第2話
トーコはたびたび僕の部屋を訪れるようになった。小説家が珍しいのか、それとも友人がいないだけなのか、などと思っていたのだけど、それだけではないようだった。何度も顔をあわせていれば、いくら鈍い僕でも彼女が何者なのかは察しはついた。
しかし、どんな事情があってもトーコの存在は恋人を怒らせるのには充分すぎた。意外かもしれないが僕にも恋人はいる。小日向夏海という演劇をしている女性だ。
「めぐるが浮気をする人だなんて思いもしなかった」
久しぶりに会ったのに喫茶店で修羅場になっている。注文したアールグレイもすっかり冷たくなっていた。
「信じてもらえないかもしれないけど浮気はしてないよ。彼女とはなにもない」
「言い訳なんて聞きたくない。劇団の子がめぐるの部屋から女の子がでてきたの見てるんだよ。女の子を家にあげて、なにもないわけないでしょ」
「家にあげたのは事実だよ。けど本当になにもないんだって」
「そんな都合のいいこと信じられるわけないでしょ。わたし帰る」
勢いよく立ちあがり夏海は去っていった。
僕は溜息をついた。説得力がまったくないのは分かっている。僕が夏海の立場だったら、やっぱり信じられないだろう。
ふと以前読んだ小説のことを思いだした。少女向けのその作品は幽霊の青年に恋をする物語で、少女には青年の姿が見えるものの他の人には青年の姿が見えない。少女は青年とデートをしているつもりでも、まわりからは一人遊びをしているように映る。僕とトーコの関係は、その小説の少女と青年に近いのかもしれない。
喫茶店をでてから一人で街を歩く。十二月になると街の景色はクリスマス一色に染まり、鮮やかなイルミネーションやツリーが飾られる。クリスマスソングが流れる中、サンタクロースの格好をした売り子をみかけるのも珍しくない。
「おじさん」
吉祥寺駅の近くで声をかけられた。声の主が誰なのか顔をみなくても分かる。僕を「おじさん」と呼ぶのは一人しかいない。
「奇遇だね」
トーコは淋しそうに微笑した。
「このあたりにいれば、おじさんに会えると思って」
なにかあったのだろうか。僕に会いたいなら直接部屋まで訪ねてくればいいのに。とは思ったもののトーコは訳ありの子だ、詳しいことは訊かないことにした。
「井の頭公園でも散歩しようか」
「……うん」
トーコは力なく頷いた。本当になにかあったらしい。
駅から歩いてすぐに井の頭公園につく。公園内は賑やかだった。所々でギターを鳴らしている人、妖精をイメージした可愛らしい衣装で歌っている女性、手品を披露している大道芸人などがいる。
ゆっくりと池のまわりを歩きながら不意にトーコがいった。
「十二月って、なんだか淋しいよね」
「それは──」
きみが齢をとらないからだよ、といおうとして結局は口をつぐんでしまった。
「おじさんは去年のクリスマス、なにしてたか憶えてる?」
「仕事してたよ。作家は盆も暮れも正月もあまり関係ないからね」
「そっか。小説家も大変なんだね」
トーコは笑った。やはり生気が感じられない。彼女に対して生気という言葉はおかしいかもしれないけど。
「きみは去年のクリスマスどうしてた? 白石柊子さん」
「──えっ?」彼女は足を止めた。心底驚いたように目を丸くしている。「あたし、その名前いってないよね?」
「聞いてないよ。けど知り合いにきみのファンだった人がいてね。仕事の都合上、色々ときみのことを聞いた。写真も見せてもらった。きみが白石柊子なのはすぐに気がついたよ」
半分は嘘だった。
彼女が白石柊子だと気づいたのは僕が『Bon Voyage!』を書いたからだ。あの作品も幽霊の話なのだ。翔子という少女と記憶をなくした真帆という幽霊の奇妙な友情を描いている。真帆は偶然にも柊子の境遇によく似ていた。
「そっか、感づかれてたんだ。おじさんも侮れないね」柊子は溜息をついた。「去年のクリスマス、あたしはひとりきりだったよ。去年もおととしもその前も」
ちょうどそのとき、近くで誰かがギターを弾きはじめた。桑田佳祐の『白い恋人達』。おそらく練習なのだろう、たどたどしく何度も同じ場所を繰りかえし弾いている。
「毎年毎年、この時期になると新しいクリスマスソングがでるでしょ。それを耳にするたびに、あたしは自分が忘れられた存在なんだって実感する。誰もあたしの歌なんて憶えていない。誰もあたしのことなんて憶えていやしない」
「前世紀も今世紀もクリスマスの定番は山下達郎だよ」
慰めにもならないことは分かっていたが、他に言葉が浮かばなかった。
「あたし、好きな人がいたの。ふたつ年上で芸能界とは全然関係ないんだけど、すごく優しくしてくれた。まわりに内緒でつきあってた。いつか結婚しようねって、今考えればすごく子供っぽい約束もしてて、でも当時は本気でそれを信じてて、なのにあたしは死んじゃった。ちょっと前、その彼を街で見かけたの。顔とか洋服のセンスとか変わってたけど、面影が残っててすぐに彼だって分かった。でも隣には女の人がいた。子供もいた。女の子が二人。しあわせそうに『クリスマスのプレゼント、サンタさんになにお願いする?』って話を横で聞いていて、あたしは悲しくなって泣いちゃった。あたしが泣いてるのに彼はあたしにちっとも気づいてくれない。彼がしあわせになるのが許せないわけじゃないし、彼のしあわせを心から祝福したいけど、彼があたしを忘れてるのはやっぱり悲しいし淋しい。おじさんには分からないかもしれないけど」
「きみの気持ちが分かるといったら嘘になるだろうね。でも僕はきみを忘れないよ」
「嘘だっ!」
柊子は叫んだ。僕の胸が苦しくなるくらい悲痛な声だった。
「おじさんだって、あたしを忘れるにきまってる!」
「忘れないよ、絶対に」僕は首を振った。「幸いにも僕は小説家だ。ベストセラーには程遠いけどね。小説家の仕事はページの中に誰かの人生をつなぎとめることだと思う。たとえその人が逝ってしまってもページは残る。その人生はそこに残るんだ。クーンツの受け売りだけどね」
「クーンツって誰」
「アメリカのベストセラー作家だよ」
「そんな人は知らない。あたしの知らない人の言葉より、おじさんの言葉が聞きたい。おじさんの本当の気持ちが知りたい」
「──」
言葉をつまらせた。僕の本当の気持ち。それをどう柊子に伝えればいいのだろう。
クーンツの言葉は確かに真実だと思う。僕が小説を書いている理由のひとつも、そこにあるのだから。けれど、それがある種の詭弁なのも確かだ。
本が売れない時代、誰かの人生を本の中につなぎとめておいても、読んでもらいたい相手に届くとはかぎらない。せっかくの新刊が一部の書店以外に並ばないことだって珍しいことではない。ほとんどの人に知られないまま絶版になって埋もれていく佳作は数えきれないほどある。
「ひとつ提案していいかな」
「いいけど、つまんないことだったら許さないよ」
思わず苦笑いがこぼれた。面白いかどうかは正直保証できない。
「クリスマスイヴの夜、僕につきあってくれないかな。デートをしよう。一緒に星を観にいこう」
柊子は嬉しそうに顔を赤らめた。それから目を伏せ最後に淋しそうに笑った。
「ありがとう、おじさん。デートはOKだけど、でもあたし、ひとつだけいっておかなくちゃいけないことがあるの」
「なに?」
「今度のクリスマスイヴが最後の日なの」
「最後?」意味が分からなくて鸚鵡返しになってしまう。
「うん。最後のクリスマスイヴ」
続きを聞いて僕は言葉を失った。そんなことが本当にあるのだろうか。現実的ではないと思う一方で、柊子の存在そのものが現実的ではないので有り得る話だと思う僕もいる。なにより柊子がその言葉を信じている。
──今年のイヴが終わったら、あたしの存在は消えてなくなるの。そういう約束だから。
『ラストクリスマス』という曲を発表した数日後、その年のクリスマスを迎えることもなく柊子は不慮の事故によって亡くなった。その直後、柊子は神さまに会ったのだという。もちろん会ったのは錯覚で夢をみていただけなのかもしれない、と柊子はつけくわえていた。
はじめて会った神さまに柊子はひとつだけ願いごとをした。
新曲の評判は気になるところだし、愛する人たちの今後も知りたかったのだろう。そして柊子は幽霊として現世に残ることになった。十年後のクリスマスイヴまでという期限つきで。今年がその十年目だった。
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