第3話
東京駅から新幹線で一時間弱。
僕らは群馬県にある安中榛名駅で下車した。都会の喧噪から離れた静かな場所だ。数年前に作られた新しい駅で、小さな町に不釣り合いなほど立派な駅舎がある以外はなにも見当たらない。なぜここに新幹線が通っているか不思議な駅だった。
「すごーい!」柊子が驚きの声をあげた。「こんなに空が広いなんて!」
思わず声をたてて笑ってしまった。はじめてこの景色を目にしたとき僕も同じことを口走ったのだ。視界を遮るものがないから見渡すかぎり空が広がっている。はるか遠くに山があるのだけど、それさえなければ地平線さえ見えそうだった。
「ねえ、ひとつ質問していい?」
「どうぞ」
「なんでデートが天体観測なの? 普通ディズニーランドとか行かない?」
答えるのを躊躇した。柊子を忘れないために、とは恥ずかしくて口にだすのが憚れてしまう。どう伝えればいいのだろうか。
「世の中に永遠不変なんてものは存在しないと思う。もしもあるとしたら数学の公式くらいかな」
「突飛な話になったなあ」
「まあね」頷いてから続けた。「あの日、僕はきみのことを忘れないといった。その言葉には嘘はない。だけど今はそう思っていても、いつかきみを忘れてしまうかもしれない。人の気持ちなんて変わっていくものだからね。ところで柊子は北極星がなんていう名前か知ってる?」
「こぐま座だってのは知ってるけど」
「ポラリスっていうんだ。でも約二千年後にはケフェウス座の星が北極星に代わるんだ。だいたい二千年ごとにエライ、アルフィルク、アルデラミンという順にね」
「ふうん、知らなかった。おじさんって詳しいんだね」
「星野めぐるっていうくらいだからね」僕は笑った。「この星空もいつかは変わってしまう。けれど僕が生きている間はほとんど変わらない。毎年クリスマスイヴは同じ星空が観られるんだ。イヴのたびに僕は空を見上げては柊子と一緒に観た星空のことを思いだすんだ」
「素敵だね。ちょっとおとめちっくだけど」
「おとめちっくは死語だけどね」
冬の夜空は秋のそれとは違い明るく賑やかだ。
まっさきに目につくのはオリオン座と天狼星とも呼ばれるおおいぬ座のシリウス。オリオンは全天でもっとも美しいといわれる星座でシリウスはもっとも明るい星だ。
シリウスにベテルギウスとプロキオンを結んだのが冬の大三角形。さらにポルックスとカペラとアルデバランとリゲルの四つの一等星にシリウスとプロキオンを結ぶと冬の大六角形になる。
「ポルックスって双子座だよね?」黙って説明を聞いていた柊子が不意に口を開いた。
「そう。有名なカストルとポルックスの双子」
「おじさん、あの神話って知ってるよね? あたし、あの話を聞いたときすごくせつなかった」
せつないか。確かにそうかもしれない。
スパルタの王子として生まれてきたカストルとポルックスの出生には逸話がある。彼らの母レダが白鳥に化けたゼウスと交わり、レダは巨大な卵を産み落とす。その卵から四人の子供が生まれる。カストルとポルックスとクリュタイムネストラとヘレネだ。クリュタイムネストラとヘレネは十年続いたというトロイア戦争に大きな関わりがあるのだけど長くなるのでその説明は省く。
カストルとポルックスは所説あるけれど一般的には父親が違うとされている。カストルの父はスパルタの王ティンダレオス。ポルックスの父はゼウス。この差が二人の運命を大きく左右させた。
あることがきっかけで双子は従兄弟のイーダスとリュンケウスと争うことになり、カストルは命を落とすことになる。深い悲しみにうちひしがれたポルックスは兄を追い自ら命を絶とうとするのだが、ゼウスの血を引く彼は不死だった。仲のいいことで有名だった兄弟。このときのポルックスの悲しみはどれほどのものだったのだろうか。結局、見るにみかねたゼウスが双子を空にあげることになる。
「あたしね、双子じゃないけど妹がいるんだ」
知ってるよ。と声にださず相槌をうった。柊子の妹が誰なのかも。
「会いたい? 妹さんに」
「会いたくても会えないよ。もし会えたとしても、あたしに気づいてくれない」
おそらく今まで何度か会おうとしたことがあるのだろう。諦めに似た口調だった。
ではなぜ僕は柊子と会えるのだろうか。推測にすぎないけど彼女と会うには一定の条件が必要なのだ。知らないうちに僕は条件を満たしていたのだ。
「会えるよ、今ならね」たぶん僕は答えを知っている。「実はここに呼んでるんだ。小日向冬子さん」
「──えっ?」
「お姉ちゃん」と声がした。
手にしているライトで声の主を確認する。そこには柊子によく似た顔の女性──夏海がいた。柊子を見つめる彼女の目からは涙がこぼれていた。
「本当にお姉ちゃんだ」
「ちょ、ちょっと待って。どうなってるの? どうして夏海がここに? なんで、おじさんがあたしの本名まで知ってるの?」
狼狽する柊子に僕は笑って答えた。
「理由なんてクリスマスのささやかな奇跡ってことでいいじゃないか」
──何度も顔をあわせていれば、いくら鈍い僕でも彼女が何者なのかは察しはついた。声が夏海とそっくりだったのだ。二人の顔もよく似ていた。
柊子と会える条件は彼女のことを憶えていること。記憶の片隅に追いやらず、亡くなったものではなくて今いるものとして認識すること。加えて白石柊子の曲を知っていること。おそらくそのあたりだろう。
「ごめんなさい、お姉ちゃん。めぐるから話を聞くまで、お姉ちゃんのことを忘れてた。ううん、忘れてたわけじゃないけど、心の片隅のほうに追いやっていた」
「しょうがないよ。人は大人になってくんだから」
十年はあまりにも長い。
柊子が亡くなったとき、夏海はまだ十二歳だった。痛みや悲しみはしだいに風化し、いつかは忘れていく。痛みを抱えて生きるのはとても難しい。
「でも、最後に会えてよかった。きれいになったね、夏海」
「お姉ちゃんの、白石柊子の妹ですから」
二人は声をあげて笑った。
楽しそうに笑う声を聞いて僕は苦しくなった。柊子は今、なにを思っているのだろう。どんな気持ちで、自分よりも年上になった妹に「きれいになったね」といったのだろう。
残酷なことをしている自覚はある。けれど僕にできることは、柊子が消えてしまう前に夏海と引き合わせることくらいしかなかった。
「わたし今、演劇をやってるの」星を眺めながら夏海が話しはじめた。「めぐるの小説を演ったこともあるのよ」
夏海がいっているのは『Bon Voyage!』のことだ。主人公の翔子は彼女が演じていた。時間の解釈が僕の小説よりも丁寧で、年齢を重ねていく翔子と、永遠の少女である幽霊の真帆との対比が印象的だった。
「めぐるの小説を読んだときお姉ちゃんのことを思いだしたの。翔子を演じたときもそう。そのときの気持ちをずっと憶えていようと思ってたのに、忙しいとすぐに大切なことを忘れちゃう」
「あたしもおじさんの小説は読んだよ」静かに柊子がいった。「真帆の気持ちってすごくよく分かる。だって真帆はあたしと一緒だから。みんな、あたしのことを忘れていく。誰か一人がいなくなっても、世の中はなんにも変わらないし。あたしなんて最初から存在しなかったみたい」
「そんなこと──」
いいかけた夏海は途中で口をつぐんだ。彼女も柊子のことを記憶の片隅に追いやってしまった一人だから最後までいえなかったのだろう。
「真帆が記憶喪失になったのって、みんなから忘れさられていく怖さに耐えられなかったからなのかもしれない。そんなふうに考えながら読んでたんだ」
「お姉ちゃんもそうなりたかった?」今にも泣きだしそうな声で夏海がいった。
「ちょっと前なら、そう思ったかも」柊子は笑って答えた。「あたしね、あの小説のラストがすごく好き。真帆は救われたんだなあって素直に信じられたから」
「作者冥利に尽きるね」
幽霊の真帆は最終的に消えてしまう。かつて真帆が生きていたことの、幽霊として存在していたことの証のために、翔子は『Bon Voyage!』という音楽を作る。真帆のことを忘れないように、大切な人への思いをそこにこめて。たとえ忘れてしまっても、その曲を聴けばいつでも思いだせるように。
「そろそろ時間かな」
ゆっくりと柊子は立ちあがった。時計を確認すると、日付が変わるまで五分を切っている。
「泣いてるとこなんて見られたくないから、あっち行ってるね」
「ちょっと待って」
立ち去ろうとする柊子を呼びとめた。
あの日、柊子が消えてしまうと聞かされたときから僕はずっと考えていた。なにか柊子にできないか。夏海に会わせるだけじゃなく他になにか。結局、答えはひとつしかでなかった。
「柊子のことを小説にしてもいいかな」
「恥ずかしいから、いいよ」
僕たちに背中を向けながら柊子はいった。
「けど」
「夏海とおじさんが憶えてくれてるだけで、あたしは充分しあわせだから。それだけで、いいから」
振りかえった柊子は、暗くてよく分からなかったけれど微笑んでいたような気がした。
「ありがとう、おじさん。今日は楽しかったよ」
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