役に立たない印籠

「若旦那、今は童よりも船だ。早く頼もう」

「そ、そうだったね。行ってくるよ」


 於カクに言われて水主小屋へ向かう。渡し賃は川の水深によって変わる。浅ければ安く、深ければ高くなるのだ。まずは渡し賃を確かめておかねばなるまい。

 土手に作られた水主小屋まで歩き、その前に立つ川高札を見上げる。驚愕した。川高札の下には『本日川留め』と書かれた木札がぶら下っていた。


「嘘でしょ、今日も川留めなんて」

「わーい、今日も板橋でお泊まりね」


 スケ姫の歓声がわしの苛立ちを増幅させる。諦めきれないわしは川岸に駆け寄って戸田川の流れを眺めた。川幅は百間ほどだろうか。平時の六十間よりも広くはなっているが船で渡れぬ水量ではない。どうしてこの程度で川留めになるのだ。納得できぬ。


「談判してやる」


 わしは水主小屋へ駆け込んだ。中で休んでいる水主たちが一斉に視線をこちらに向けた。


「なんだ、あんたは」

「旅の者です。すみませんが説明してくれませんか。どうしてこの水量で川留めになるんですか」

「水が多いからだよ。深いところで一丈ある。とても渡れねえ」


 一丈で渡れないだと。馬鹿な。歩いて渡る大井川ならいざ知らず、船ならば一丈くらい余裕で渡れるはずだ。


「嘘を言わないでください。戸田川の川留めは一丈八尺だったはずです」

「ああ、それは何年も前の話だ。今は一丈で川留めなんだ」


 昔の話だと。わしがいた世とは違うと言うのか。いや、船も川も同じなのだ。わしの世でできたことがこの異世界でできぬはずがない。


「僕は納得できません。深さ一丈の川すら渡せないなんて、そんなの水主とは言えません。船頭失格ですよ」

「なんだと」


 人相の悪い男が鼻息を荒くして腰を浮かせた。別の男がそれを止める。きっと水主がしらだろう。


「お兄さん、あんた随分と言いたい放題だが、無理なものは無理なんだよ。けれどもまあ、どうしても渡りたいって言うのなら手立てがないわけじゃない。普通は小伝馬船を水主一人で漕ぐんだが、この水量じゃすぐにひっくり返っちまう。しかし荷を運ぶ大型の平田船に水主五人で漕げば渡れないこともない。もっとも渡し賃も高くなるけどな」

「いくらかかるんですか」

「そうさな、一人百六十文ってところかな」

「百六十……ふふっ、思い切り吹っ掛けてきましたね」


 怒りを通り越して笑いが込み上げてきた。川高札に書かれていた渡し賃は平水時で三文、川留め前後で一六文だ。最高値の十倍である。


「こちらも命が懸かっているんでね。それくらい貰わねえと割が合わねえ。銭が惜しいなら諦めな」


 水主頭の傲慢な態度はわしの義侠心に火をつけた。己の立場を利用して弱い者から銭をむしり取る、このような振る舞いは断じて許されるべきではない。歪んだ世を正す、それは閻魔から課せられたわしのお役目。この渡し場で行なわれている不正を見過ごすことはできぬ。

 だが、この男を懲らしめるにはどうすればいい。相手は明らかにこちらを見下している。そんな相手を懲らしめるにはどうすれば……わしは懐に手を差し入れた。


「なるほど、よく分かりました。あなたたちは川留めなどと嘘をついて、旅人から法外な銭を巻き上げているのですね。そのような所業、御上おかみが知ればどうなるか分かっているのですか」

「嘘じゃねえよ。本当に川留めなんだ」

「ここまで言われてもまだシラを切るとはね。自分の権力を笠に着て弱い立場の者を意のままにしようとする、その腐った性根、叩き直してあげます。これを御覧なさい」


 わしは手に掴んだ印籠を高く掲げた。玄蕃からもらった抗魔の武具。その表面には金蒔絵の葵の御紋が燦然と光り輝いている。


「なんだよ、そりゃ」

「見て分からないのですか。葵の御紋は徳川家の家紋。詳しくは教えられませんが僕は徳川家に所縁ゆかりのある者です。こんな不埒ふらちな振る舞いは許せません。今すぐやめてください。さもなくば御上に申し上げてあなたたちを処罰してもらいます。すぐに渡船のお役目を再開してください」


 わしは水主たちを見回した。誰もが目を丸くし口をポカンと開けている。驚くのも無理はなかろう。格下だと思い込んでいた相手が徳川家の者だったのだからな。さあ、素直にわしの言葉に従え。


「ふふ、ははは、わはははは」


 まるで山が噴火でもしたかのような笑い声が起きた。皆、腹を抱えて大笑いしている。なんたることだ。どうして徳川家の者に対してこんな態度が取れるのだ。


「な、何が可笑しいんですか」

「あんたが徳川家の者だからって、それが何だって言うんだい。そもそも武家は領民の下僕なんだろ。将軍自らが『僕』なんて名乗っているんだからな。この泰平の世で一番偉いのは俺たち庶民のはずだぜ。武家のくせに偉そうな口を利くんじゃねえ」

「一番偉いのが庶民……そのようなこと、あろうはずが……」

「おいおい、さっきの威勢はどこへ行ったんだよ。昔言葉になってるじゃねえか。御上に言い付けたいのなら好きにしな。こちとら悪いこたあ何もしてねえんだからな」


 わしは印籠を懐に仕舞った。食いしばった唇からはもう言葉が出なかった。そうか、この異世界では武家が最下層の身分であったのか。信長によって広められた今様言葉は、武家の地位をここまでおとしめてしまったのか。

 スケ姫の傍若無人な立ち居振る舞いも今では理解できる。この異世界では至極当たり前の態度に過ぎなかったわけだ。


「あーあ、お忍びの旅なのにもう身分をばらしちゃって。しかも見事なまでに不発に終わっちゃったじゃない。情けないったらありゃしない」


 背後から聞こえてきたスケ姫の言葉が胸に突き刺さる。こんな時は慰めの言葉くらい掛けてくれてもいいだろうに。どこまでも手厳しい娘だな。


「若旦那、あの者たちの言葉に嘘はない。私は何度かこの川を渡ったことがある。他の渡し場と違って、ここは深さが一丈ほどでも船を渡せなくなるのだ。こんなことになるなら最初に教えておくべきだったな」


 於カクの言葉は胸に染みた。わしの早合点だったのか。元の世の知識で判断してはいかんな。これからは慎重に行動するとしよう。


「そうか。カクさんがそう言うのなら僕が間違っていたんだね。水主の皆さん、失礼なことを言いました。許してください」

「ほう、まだ若いのに随分と物分かりのいい御仁ごじんですな」


 背後から男の声が聞こえた。振り向くと気の良さそうな老人が立っている。


「これは大野様。何か御用ですかい」


 水主たちが一斉に頭を下げた。さしずめ渡船場の顔役と言ったところだろうか。


「なにね、通り掛かったら随分と威勢のいい声が聞こえてきたものですから、ちょっと覗いてみたのですよ。まさか徳川家に所縁の方がお見えとは。川留めで不自由をお掛けし、まことにすみませぬことで」

「いえ、増水は誰のせいでもないですし、僕も勘違いで酷いことを言ってしまいました。謝るのはこちらです」

「ふむ、ここで出会えたのも何かの御縁。今日はもう川を渡れぬことですし、志村にあります手前どもの屋敷でお泊まりになってはいかがですか」


 有難い申し出だ。志村で宿を取れるならそれに越したことはない。だが見知らぬ相手に屋敷を提供するとは、この老人、親切すぎるのではないか。わしが徳川家の者だと分かったからか。となれば何か下心があるのではないか。


「よかったじゃない、若旦那、泊めてもらいましょうよ」


 スケ姫は単純に喜んでいるが、そう簡単には頭を縦に振れぬ。考え込んでいると老人は言葉を継ぎ足した。


「これは失礼。名乗りを忘れておりましたな。手前は志村の名主なぬし、大野藤左衛門とうざえもん吉住よしずみと申します。渡船場と立場たてばの管理を任されておりますれば、手前どもの屋敷には大名、公家の方々も休憩に立ち寄られます」


 立場は離れた宿場の間、あるいは峠や大川などの難所の近くに設けられた休憩処だ。そこを任された名主となれば信頼に足る人物と考えてよいだろう。


「分かりました。ご厚意に甘えさせていただきます」


 わしの言葉を聞いて藤左衛門はにっこりと笑った。それは善意だけではない、何か別の目論見を感じさせる笑顔だった。

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