二度目の訪問
第5話 パーフェクト・レディー
「悪いな、僕はどうしてもこの表現を譲ることはできないんだ。それがだめだというのなら、この連載を打ち切らせてもらうぞ」
雑誌の連載を担当している作家にそう言われたことが、私に重くのしかかっていた。
その表現は、一昔前なら問題なくとも、今となっては差別的と称されるような表現で、編集長からも、何とかその表現を改めてもらうように頼まれていた。
だが、どうしても作家が折れてくれなかったのだ。
作家は自己表現を生業とする、といえば響きはいいが、実際には、自分の言いたいことを書くだけのエゴイストになりやすい。
最近は出版社が読者評価を厳しく取り入れるようになってきたおかげで、扱いやすいが変に編集者と読者に媚びている、これまた微妙な作家も増えてきたのだが、そうした作家は、編集者として話していると、どうにもつまらない。
ともに仕事していて面白く、かつ適度に編集者の希望も受け入れてくれるような器の大きい作家などというのは、めったにいるものではない。
だから、文芸雑誌の編集者というのは、一握りの輝く文章を手にするために、その労働時間の8割近くを精神の消耗に充てるようなものになってしまう。
昔はそれを彼女に愚痴ることもできたが、やり過ぎた結果、今や独りぼっちの私は、語らずして癒された、あの愛煙バー、Smokin' fairyを思い出していた。
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多忙故に一月ほど来られずにいたこの店に二度目に来たのは、そんな訳であった。
自然と、まるで吸い込まれるように足を運んでいて、気付いたら懐かしのMoon Riverが流れるバーの中にいた。
「あ、いらっしゃい。オサムさん」
私の本当の名前はショウなのだが、先に来た時にラ・シャットさんにそう仇名されてからは、バーテンの「妖精さん」も、自然と私をこの名前で呼んでいた。
しかし、たった二度目で、しかも一月も開けていたお客を、よく覚えているものだな、と秘かに感心する。
一流の女将などもその能力を持っているというが、この神秘に包まれたバーテン、妖精さんにもその力があったらしい。
「こんばんは、妖精さん。ふらりと、また来てしまいました。今宵の煙幕も魅力的なことですね」
私は、カウンターに腰を掛ける。
改めて店内に貼ってあるオードリー・ヘップバーンのポスターを眺めると、彼女には紫煙が良く似合っている。
「今日は何がいい?」
「では、オードリー・ヘップバーンのイメージに合うカクテルでも」
ポスターに入ったオードリーのせいで、どうも今日はキザをやりたくなってしまったらしい。
若い男がこんな風に通ぶるのなどは、今どきどんなイケメンがやっても痛いだけだろう。
だが、妖精さんは、普段通りの穏やかな笑みを崩さずに、言う。
「そうねえ。
確かどこかのバーには、オリジナルカクテルの『オードリー』があるとも聞いたことはあるけど、今は生憎その材料がないのよねえ。
あれにしようかしら。ちょっと待っててね」
そう言って、妖精さんは、ジン、ピーチリキュール、レモンジュース、そして最後に卵白をシェイカーに流し込む。
妖精さんがそれを振り始め、シャカシャカと小気味のいい音が鳴る。
私は、その合間に、バットを一本ぬきだして、次にこのお店に来るとき向けに用意しておいたマッチで、火を点ける。
普段、特に屋外の喫煙所で吸うときは、どうしてもライターの方が火が安定しているので、未だにジッポを使っている。
が、やはりこのゆったりした空間には、マッチの火の方がよく似合う。
その火を消して、二口ほど吸っていると、妖精さんは、白い中にほんのりと黄色が漂う、穏やかな色のカクテルを持ってきた。
「お待たせしました。今宵は、パーフェクト・レディーをどうぞ」
一口つけてみると、まろやかな口当たりの中に、しっかりとジンの香気が感じられる。
気品の中に、しっかりとした芯を持つ女性を思い浮かべさせられるような味だった。
まるで、妖精さん自身のような、飲んでいるだけで癒される味。
その名残を楽しんでいると、ふと妖精さんが、穏やかな笑みを浮かべたまま、私を見ている。
「気に入っていただけたかしら?1936年の大英帝国カクテルコンペ優勝作品。名作だけに、バーテンの腕が試される一品よ。
ヨーロッパ出身で、一時はイギリスでバレエを学んでいたオードリーには、ちょうどいいと思ったんだけど」
「この気品を感じさせる味が素晴らしいですね。卵白がやっぱりみそなのでしょうか?」
「ええ。卵白を使うと、まろやかな味と見た目のカクテルが作れるの。有名どころでは、帝国ホテルで飲める『マウント・フジ』なんかも使っているわねえ」
「なるほど」
愛煙バー、Smokin' fairy。
お酒とタバコという二つの大きな大人の道に精通した妖精さんは、今日も、ただ話してくれるだけで私を癒していく。
私がもう一口すすると、妖精さんは、言った。
「さて、今日は、銀幕の妖精、オードリー・ヘップバーンのことでも話そうかしらねえ」
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