初めに
【第一章】
【登場人物】
初めに、できるだけはっきりと、率直にコメントをつけておこう。第一に、私の名前は静野雫である。私は自分の生涯におけるかなり長い歳月のあいだ――四六年間の全てと言ってもよいだろう――自分が念入りに配線され、時折、コンセントに差し込まれて、キティハートの、短く、撚糸のように編み込まれた生涯と、その時代とに光を当てるという役割のために取りつけられた電気器具ではないかという感じを抱いてきた。キティハートは去る平成三〇年に、三一歳で「正式に」死んだ。つまり、その消息を絶ってから七年が経過したのだ。
今ここで私は、恐らくはこの同じ紙面に、四年前に初めて読んだキティハートの手紙をそのまま書き写し始めるつもりである。親友の悠木盈がそれを書留郵便で送ってきたのだ。
今日は金曜日だ。この前の水曜日の夜、私は電話でふと悠木に、この数箇月間私が、大学受験を控えた年のある晩、黄瀬に誘われて参加した出版社主催のパーティー、極めて重大なパーティーについてのある長い短編を書いていると言ったのだ。この事実は、今手許にある手紙に、多少ではあるが驚くべき関連があると私は思う。「驚くべき」という言葉が適切でないことは認めるが、この場合はいいだろう。
コメントはこれでやめにしよう。ただもう一度だけ繰り返すが、私はこの手紙を一字一句違わずにタイプするつもりだ。ここから始まる。
頴蔽寺・参禅体験会にて
福井県吉田郡吉祥山
すさび野林間寄宿舎
平成一五年一六歳夏、暑中お見舞いに代えて
――あるいはこの手紙が一葉一抹のお慰みになれば!
悠木盈、日向葵、黄瀬遥へ――
私は二人を代表して書くことになると思う。シズノはどこかよそで、いつ終わるか分からない仕事をしているからだ。まったく、頭の中の六〇パーセントから八〇パーセントは、あの感情にひたむきで、健気なお嬢様は、どこかよそで仕事をしていて、それが私にはこの上ない楽しみでもあり悲しみでもあるんだ! 私が生徒会長を務める赤麗学院と、シズノが生徒会長を務める青凜学院は、聞きしに勝る風格の――由緒正しき姉妹校といった感じで、カレンダーの年間行事には今回みたいな催しものが節目ふしめに配置されているけれど、私は生徒会の活動を通してもっとシズノと一緒にいられるものとばかり思っていたのに、どうやらここにきて私たちは必要以上に引き離されてしまっているらしい! それだけ私たちの立場の足もとに敷き詰められている歴史的わだかまりは根が深いよ。それもそのはずで、貴賎の隔てなく学業一筋でやってきているこっち赤麗に対して、あちらの校風ときたら、なにせ家柄がものを言うバリバリのお嬢様学校なんだから! 建前だけを言えば、才能と、その才能を活躍させる場所をなにがなんでも結びつけたがる人たちの思惑があるのだけれど、でも実際にその場に携わる人たちの感情的な話をするとなると、「体よく使われているのは果たしてどちら側になるのか」というけちなプライドに基く姿勢がなにかにつけてつまらない軋轢を引き起こして、この栄誉ある生徒会のメンバーまでもが、ささくれのような敵愾心でギラギラしている有り様なんだ!
だから私は今回の行事にはいつも以上に力を入れて取り組んでいるつもりだよ。はっきり言ってこの問題は、私自身の打算的お節介で仲を取り持つ以上の価値がある難問でもあって、この外発的に与えられた素晴らしい機会を狙い通りの有意義なものにするためには、どうしてもそれに取り組むための姿勢というものが問われるわけだから、私はただ、全体的な居ずまいを正したいだけなんだ。この夏は力を入れなければならない行事が立て続けで、あなたたちに会いに行けるのはもう少し先のことになりそうだ。
私は身がちぎれそうなくらいに淋しいよ!
でも、逆もまた真なりとは私は考えていないよ。このことはそれほどユーモラスじゃないけれど、私にとっては実にユーモラスな絶望の種なんだ。永久に心とか肉体のささやかな作用を達成しながらも、反作用に頼っているというのは実にいやなことだ。もし、Aが道を散策しているときにその帽子が吹き飛ばされたら、BはAの顔色を窺ったりその行為と感謝の念とを結びつけたりしないで、ただそれを拾ってAに手渡してやるのがBの喜ばしい義務であると私は固く信じている! 私が愛するあなたたちに会いたくて淋しく思っているからといって、そのお返しに、あなたたちも私に会いたいと思っていてほしいなんて考えたり気を紛らわせたりせずに、百パーセントのこの淋しさを味わえますように! そのためには、私はもっと自分の愛情というものに真摯になる必要がある。しかし違う角度から見れば、あなたたちはちょっと思いを馳せただけでも、すっかり心をとらえて放さない人たちだということも紛れもない事実なんだ! 本当に、あなたたちの活気ある笑顔が恋しいよ。
それでもあらぬ誤解なきように、これだけははっきり付言しておくと、ここでの縮図的で窮屈な前時代感のある集団生活も、そうやる瀬ないだけのものじゃないんだよ。それなりに身構えていたのも事実なんだけれど、蓋を開けてみればプログラムの大部分はお寺の広報とマナー講習の延長線みたいなもので、日々の暮らしのひとつひとつの所作に、文化的背景に裏打ちされた数多くの興味深い礼式が定められていて、それに従いながら、日がな一日境内を掃除して回ったり、夏休みのあいだの課題をこなしたり――特筆すべきは朝と晩に行う五〇分ほどの本格的な坐禅の時間で、私とシズノにはとても有意義な体験になりつつあるよ!
我が校の運営母体が曹洞宗に連なる教育機関で、それが白隠慧鶴の達磨をパンフレットの表紙にでかでかと掲げているお隣さまをお誘いしてまで参禅体験会を催してるわけだから、この姉妹校提携が、言わば曹洞宗側と臨済宗側の折衝地帯であることは、入学前後のガイダンスでもそれとなく強調されていた建学の精神に敷衍する話なのはその通りなんだろうけれど、ここで言われる坐禅が、具体的には黙照禅になるのか看話禅になるかで、持つところの意味もだいぶ引っ繰り返るはずなんだ。この際アカデミックな競争の火種はおが屑ひと摘みたりとて持ち込むべきではないのは本当にその通りだよ。だから私がここに来る前のバス移動でたっぷり二時間以上も親睦を深めることができたポケット版の無門関や碧巌録、臨済録をはじめとする聞きかじりの予備知識たちは、いずれ過積載の嫌疑で見咎められてもなんら言い訳できないかも。この種の賢しらぶった衝動こそが、この場においては私が手ずからなだめすかしてやるべき一番の俗物根性ではあるのだけれど、あなたたちだけには正直に白状すると、この興味がつきることのないバリエーション豊かなの禅問答をどうしても試してみたくて、それとは悟られないように(これは言葉の綾になるね!)毎晩こっそりと実践している破戒っぷりなんだ。シズノについては、彼女は普段からなにかと根を詰め過ぎるきらいがあるから、まだ日が浅いうちには、この緩慢で伸長気味の時間を手に余らせている感がありありだったけれど、それでもここでの清貧生活は、彼女の中でわだかまっていたいくつかのアイディアを、着実にシンプルなものに解きほぐしつつあるよ。
まるで喘息の発作が和らいでいくみたいに、彼女の奥のほうで凝り固まっていた岩盤の継ぎ目から自然と染み出してくる詩才が少しずつコップを満たしていって、自習時間とか、就寝前の手すさびに、開いていたノートの隅に溢れ出す瞬間が訪れているみたいなんだ。
だから以前キセがしていたような心配事は、完全に杞憂に終わることを私が保証するよ。この夏が終わる頃には、きっとあなたたちも驚くような傑作が書き上がっているかもしれないよ!
この件に関してはどちらかと言えば私も、ユーキやヒナタと同じタイプの人間で、二年前に課外活動であなたたちと観覧したジャクソン・ポロックもマーク・ロスコも、まったくピンとこなかった派閥に属する人間なんだから、ここで私が軽率に「詩才」なんて言葉を濫用すれば、シズノからその言葉に従事している信奉者たちの強いこだわりについて分厚い(((())))の花束が差し挟まれるはずだし、自分の審美眼がどれだけ口を挟めるというわけでもないのは承知の上だけれど、これがいかなる分野にせよ、私は間違いなく、あなたたちが自分の中の衝動に傾ける愛情に、胸を締め付けられそうになるんだよ。
私が愛情というものに敏感過ぎるのはその通りだけど、これが決して大袈裟に水増しされた過大評価でなく、小数点以下まで精密に計測された感想なんだってこと、あなたたちに伝わればなあ!
以前O・Dが私のことを「ジェリクル・キャッツの精神的支柱」と表現していたけれど、私があなたたちの支柱であるならば、それは恐らく止まり木に過ぎないんだよ。シズノは私のことを最高の相棒として――また覆りようのない人生の伴侶として――私の傍にいることが当たり前のようになっているし、事実として私たちがそれぞれ異なる道を歩み始める未来なんて、今のうちからは想像もつかないけれど、次にどの枝で羽を休めるのかを決めてから飛び立つ渡り鳥がいないように、いずれあなたたちだって自分の中に備わった機能が無傷のままであれば――一度地面から足が離れさえすれば、次にどの枝で羽を休めるのかなんて、そのときにならなければ誰にも分かりっこないことなんだ。私は才能に満ちたあなたたちが必ずしも地に足をつけて生きていくことを望んだりはしないよ。私があなたたちとの絆を強く感じ続けるためにできることと言えば、こうして育まれた感情の枝葉末節が、複雑な網の目のように入り組んであなたたちを縛り付けてしまわぬように、手厚く添え木を施しながら、たまたまあなたたちが近くを通りがかって、私の枝ぶりを思い出したときに、数ある木の中からひと目で選ばれるように、精一杯胸を張り続けるだけなんだ! そのときがきて、私がただの止まり木以上の意味を持つ自分に自覚的になれるように、今はこのまたとない距離感を謳歌しつつ、隻手の声に耳を欹てることにするよ!
あなたたちに会えないという喪失感は、こんにちきわめて強く、結局は堪えられなくなるのではないかということを念頭に置きつつ、私はこの新しく支給された便箋の上に、つくばのシンポジウムのために私とシズノとでまとめてきた竜鼠被害に関する二人の共通見解を書いてみようと思う。それは御存知のように、あの悪名高い泥棒猫たち、マンゴジェリーとランペルティーザによる後日談のような脱獄劇が幕引きしてからの落ち着かない数日間、私がむさぼるほど精読していた、この上なく貴重でもあり、またまったくくだらないあの学術ジャーナルの中で何重にも分析にかけられ、若干内容豊富になっていたものだ。こんな話題はあなたたちにとっては至極退屈だろうけれど、優れた、あるいは適切な認識というものは、私自身のような愚かな子女にとっては、急あつらえの達観であれ、抜き差しならぬ重要性を持っているんだ! 今年、我々の大袈裟な特技について隈なく解明できれば、私としてはほっとするところなんだが。そうしないと若き詩人、絵描き、この町の隠れた番人にして気鋭のアスリート、及び気取らない仲間としてのあなたたちの将来が駄目になってしまう恐れがあるんだ。私は是非にもあなたたちに、そしてふといつもの図書館に立ち寄ったときとか、暇のあるときに出くわすようなことがあったら、エリオット教授にもお願いしたいのだけれど、これから書くもの全てに冷徹に目を通し、もしもあなたたちがなにか堅苦しさだとか、誇張表現、潜在的驕り高ぶり、侮り、または度が過ぎるような謙遜という点で、つまらない間違いがあることを見つけたら、どうかすぐにでも私に報せてほしい。もしもあなたたちがまったくの偶然に、あるいはわざわざ足を運んでエリオット教授に会うことがあったら、このちっぽけな事柄について私になんの遠慮会釈もなく言ってほしいと頼んで、私が特に世間の落としどころと当事者意識とのあいだのどうしようもない大きなギャップにまったく手を焼いているとよろしく伝えてほしいんだ! 二つの声を持つということはやりきれないほど厄介な問題なんだ。なにもかもが終わってそれまでイレギュラーとして扱われていたものたちがあるべき枠の中に組み込まれて、私たちの日常が平衡を取り戻してきたあとも、これまでに起きてしまった事柄がそっくりそのままなかったことにはされなかったし、プロフィールの上では今も私たちはジェリクル・キャッツのままで、それが単なる背の高さだとか、スカートの長さに関する拘りとか、爪の甘皮を弄るくせみたいな、特筆するまでもない特徴に成り下がることが悉く拒まれているんだ。それも水道管の付け根が緩んだみたいに未だになにかの弾みで竜鼠問題が噴出してきて世間を騒がせている以上、この構図は覆りようがないんだよ。これは二つの事柄が責任として結び付けられているという他人行儀なモラルのことを言っているのではなく、もっと力学的な基底を成しているところでの結び付きとしてそうなんだ。ジェリクル・キャッツが正義の心を力に変えて戦うのも、竜鼠が心の傷の痛みに堪えかねた人たちの悲鳴を通じて顕れるのも、それがポジティブであるかネガティブであるかの違いを除けば、どちらにせよ私たちの強い感情がただこの世界に尊重されているに過ぎないことなんだ。
これは私たちのあいだでなんの示し合わせもなく初めから一致していた共通見解で、わざわざ言葉に直すまでもなくふわふわとした観念のまま一ミリたりとも欠けることなくここまで保たれてきたものになるのだけれど、それでもエリオット教授のような頑なな線引き職人や、その他大勢の、缶詰食品しか喉が通らない人たちを相手取るための予行演習も兼ねて、私はできるだけ簡潔であることを心掛けながら、まだ手汗でふやけていない次のわら半紙に、前世紀にあってはあまり顧みられることのなかったこの頼もしい約束事を言語化してみる。
(A)思いは届くもの。
(B)願いは叶うもの。
(C)努力は必ず報われるもの。
このことを言葉に置き換える上で私がどれほどペンをたじろがせ、フローベールや谷崎潤一郎が言うような「たった一つの言葉」をいかに渇望しているかに気づかされるよ! 本当の詩人というやつは、言葉に力を込めるのではなく、力を言葉にしてしまうんだ。彼らは消えやすく、はかなく、微かな空気のように捕えがたいものを言葉に置き換えるだけで、言葉をもてはやしたりだとか、語気を荒げるような乱暴な真似だけは絶対にしないんだ! だからこの文章がぎごちなかったり、不自然に強張っているのは、ひとえに私自身のうぬぼれに拠るところでしかないんだよ。
それでもこれだけは有史以来塗り替えられることのなかった永遠無窮の真実でもあり、我々人類がこれまでに思い募り願い奉り力に努めてきたからこその今の私たちがあるのだから、私たちが今を尊び、喜びの中にさえいられれば、これらのことはは確かに届き、叶い、報われてきたと言えるんだ。そしてそれこそが私たちの人生に雨粒のように注がれているこの世界からの惜しみない優しさに他ならないんだよ! それなのに、掌を窪ませて、その恩寵を掬い取る姿勢こそが人生を前に進めるための正しいお祈りの姿勢であることに大勢の人間が気づかぬまま、私たちは新しい時代を迎えて――焼け落ちる聖堂の中からどの祭具が誰に持ち出されたのかも分からないまま、ひとつの時代が息を引き取る傍らに居合わせたんだ。いつ降るのかも分からない雨を待ち構えるというのは、テサロニケとかテモテにある「絶えず祈りなさい」という言葉しかり、「南無阿弥陀仏」を繰り返し繰り返し唱える意味そのものでもあるというのに! だけど一方でその祈りの向かうところが――祈りのいずるところが――あの九九年から二〇〇〇年にかけてポッサムシティを席巻した象徴的ドタバタを契機に、その姿を誰の目にも見える形で変貌させてしまったこともまた確かなことなんだ。それがこの世界の枠組みとして私たちを包括的に閉じ込めているからこそ、私たちの正義が力として示されるように、悪い想像も強い復讐心も深い挫折の経験も、この世界は形を伴う結果として汲み取ってしまうんだよ。それも今までの枠組みの中では達成されることのなかった荒唐無稽な願望が、その括りを押し広げてしまうほどの固執を見せながら堂々とそこに居直るまでになっているというのにだ!
まるで魔法のような科学技術の躍進も、新世紀を迎えては次第に私たちの肌にも馴染んできて親しみ深いけれど、あの転換期の汀の、足の裏の砂を濯がれて浮き足立った風潮だけは、まだ私たちが特別多感な十代のスタートラインに横並びになっていたというのもありはすれど、バブル崩壊の余燼に燻り続ける大人たちが漂わせていた無遠慮極まる世紀末思想や、漠然とした終末感が町中に溢れていて、「一九九九年七の月」だの「二〇〇〇年問題」だの、虚実入り混じった世界観の中で当たり前のように自らの無力感だけが我が物顔で罷り通っていたんだ。Windows98やADSLの登場がインターネット文化を温床とする重層的で秘匿的なコミュ意識の萌芽を促し、情報の波及速度に情報精度が引き離されて、夥しい数の都市伝説に囲まれながら、耳年増な自分たちの見えるか見えないかのところに肉薄する社会構造の裏側ではなにが起きていてもおかしくはないだろうというムードと、それと比するにはあまりにも矮小な自分たちの閉塞感とが、息が詰まるほど濃密に湛えられていたんだ!
そうやって大人たちの想像を超えて唐突に拡張された私たちの世界に対して、みんながまだ手探りでどうしたらいいのか分からなかったということなんだよ。未知なるものにはどうしてもそれに対する好奇心と恐怖心とが付き纏ってくるものなんだ。その恐怖心に付け込む形で蔓延したのが竜鼠被害という社会問題であり、好奇心で闇を切り開いたのがジェリクル・キャッツなのだから、それだけをなぞれば二つは同じ場所に端を発して繋がるひと筆書きの線で表現されることになるんだ。そしてそんな暗澹たる空気も、あなたたちとの活躍のおかげでマキャベティ一味もろとも吹き飛ばすことができて、新しい社会の風がみんなの心の隅々にまで吹き抜けるようになると、それまですまし顔で私たちの傍に寄り添っていたいくつもの曖昧な事柄に、現実との「摺り合わせ」がなされるようになってきたんだ。どうやら私たちの現実は、未知なるものを未知のままにはしておけないらしい。今でも竜鼠被害は泡沫的に顕れるけれど、それすらも新たに額縁を与えられた現実においては、ジェリクル・キャッツはその先駆者であるという意味以上の特権を持たず、誰もが現実の力だけでも十分に立ち向かえるものなんだ。
ジェリクル・キャッツがとても得難い経験の上に積み重ねられたものだとしても、今はどこにでもありふれた高校生であるという点に人生の比重が置かれるべきで、将来の夢があって日々の目標があって頼れる先輩や気の置けない後輩がいて、好きな人たちに囲まれて、それを守り続けたいとしんから思うよ。そこには分かりやすい形で立ち塞がる障害物なんて絶対に顕れないんだ! あるのはただこの場所に詰め込まれたみんなの思いがイヤホンのコードみたいに絡まってしまった複雑な事情だけなんだ。
それをその都度解きほぐすことが、ジェリクル・キャッツとして戦う役割を終えた今の私の落ち着きどころでもあると思うんだよ。
これは長い手紙になるよ! どうか辛抱強く耳を傾けて、できれば頭の片隅にあるビーバーボードに、料理雑誌のスクラップや歌詞カードのお気に入りのフレーズなんかと一緒にピン刺ししておいてほしいんだ。この問題は極めて婉曲な関連性を持ちながらあなたたちの将来に小出しに累を及ぼすことになる。このことは取り分けユーキの将来について必要以上に小うるさく聞こえるかもしれないけれど、あなたが警察官僚であられる父親に憧れてその道に身をやつするとしても、あなたはその仕事をする権利を持っているけれど、それは仕事のために仕事をする権利に限られるんだよ。仕事の結果に対する権利は含まれないんだ。仕事の結果を求める心を仕事の動機にするのは、自らをなげうった静けさの下に行われる仕事と比べて遥かに劣るものであると重々肝に銘ずるように! もしもあなたが自らの窮屈そうな衝動を甘やかすばかり、つい「今の自分では手に負えないほどのなにかをどうにかしたくて」あなたの足取りをそうさせているというのなら、くれぐれも早まるべきではないよ。ユーキの正義感ときたらすっかりすれちゃって悪ぶっちゃってるけれど、本質的にはジェリクルの誰よりも自罰的で感じやすい人なんだから! 結局のところ、私たちはあの許された時代にあって初めて輪郭線を突き破ることができた五本筋の輝条なんだ。あの光はね、私たちの闇を照らすために、真っ黒な画用紙に空けた穴なんだよ。私たちの本質がいつまでも変わりなかろうと、私たちを取り巻くものはなにもかもが様変わりしながら硬くひび割れた皮膚のでっぱりを擦り付けていくから、その摩擦にだけは身構えるように! それが念頭にあれば、私はユーキが将来警察官になるのは大賛成だ! 元来備わった気質的にも、器質的にも、余すところのない職業になるはずだよ! そのためにも正義の味方としての持ち前の信念は、謙虚な生き様として――あるいは趣味の範疇にでも留めるかして――悠木盈という人間の根底にひっそりと行き渡る暗渠であるべきなんだ。私たちの精神的活動が少しでも具体的な鋳型に通されることを考えると、それは私たちの考えの中から押し出されて外の空気に触れた途端に、錆付き、雑菌に塗れ、侵食に曝されて、遅かれ早かれ違ったのものに置き換わっていってしまうんだ。それを思うとこうして私がここに書き付けている考えにしても、それを文章に起こしていく傍から損なわれて、継ぎ足し継ぎ足ししては誤解を与え兼ねないような、ありものの間に合わせに成り下がっているんだということにどうしても注意してもらいたいのだけれど、そんな注意ですら正しく伝わるのかも怪しいもんだ。こんなに並べ立てた原稿用紙二〇枚は下らない文章よりも、一緒に過すことのできるほんの僅かな時間の方が何倍もの気持を通わせられるというのにね!
いよいよ中指の横っ腹が痺れてきたよ。この手紙が長くなるのは突然暇がもらえたからでもあるんだけれど、このことについては先の問題もあるように、整然とした説明と、事実としての感情を適切なバランスで結び付けながら語ることが難しくもある問題だから、ここでくどくど書き連ねることはよしておいて、淀賀茂に帰ってきてからのお土産話として素敵な包装紙を見繕っておくことを約束するよ。ちょっとだけ中身をお披露目すると、実は昨日脚を怪我したので気分転換にベッドに押し込まれているんだ。全くの棚ぼただよ! 私の相手になって世話を見る許可をうまくもらったのが誰だか当てて御覧! あなたたちの愛する静野雫だ! 彼女は今すぐにでもこの寄宿舎に戻ってくるはずだ!
閑話休題、以下の短いメッセージはヒナタに送る。
拝啓、日向葵ちゃん! あなたの特技について、賢しらぶった人たちから散々っぱら聞かされてきたあのエントロピーについての講義を、味のしなくなったガムみたいにまだ噛み砕いているのなら、そんなものは今すぐ包み紙に吐き出してしまんだ! それは恐らくあなたの栄養にはならないし、あなたとしても飲み下すのに難儀していたところだと思う。その代わりに私とシズノとでもっと消化によいものを考えてきたから、これであなたが「科学的論拠」という言葉に感じている反撥もうまく片が付くよ。その言葉が躓きになっているのなら、それを受け入れなければならないというもっともらしいきまりはないんだ。ヒナタのいいところはね、真っ直ぐな熱意というものをいつだって一〇〇パーセントのまま相手に伝えることができるところなんだよ。どんなに屈折率がちぐはぐな価値観と価値観の段差を前にしても、そんなものはお構いなしと言わんばかりに、あなたは自分の熱意を思うがままに届けられるんだ! あなたの熱意を前にすれば、この世界のちゃちな摂理も厳かに傅いていくらでも道を譲るはずさ。だってこんなにも気の利いた贈り物が、多くの人たちの許に届けられる道のりでその上前を撥ねられたり、粗末に扱われたりするなんて誰からも望まれたりはしないんだから! その素晴らしい効能の前では「エネルギーが伝播するときに散らばろうとする放射束の割合が限りなくゼロになる」なんて但し書きも、いけすかない気取り屋が名刺の欄外を埋めるのにあしらった模様くらいの意味にしかならないよ。とにかく大事なのは、このことはなにもあなたの熱意が他の人たちと比べて硬く鋭いものであるというのではなく、あなたがそれの扱いを人よりもずっとわきまえているという点なんだ。この世界のちょっとした「ズレ」から顔を覗かせる地層にはそんなエネルギーに満ちた熱意が散りばめられていて、どんなに小さくともあなたはそれから目が離せないはずだし、それらを丁寧に採掘できるだけの道具は一通り手許に揃っているはずだよ。でも、これを使うのはあなたが嫌でなければの話だ! あなたがしたくもないことを、それができるからといってさせられる謂れはないよ! 私も含めて自分以外の口から捲し立てられる「持つ者の義務」なんて言葉はほとんどがまやかしで、自分の行いが正しいことだと保証してくれるのは自分の中の満足感だけなんだから! 忘れるといけないからついでに言っておくけれど、パルクールの本場であるフランス留学についてまだ及び腰のようなら、一度その魅力について、頭の中でとことん膨らませてみるといい。少なくとも私が思うに、ヒナタは嫌いな場所を避けて進むよりも、好きな場所に向かって進んでいるときの方がヒナタらしさがあるよ!
これであと解き明かされるのが俟たれるのは、キティハートとしての私の力だけになるね。愛という概念から無尽蔵に湧き出すエネルギーを物理的な現象として扱うために科学のメスを入れることは強く忌避感が伴うものだと思われるかもしれないけれど、これについてはそう素っ気ないものにはなりそうもなくて、その尊厳が地に落ちることはないし、どころか今まで以上にドキドキする答えが待ち受けているんだ! ユーキやキセが物理的な基本相互作用の力――特に電磁気学的な力に干渉したり、もしくはその摂理そのものを従えているのと同じように、どうやら私の力は、重力と呼ばれているあの摂理と紐付けられているみたいだよ。私がこれまでにキティハートとして発揮してきた一貫性のない様々な種類の奇跡は、それは私たちがせせこましく動き回る舞台の上では一貫性がなくても、劇場の外にあるちっちゃな売店やポスターに目をとめた通行人までもひっくるめた広い舞台の上で、太い繋がりを持っていることが予想されるんだ。ここには二つの結果から逆算された「愛」と「重力」に関するおもしろい振る舞いが取り上げられていて、質量の偏在によって必ずしも平坦だったり均質にならない空間の歪みとか傾きを滑り落ちる指向性そのものを「重力」と表現するならば、それは三軸からなる空間の連続性を四つ目以降の座標軸からこねくり回している余剰次元にまではみ出した広大な川の流れそのものであり、私たちが実際に感ずるところはそれと接する川底の摩擦だけなんだ。愛するものを心に思い描く行為だって、その後ろに奥ゆかしく隠されたスケールにはさしたる違いもないんだよ。私たちの舞台になみなみと湛えられながらも、緞帳を越えて舞台と客席の間を行ったり来たりするあのマンカストラップさながらに、愛するという心の働きの前では時間も距離も関係なく私たちの体を突き動かして、どうしようもなく二点間に横たわる力を繋ぎ止めるんだ。私たちの体では辿り着けそうにもないところにでも、そこに辿り着こうとする指向性が奪われることはだけは絶対にないんだから!
これは満更思い当たる節がない指摘でもなくて、私が普段から抱えている、一つの事柄に対するうんざりするくらい重複した既視感や考察や擁護のいたちごっこが圧縮された感情の成り立ちにも基くところかもしれないし、みんなが言うほど滑らかでも一律でもない、身近に感じられるところでの意味としての「時間」の手触りについて、みんなとのあいだに感じているもどかしい齟齬を綺麗さっぱり取り除いてくれる可能性があるんだ。今を生きる大勢の人たちにとって自分の時間というものはラインカーで引かれた白線のようなものになるのかもしれないけれど、私の感触によると、それはプレハブ倉庫の奥で袋詰めにされた二〇キロの消石灰でもあるんだよ。私にとっての時間は塊で、ベクトルを持った線ではなくて形の定まらない点なんだ。柔らかで弾力のある塊がそのシルエットを組み替えながら「今」このときだけを私に感じさせて、みんながここにはない自分の過去や未来に思いを馳せるように、私はあり得たかもしれない無数の「今」に思いを馳せずにはいられないんだよ。もしかしたら私はみんなほど自分の過去や未来というものに興味がないのかもしれないし、あるいは興味があるとは言えるのかもしれないけれど、それはクリスマスの翌朝、ツリーの下にプレゼントが用意されていることが分かっていながらも、それを実際に手に取る喜ばしい瞬間を何度も想像してベッドの中でぞくぞくするという意味での興味だと言えるんだ。
だから私にとってのこの世界の四つ目の座標軸を言い表す言葉は、確かに時間軸ではあるのだけれど、それはスライドフィルムというよりも現像された写真の束というような感触で、みんなが過去から現在にかけての自分の連続性を証し立てられるのと同じように、異なる角度から撮られた別の表情を見せる写真に対して、キティハートとしての私は自分の連続性を証し立てることができるんだ。このことがどれほど既存の学問を推し進めるのに貢献するかはエリオット教授と大いに議論を重ねたいところだけれど、もしかすると現代物理学の分野で超弦理論に替わるまったく新しい仮説を幾つか打ち立てることになりそうで、行く行くは科学という信仰が本当の意味で宗教に成り代わる日も訪れるかもしれない。科学は宗教を淘汰したけれど、私たちが本当に知りたいことに答えてくれたり、今まで宗教に成り代わってくれたことなんて一日たりとてなかったのだから! 長らく人目を憚られていた神様もその重い腰を上げるときがくるはずだよ! でもこれはまだ遥か遠くの話になりそうで、私たちの日常に直接関係してくるような話でもなければ、予言めいた言い草にしかならないのが惜しまれるところでもあるんだ。
話題を楽しい方に変えるとして、あなたたちの掌中に入れて上げたい、実に晴れ晴れとする嬉しいニュースがある。私自身もはっとするようなニュースなんだ。来年の冬か、あるいはその次の冬に、あなたたちとシズノとこの手紙を書いている当人はみんな、私たちが――五人で仲よく、あるいはそれぞれ単独でも――出席する数あるパーティーの中でも、もっとも示唆的かつ重要なパーティーに出席することになる。この催しは夜のさなかに行われるんだけど、そこでシズノが一人の、お腹が出っ張った男の人と出会うんだ。彼はシズノに、余裕たっぷりの態度で、いささか直裁に、将来の彼女の仕事を提供することになる。これは彼女の文筆家としての流麗で魅惑的な腕前を伴うものだけれど、それで全部じゃない。このビール腹の男は、この仕事を提供することで彼女のありふれた、正常な子供としてのあり方、若くて楽しい生活を変えようと真剣に考えることはしないだろうけれど、一見したところでは大変な変動が起きるだろう。でも、これは私の目に映る光景のほんの半面に過ぎない。個人的な考えを腹底なく言えば、あとの半面の方が私自身の好みにも合うし、気持が安らぐものなんだ。この半面の光景では、長い年月が経ち、私という彼女を愛する、頼りない仲間も失っている、驚くべきシズノの姿が浮かんでくる。その彼女はとても使い込まれた、ターコイズブルーの、いじらしい、高級な万年筆でこのパーティーのことを書き綴っている。彼女は煙草を吸い、時たま手を組んだり、物思いにふけり、疲れ切った様子でその手を頭上に乗せたりしている。髪の毛は青みがかったグレーに色が抜けて、歳は今の私たちの親よりも上なんだよ! この光景では彼女の手には血管が太く浮き出ている。彼女は若くて哀れな大人の手に血管が浮き出ることに対して偏見を持っているから、私はまだこのことを彼女には全然話していないんだ。まあ、こんな具合に事が進んでいく。こういう光景はたまたま居合わせる目撃者たる者の心に迫ってきて、その者は何もできなくなってしまい、またこのことについて愛する、寛大な心を持った仲間たちと話し合うことができなくなってしまうんじゃないか、とあなたたちは思うかもしれない。でもね、必ずしもそうじゃないんだ。こういう光景を思い浮かべると私は深い安心感を抱いて、すぐに眩暈から立ち直るんだ。何にも増して私の心に迫ってくるのは彼女の部屋なんだ。そこでは、若い彼女の夢の全てが忠実に実現されているんだ!
この部屋には、彼女が物を読んでいつも――このことは絶対間違いないことだ――熱烈に感嘆していた美しい窓が書き物机の横にひとつはまっている! それに加えて、それほど狭くないはずの彼女のまわり至るところに凝った作りの棚があって、本だの、オーディオだの、額縁だの、削った鉛筆だの、紺碧の高級な万年筆だの、その他のワクワクするような私物が置いてある。彼女がその部屋を見たらきっと小躍りして喜ぶよ。間違いなくね! それは私の全生涯で一番嬉しく、心が和む光景のひとつであり、また恐らく一番純粋なものと言えるだろう。向こう見ずな言い方をすれば、それが私の人生で事実上最後に見るものだったとしても、私にはなんの異存もない。しかし、私が昨年触れた、私の心にある、あの二つのじれったい、小さな玄関口はまだまだ閉じられちゃいない。もう二年もすればたぶん、潮の流れが変わることだろう。もし私の自由になるんだったら、私は自分でこの玄関口を閉めてしまうと思うよ。このような光景が、人の心の平静さと長閑さ、仲間の落ち着きを摩滅させてもそれだけの価値があるのは、ほんの僅かなこういう場合に限るんだ。でも想像してみてほしい。私たちの親友静野雫が、既に世界中のありとあらゆる鉛筆に恋をしてしまっているこの一五歳の少女が、一瞬のうちに、成熟した、逞しい作家になってしまうのを見たらどんなに素晴らしいだろう! 遠い将来に、気持のいい雲の上で寝そべって、上等で身の引き締まったロールス・ジャネット種の林檎でも齧りながら、間もなく聞かせるはずの重大で意味深いパーティーについて彼女が書く一語一句を余さず読めたらどんなにいいだろう! この精悍で才能溢れる女性に是非とも描写してもらいたいことは、その晩私たちが会場を目指す前の、駅舎のベンチで待ち合わせる人々の姿勢のことだ。世の中で一番美しいものは、家族同然の仲間たちがパーティーに出かけるとか、ちょっとしたショッピングに出かけるときに、殺風景な駅のベンチでみんなが誰かのろまさんを待っているときの、気楽で待ち遠しがっているときの姿勢だよ! 私が頭の中でこの遥か将来の感動的な、青鈍色の髪をした作家にまず書いてほしいと願っている場面は、駅で待ち合わせる人々の姿勢のことなんだ。私の考えでは、一番美しい書き出し部分といえばこれしかない。私は名誉にかけて言うけれど、その晩の光景はすべて、初めから終りまで、眺めるだけでも落ち着いた歓びとなる。ただ人並の辛抱と、快活さと、人知れぬ力で待ちさえするなら、美しく、取り留めのないものがこの世で結び付いていくのは素晴らしいことだというのが分かるんだ。ユーキも、ヒナタも、それから黄瀬遥ちゃん、もう東京の持ち込みから帰ってきているのなら聞いてほしい。あなたたちが神とか、摂理とか――まあ苛立ちや当惑をしなければどんな言葉でも構わないけど――そういう考えに不信の気持を抱いていることを私は知っている。でも私は、我が人生のこの蒸し暑く、記念すべき日に、名誉にかけて言う。人は宇宙からの惜しげもない芸術的許しがなければ、ほんの小さなペンの先にインクをつけることすらできないんだよ! 許しというのは漠然とし過ぎているけど、ペンの先にインクが触れるには、誰かが惜しげもなく頷いてくれなくちゃならないんだ。この言い方も漠然とし過ぎていることは、残念ながら私は全存在をかけて認めなければならない。私は神が親切に、人間の顔をしてくれたり、神のことをそういうふうに見たいと思っている崇拝者のために、頷いてくれると確信している。でも私自身は神に人間の顔をしてほしいと特に思っているわけじゃないし、神があやしげな私という人物のためにそうしてくれたところで、くるりと向きを変えて立ち去ってしまうかも知れない。私は確かに大袈裟な言い方をしているよね。実を言えば、他人はどうあれ、私はたとえ自分の命がそれにかかっていたとしても、神と離別する力なんてないんだ。
自分でも面白いと思っているんだけど、私は突如として、誰もいない寄宿舎で一人ぼっちで坐ってすすり泣いている。あるいは涙を流しているといってもいい。そんなものはすぐに過ぎ去ってしまうことが分かっていながら、こういうふうに赤裸々になった時、自分のこれまでの人生を考えて、自分が七五パーセントから八〇パーセントは実にくだらない若者だと知るのは悲しいことだし、しんどいことだ。私は冗長で、退屈な、言葉も考えも渋滞している手紙であなたたちみんなを――権利も義務も一緒くたにして――勝手に縛り付けてしまっているね。でも自己弁護させてもらうなら、これはそれほど私が悪いんじゃないよ。私のようなあやふやな歳の若者とか、あやふやな経験しかない若者というものはすぐに、大袈裟な悪趣味を持ち出したり、人に嫌われる自己顕示をやってしまうものなんだ。私がそれを直そうとしていることは神様も御存知だ。でも、まったく手放しで頼り切れる素晴らしい先生がいてくれないと、それはとてもつらいことだよ。そういう素晴らしい先生がいなければ、自分の心の中にそういう人を作らざるを得ない。しかしそれは、私のような臆病者にとって危ないことだ。でも私は見え透いた弁護だけど、一日中横になって、あなたたちの闊達な笑顔も、シズノの微妙で淋しげな顔も同じ目蓋の裏に思い描くことにしているよ。だからあなたたちとの過剰とも思える接触がここでは必要というわけなんだ。
もうそろそろ涙を拭うことにするよ。過度に擦ったりせず、ハンカチに染み込ませるように拭ってやらないと、あんまり腫れぼったい目をしていたら、あの感受性豊かなお嬢様は、それでもきっと気付いてしまうのだろうけれど、私が話題の種として素直に白状する前に、わざわざ派手な演出で驚かせたくはないんだ。ほら。もう彼女の足音がそこまで来ていることは、クリスマスの翌朝のように、目蓋の裏からでも分かるんだから。
満面の笑顔を湛えて寄宿舎に帰って来た生徒がいる。誰だと思う? あなたたちの親友、静野雫だよ! またの名をキティダイアモンドという勇者だ! なんという不屈の若者なんだ! きっと一日稔り多い仕事をしてきたんだ! あなたたちがみんな直接ここに来て、彼女のちょっと緩まった、躍動的な、心を動かされる顔を見てもらえたらなあ。親愛なる悠木盈ちゃん、日向葵ちゃん、黄瀬遥ちゃん、色んな意味であなたたちは二人のつまらない夏の楽しみとレクレーションのために、途方もない代償を払ってるんだ。ではまた! 私たちが長いこと留守にしているあいだも、あなたたちがずっと健康でしあわせであるようにと、シズノと一緒に心から祈ってるよ。
あなたたちの愛する親友、キティハートとキティダイアモンド。底抜けに明るく輝き続ける心とジェリクルの絆で永遠に結ばれている私たちより。
あなたたちの感動的な親友が七時間半ぶりにひょっこりと寄宿舎に帰ってくる姿を見る嬉しさと、この手紙を早いとこ終わらせてしまおうと急ぐあまりに、最後にちょっとした、ほんのちょっとした、些細なお願いをするのをうっかり忘れるところだった。シズノが物語を思いついたときに気儘に書き留めるための、罫線のない大判の用箋を送ってくれるように言ってるから忘れないでね。私が今日まで楽しい手紙を書くのに使ってる罫線のあるやつは、彼女が軽蔑しているからくれぐれも送らないようにしてよ。それから、このことは彼女と腹を割って話し合ってないんだけれど、彼女はバスがサービスエリアに立ち寄ったときに小さいニャンコを失くしちゃったんだ。だから中くらいのニャンコを送ってやれば大喜びすると思うよ。でも、このことは手紙に書かないで、黙って都合のいい封筒に、ユーキか誰かの力を使ってその中くらいのニャンコを隠して郵送してくれればいい。ユーキちゃん、これも、どんなことでもあなたの慎重な判断に任せておけばいいんだよね。彼女が物語を書くのに罫線のある用箋を送らないこともだけど、タマネギの皮みたいな薄っぺらな紙のやつも絶対駄目だよ。だって、そんなものは寄宿舎の戸外用のごみ箱に捨てちゃうだけだもの。これは無駄使いだと言えば確かにそうだけど、この微妙な問題は余り立ち入らないでくれないかな。私には気にならない無駄使いもあるんだけれど、ちょっとそうは言い難いしね。事実、ある種の無駄使いは私を骨の髄までゾクゾクさせる気がするほどなんだ。心に留めておいた方がいいと思うけれど、それは涙と笑いと、それを補う人間の愛情、情熱、優しさの溢れるこの古色蒼然とした山間から彼女を完全に解放してくれる、文房具に対する堂々たる傾倒のせいだということは私が保証するよ。
再び、すさび野林間寄宿舎のあなたたちを愛する二人の無邪気なジェリクルより五万回のキスを。
敬具
鈴花日和
キティ・ペンタグラム @dormantgomazoa
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