第6話 「煙幕の妖精」オードリー・ヘップバーン

 私は、その話を聞きたいと思った。


 バーテンの妖精さんが、ことさらに店内のモチーフにしているもう一人の妖精、オードリー・ヘップバーン。


 彼女のことを知ることで、このSmokin' fairyのことももっとよく知ることができるに違いないと、私は思ったからだ。


「今でも史上最高クラスの名優として知られるオードリー・ヘップバーン。

 彼女はねえ、その人生そのものも、非常に興味深いものだったのよ。

 オランダの貴族の家庭に生まれた彼女は、生まれた時代もあって、ナチスの迫害に苦しむこととなった。それだけじゃなくて、幼いころに、父親に捨てられてもいる。

 映画の上でこそ優雅な妖精であった彼女は、その実、あまたの泥臭いといってもいい挫折を経験してきているの。

 彼女は、元々バレリーナになりたがっていたの。でも、結局その方面では、あまり才能を伸ばせなかった。彼女の終生のコンプレックスの一つが、大きな足だったというのは、このことと無縁ではないかもしれないわねえ。

 そんな状況にありながら、その魅力を見抜いた人からたまたま女優としての道に誘われたことで、彼女は思わぬ形で花開いていくことになるの」


 有名な『ローマの休日』以前から話を起こす、妖精さんのオードリー通ぶりに驚いて、ついついバットを持つ手の動きが鈍っていることに気付いた。

 私が吸いかけのバットをいったん灰皿の上に置くと、妖精さんは続ける。


「Gigiという戯曲のヒロイン、ジジを演じてブロードウェイで人気を博して、初期の作品ではまだ主役ではなかった彼女も、徐々にその才能を理解する人に恵まれていくようになった。そして、遂に、あの『ローマの休日』でブレイクしたの。

 この時に主演男優を務めたグレゴリー・ペックとは、終生の友人関係が続くのだけど、このグレゴリーが、クレジットで自分とオードリーを対等に扱うように主張した、というのは有名な話よねえ。

 それで、彼女はアカデミー賞を受賞するの。その時に言った言葉の一つと言われるのが…」


 ここで、妖精さんは一息置く。


「お母さんの言いつけを守って、喫煙を1日に6本までに抑えたからうまく賞を取ることができた、という趣旨の発言よ。

 そう。彼女は、一生涯愛煙家だったの。それも、かなりのねえ」


 彼女は、穏やかな笑みを浮かべたまま、言う。


「銀幕の妖精であると同時に、煙幕の妖精でもあったの。

 私は、そんな彼女のような、タバコを真に愛するが故に美しい人たちの集う、愛煙家のためのバーを作りたかった。それが、このSmokin' fairy、喫煙する妖精というバーの由来よ」


 彼女の表情は、少しうっとりとしているように見える。何十年経っても人を引き付ける、銀幕の妖精にして煙幕の妖精。

 いつの間にか妖精さんはJPSを口にしていた。私の中で、どこかこの二人が重なったイメージを生み出す。


「なるほど」


 妖精さんは、JPSの灰を灰皿に落とすと、話をつづけた。


「ローマの休日以降のオードリーの銀幕での成功は、そこらの映画ファンでも語れるでしょうからねえ。また今度にさせていただくわ。

 彼女の人生の、たった一つのささやかな欲望は、子供のいる幸せな家庭を作ることだった。自分が幼少時に味わえなかった幸せを、子供たちと一緒に過ごす。社会的な成功に比べると、ずっとささやかな願望だった。

 でも、そちらでも、彼女は何度か流産しているの。彼女は、そんな挫折すらも乗り越えて、生きてきた。

 だから、晩年の彼女がユネスコの親善大使として活動する映像を見て、彼女の年の取り方をあれこれ言う人もいるけど、私は、そんな彼女の年の取り方こそ美しいと思うの。

 ささやかな願望を叶え、無闇に脂ぎった人工的な若さを乗せたりしない潔い老い。ああいう気品のある老い方は、なかなかできないものよ」

「なるほど」

「それがスモーカーズフェイスだと一蹴する野暮な人も、中にはいるけどねえ」


 そう言って、妖精さんは、少しだけ悲しそうな色を、その笑みに混ぜる。


「確かに喫煙の影響もあったかもしれないけど、でも、逸れもまた、彼女がその人生を生きてきた証だったと思うの。

 そして、それを無闇に隠そうとしなかったからこそ、彼女は置いてもなお美しかったのだと思うの。

 うふふ、ちょっと脱線が過ぎたわね。そろそろ、愛煙家としてのオードリー・ヘップバーンの話に戻ろうかしら」

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