


 標識のすぐ横で車を止める。

 停名には『入出塚村前』と記載がある。


 バスの時刻表を確認すると、午前のかなり早い時間と昼前の二本、それから十六時頃に一本のバスの運行が確認できた。


 どうやらここまでは生活路として機能しているらしい。しかし、トンネルの向こう側までバスが進んでいるとは到底考えられなかった。トンネルの天井は人の背丈ほどに低く、通れても幹人の借り入れたコンパクトカー一台がやっと。バスの通行は不可能である。トンネル手前にはどうにか車一台が転回できそうなスペースがあるので、ここでUターンしてバスは引き返しているのだろう。


(――さて、どうしたものかな。)


 ここにバス停があり、その停名が入出塚村とある以上、そう遠くないところに――たとえば、トンネルを抜けた先辺りに、目指す集落があるのは間違いないと考えて良い。ここで車を降り、歩いて村を目指すことも可能と思われる。しかし、時刻は夕刻であり、今晩の宿のことを考えると、どう足掻いても村に滞在するより他ない状況である。


 仮に幹人がここに車を置いて村に入った場合、明日の早朝にここを訪れたバスが転回できずに立ち往生してしまうのは想像に易い。けれどだからといって、この先をも知れぬ狭いトンネルに車ごと入るには少なからぬ抵抗を感じてしまう。


 まあしかし、だからといって、身ひとつで暗いトンネルに足を踏み入れることができるかと問われれば、それもまた心理的に難しいのも事実ではあるのだが……。


 困り果てた末に、幹人は電話をかけた。


 ざらざらとした雑音混じりに一、二、三……と呼び出し音が続き、四度目のコールが鳴り終わったところで相手方が出た。


『……はい』


 電話に出たのは男性だった。声音からして卓治だろう。


「こんにちは。幹人です。今、車で村に向かっている最中なんですが、トンネルのとこにいまして」


『はぁ……、そんで?』


「えっと、このトンネルはこのまま車で進んでも良いものかどうか少し困っていまして」


『何を言うとる? いいに決もうとうやろ。トンネルは通るもんや』


「いや、まあそうなんですが……」


『いいから、早う来い。早よせんと暗うなるぞ』


 幹人の心配は少しも通じなかったらしく、卓治はあっさりと電話を切ってしまった。


「行くしかないのか……」


 向かうトンネルは異界の入り口のようにぽっかりと口を開け、乳白色の霧をその内部に蓄えている。


 彼は車のドアロックが掛かっていることを確認すると、意を決してブレーキを解除する。ゆるゆるとスリープだけでトンネルに侵入した。


 ヘッドライトに照らされた霧は、光を乱反射させては、生き物のように漂泊している。


 車が完全にトンネル内部に入ったところで、彼は窓ガラスを下げるか悩んだ。借り入れた車は車幅もそう大きくコンパクトカーである。左右にも多少の余裕がある。しかし、運転に自信のない幹人は、それでも車体を擦ってしまわないか不安があった。


 窓ガラスを下げれば、首を出して目視で様子を確認できる。


 けれど、ここまでの道中で少しずつ少しずつ心を侵していた恐怖心がそれを妨げていた。


 先がどのようになっているかまったく見通せない。

 何が潜んでいるとも分からない空間……。


 密閉された車の中だけが、唯一安全な世界であるかのような気になってくる。窓ガラスを開けて目視で確認をするというのは、それこそ暗闇に首を差し出す自殺行為に思えてならない。


(――このまま行こう。大丈夫。すぐに抜けられる。)


 気持ちが急く一方で、車はゆっくりとしか進められないことが、幹人の心を削り取っていった。


 右に弓なり曲がったトンネルを車がゆっくりと進んでいく。

 なかなか出口は見えてこない。

 じりじりと焦りだけが募り、アクセルに乗せた足は硬直を始める。


(――早く早く。)


 時間にしてものの三分もなかっただろう。けれど、彼にはその時間がとても、とても長い時間に感じられた。


(――あっ。)


 だから、出口から射す外の淡い光が見えたとき、思わずアクセルの踏み込みが大きくなってしまった。


 フロントバンパー。前輪。


 トンネルの暗から外に出るにつれ、車体の輪郭が現れ、視界に占める明度の割合も大きくなっていく。


 フロントガラス。サイドミラー。


 明るさが増えるほどに安堵が胸中に広がっていく。


(――もうすぐ。)


 ハンドル。

 幹人の坐る運転席。


「…………っ!」


 身体がトンネルから出終わった瞬間、彼の足は力いっぱいブレーキを踏みつけた。

 車は、がくんと大きく揺れて、完全に停止した。


 車内には風を吹き出すクーラーの音。

 鼓動のように伝わる低いエンジン音。

 それから、かちかちという助手席に置いた骨壺の蓋が揺れる音。


 すぅっと、彼の首筋を汗が伝っていく。


 現在、車はその半分が――丁度、運転席から前がトンネルから出ており、後部座席より後ろはいまだトンネル内という中途半端な状態だった。


「ふぅ……ふぅ……」


 彼はハンドル下の足許に目線を落とし、呼吸を整えるように小さく息を吐く。が、いっこうに気持ちは落ち着かない。


「…………」


 彼はブレーキを踏んだことを激しく後悔していた。


 なぜブレーキを踏んでしまったのか。


 右のウィンドウ。遠ざけた視界の端の端。


 幹人の、すぐ右横隣。



 そこに、がいるのだ。



 ただでさえ道幅狭く見通しの悪いトンネルである。当然、内部から出口外の気配を窺うことなどできなかった。出口を抜けてすぐの草陰となればそれはなおのこと。


 ガラス一枚を隔てた向こう側から、そのは車内の幹人をじぃと見つめている。いや、正確には見つめている視線だけをはっきりと感じるのだ。


 視線の主を想像しただけで首筋がぞくりと粟立った。


(――このまま無視して行こう。)


 心ではそう思っても、目を背けたい気持ちに反して、彼の首は軋みながら回転を始めていた。


 自らは玩具の人形。

 巨人がその首を抓んで無理矢理に回している……。


(――やめろ。ダメだ。ダメだ。見てはいけない。)


 本能の叫びも虚しく、彼の眼球は視界の端を注視してやめない。


 そうして、徐々にその何かは像を結んでいき……。

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