ラストクリスマス

ひじりあや

第1話

「恩に着るよ」と皆川に礼をいった。用をすませた彼は「また」とだけ告げて去ってしまった。素っ気ないのはいつものことだが、さすがに時間が余ってしまった。

 皆川から受け取ったのは三枚のMD。それぞれのラベルに『スノードロップ』、『星の道標』、『ラストクリスマス』と書かれてある。十年前の無名のアイドルのアルバムタイトルだ。それをMDに録音してもらったのだ。

 鞄からヘッドフォンステレオを取りだして三枚目の『ラストクリスマス』を聴くことにした。イントロが流れ、しばらくして歌がはじまる。落胆した。歌声は確かに美しい。けれどそれだけで特筆することのない普通のアイドルソングだった。

 歌手の名前は白石柊子しらいしとうこという。インターネットの情報では誕生日が十二月二十四日であり、十年前に事故で亡くなっているらしい。

 白石柊子の曲を聴くのには理由がある。仕事なのだ。僕は売れない小説家をしている。本も何冊かだした。けれど専業では食べてはいけなくて兼業としてライターもしている。本業は小説家だと思っているものの周囲からは逆と思われているかもしれない。いわばただの売文家だ。

 今度の仕事も残念ながら副業で、とある著名人の本を代筆する。対談が中心で、その中の一人が白石柊子のことを延々と語っていたのだ。

 ああ、この曲か。

 聴いた瞬間、すぐに分かった。アルバムのタイトルにもなっている『ラストクリスマス』。アコースティックな曲調のクリスマスソングだった。この曲を絶賛していた某氏の声は今でも耳に残っている。

 と、そのとき。僕の身体になにかがぶつかった。

「痛っ」

 目の前で少女が倒れていた。年齢は十七、八くらい。もちろん僕がぶつかった相手だ。

「ちょっと、どこ見て歩いてんの!」

「ごめん。少し考え事をしてたんだ。怪我はない?」

 差しだした手を触れようともせずに少女は立ちあがった。

「あのくらいで怪我なんてしないけどさ」彼女は僕を睨みつける。「でもクレープが台無しになった。それとジーンズも」

 地面には無残なクレープの姿。そのクリームの一部が彼女のホワイトジーンズに付着している。

「本当にごめん。染みになっちゃうよね。クリーニング代は払うよ。それとも買い直そうか」

「そんなに謝らなくてもいいけど」呆れたように肩をすくめる。「余所見してたのはあたしも同じわけだし。これも安物だし。ただ──」

「ただ?」

「ベトベトして気持ち悪い。おじさん家って近い?」

 おじさんはひどい。これでもまだ二十八になったばかりだ。

「徒歩十分くらいだけど」

「じゃ、きまり。着替え貸して。ジーンズくらい持ってるでしょ?」

「そりゃ持ってるけど、サイズがきみに合わないと思うけど」

 遠回しに断ったつもりだった。いくら僕に非があるとはいえ、年頃の少女を家に招き入れるのは抵抗がある。

「大丈夫。おじさん痩せ形みたいだし。裾は折ればいいし」

 思わず苦笑いがこぼれた。確かに僕は平均的な男性よりも痩せているけれど、それはそれで結構気にしていることなのだ。

「おじさん人畜無害そうだし。着替えを貸してくれなかったら、あたしジーンズを脱いで帰ることになるけど。それでいい?」

「さすがによくないでしょ」

 僕は溜息をついた。完敗だ。言葉を生業にしているのに年端もいかない少女に言い負かされるのはどうかと思うけれど。

 それと着替えとはべつに気になることもあった。

 彼女とぶつかったとき僕は白石柊子の曲に気を取られていた。考え事もしていた。けれど、まったく前を見ていなかったわけではない。音楽を聴きながら人を避けて歩く器用さくらい普通に持ち合わせているつもりだった。それなのに彼女にまったく気づかなかった。突然その場に現れたように思えた。もちろん錯覚に違いないのだけど、ではなぜ僕は彼女に気づかなかったのだろう。注意散漫になっていただけなのだろうか。

「ああ、それと」僕の思考を遮るように彼女はいった。「クレープは弁償してよ」


 吉祥寺駅から徒歩十分のところに僕の住む部屋がある。単身者向けの1DKで、本が多いこと以外は特徴がないのだけど、彼女は物珍しげに僕の住まいを見渡していた。

 着替えを用意してから紅茶でも淹れようかとケトルに火をかける。ポットとカップを用意していると、

「おじさん、これなに?」

 ホワイトジーンズを履いた彼女が声をかけてきた。

 彼女が指差しているのはノートパソコン。時代錯誤もいいところの機種なのだけど、デビュー作を書いた思い出のマシンで捨てられずにいる。小説を書くだけと割りきれば現役で使えるのだろうけど今は部屋の飾りになっていた。

「仕事道具、かな。もう使っていないけど」

「おじさん、なにやってる人?」

「小説家。一応だけどね」

「嘘っ」彼女は目を丸くした。「だったら本もだしているの?」

 小説家なんて褒められた職業ではない。今の時代、売れない作家なんて溢れるほど存在しているのだから。自嘲して本棚から一冊の文庫を抜きだした。

「デビュー作だよ」

 タイトルは『Bon Voyage!』。ある新人賞を受賞して世にでたものの地味な作品で全然売れなかった。

「星野巡一郎って本名?」

「ペンネーム。本名は星野めぐるっていうんだ」

「変な名前だね」

「よくいわれる」と曖昧に笑った。

 商業デビューする前、本名で活動したこともあった。インターネットで小説をいくつか公開したものの、読者の多くから性別を勘違いされてしまった。変な名前とか紛らわしいという声を何度も頂いてしまった。

「ね、読んでいい?」

「よかったら貰ってくれないかな。そのほうが僕は嬉しい。サインも書こうか?」

「うん。サインもちょうだい」

「名前、なんて書けばいい?」とペンを握る。

「トーコ。カタカナでいいよ。おじさんみたいに面白い名前じゃないから」

 僕は一瞬躊躇ったものの「トーコさま 星野巡一郎」とサインをすると彼女は満足そうに笑った。手渡すとすぐにページを捲りはじめる。作者としては嬉しい反応だ。

 しばらくしてケトルの笛が鳴った。

「紅茶淹れるけど、飲む?」

「飲む。アールグレイがいい。おじさん家にある?」

「あるよ」

 僕自身はアールグレイの香りが苦手なのだけど、夏海の好みで常備してある。キッチンで二人分の紅茶を淹れ、部屋に戻ると彼女は黙々と本を読んでいた。ゆっくりとページをめくり、眸から一筋の涙がこぼれる。

 読書の邪魔をしないように静かにカップを置く。

 本がだせてよかったな、と彼女を眺めながら思った。商業的には失敗でも一番の自信作なのだ。これ以上の作品を僕はまだ書けていない。

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