第3話 届かぬ背丈

 翌日は気分を変えて、ダルレスの遺跡から東へ向かうことにした。しばらく歩いて行くと丘陵地帯がある。丘の一番高いところには、かつて使われていたらしい風車小屋が一軒ある。

 その丘陵地帯の一角に、向日葵の黄色い花が群生して咲き誇っている場所があった。誰も育てている人などいない。野生の向日葵だ。目に眩いばかりの黄色の嵐の中で、枯れかけて下を向いている花も幾つかあった。そんな向日葵の咲き乱れている真ん中に、既に見慣れた白い日傘が今日も花を咲かせていた。


「ルピナ。今日も会えたね」


「こんにちは。ところであなたの後ろの子は、どなた?」


 向日葵と向日葵の間を縫うようにして丘の中腹から降りてきたルピナは、日傘を持っていない方の手でぼくの背後、それも足下を指さした。

 白く細い指に導かれるようにして振り向いたぼくは、一瞬呼吸が止まったかと思ってしまうほどに驚いた。


「つ、ついて来ちゃったのか」


 ダルレスの廃墟で留守番しているはずの黒猫がいた。艶やかな黒い毛並み。青い瞳。尻尾が長くて、螺旋を描くような格好をしている。ぼくにとっては孤独な夜に添い寝をしてくれる大切な相棒。と、同時に、ルピナが異世界であるここに転生してきて滞在している理由。


「あ、ル、ルピナ、これは、黙っていたわけではないんだ。ただ、ちょっと、その、話し出すきっかけが、無くて」


 突然事実が発覚してしまったことで、ぼくは動揺を抑えきることができなかった。


「ご、ごめん、ルピナ」


 ぼくは頭を下げて謝った。ルピナの反応は、探していた黒猫を発見した喜びでもなく、黒猫の存在を隠していたぼくに対する怒りでもなかった。


「……この子は黒猫ではあるけど、私が探している子じゃない。この子、メスでしょ。私が探しているのはオスだから」


「え? 違うの?」


 肩の力が抜けた以上に膝の力が抜けてしまい、その場に崩れ落ちそうになるのを耐えなければならなかった。

 結局これで、ルピナの黒猫探しは何の手がかりも無い状態に逆戻りしてしまった。

 でも。黒猫を探し続けている限り、まだルピナはこちらの世界に滞在し続けることになる。また会うことができる。それに、ぼくと黒猫が別れなくて済んだのは、ほっと一安心だ。

 そんなぼくの内心をよそに、ルピナはまだ周囲を見回している。オスの黒猫を探し続けているのだろうか。

 その時、向日葵が黄色く咲き誇っている中から、一羽の小鳥が飛び出して空に上がっていった。翼の鮮やかな黄色が特に目についたが、頭は赤で頬は白、他に褐色と黒も小さい体の中に混じっていて、一見してとても華やかさが印象的だった。


「ねえ、物知りくん。あの鳥は、なんていうの?」


「あれが五色の鶸だよ」


 黄色、赤、白、褐色、黒。五色に彩られた美しい容姿の鶸だからそういう名前で呼ばれているのだ。


「五色の鶸? この辺にはいない、って言っていたよね? あなた、もしかして嘘つき?」


 責めている口調ではなかった。だが、結果的には別人ならぬ別猫だったとはいえ、黒猫の件を黙って隠していたぼくのうしろめたさを更に抉る言葉だった。


「ち、違うんだ。ルウーナ河の河口の湿地帯には居ないって言ったんだ。ここは、距離的にはそんなに離れていなくても環境がかなり違うから……」


「そう。なんとなく、きれいに盛りつけたプリンアラモードのような色遣いの鳥だったな、と思っただけだから……。ここには私の探している黒猫はいないみたいなので、別のところに行くわね」


 ルピナはあっさり去っていった。追いかけることも呼び止めることもできかった。ただ、ダルレスからついて来てしまったメスの黒猫が体をすり寄せて、ぼくを慰めてくれるばかりだった。



 翌日は早起きをした。ダルレスの遺跡よりも北東方向、かなり距離があるが、ヴォークリューズにある湧井に行ってみようと思った。

 そこに行けば、またルピナに会える。根拠は無いが確信はあった。

 ルピナに会いたい。その気持ちだけが募る。いつからだろうか。たぶん、初めて出会った時からずっと、胸の中にずっと甘酸っぱい気持ちが芽生えていた。

 空は晴れているものの、風の中に重い湿り気を感じたので、いずれ雨が降り出してしまうかもしれない。忘れずに雨傘を持った。

 ごつごつした岩が多い地帯に入って、歩きにくくなってきた頃、予想通りではあるが雨が降り始めてしまった。傘を差して岩場の細い路を進む。この辺りは、古代帝国時代にはヴォーク・クリューズと呼ばれていた地だ。閉ざされた谷、という意味だけあって、歩きにくいはずである。

 ヴォークリューズの湧井に到着したのは、予定通り正午ごろとなった。まるで、岩を鋭い刃物で円形にくり抜いたかのような青い泉から、清澄な水が滾々と湧き出している。泉から流れ出た水は川となり、ダルレスの北でルウーナ河に合流するのだ。

 そして、ヴォークリューズの湧井には、先客がいた。

 もちろん、ルピナだった。

 またルピナに会うことができた喜びよりも、困惑の方が先だった。

 湧井の水面を見つめ続けているルピナの後ろ姿は、雨に濡れていた。白い傘を持っているものの、今日は開いていない。閉じたまま、杖のように手に持っているだけだ。白いワンピースもすっかり濡れてしまっていて、少し肌が透けて見えていた。そして……


「ルピナ。どうして泣いているの?」


「元の世界に帰る時間が迫っているから」


「どうして? まだ黒猫を見付けていないのに?」


「それでも、制限時間が来たら、因果の茎が螺旋状にねじれて、私は元の世界に強制的に引き戻されてしまうの」


 そんな……

 落胆の中で、一つの衝動がぼくの中でヴォークリューズの湧井のように溢れ出してきた。

 どうせもうルピナとのお別れが近いなら、後悔しないように言ってしまおう。

 自分の正直な気持ちを。


「ルピナ。あなたが好きです」


 ぼくは自分の持っていた薄緑色の傘を捨ててルピナを抱きしめた。

 雨に濡れたルピナの体は冷えていた。

 ルピナの方が背が高く、ぼくの目の高さはルピナの喉の辺りだ。その上には、ルピナのつやつやした唇があった。

 キスしたい。そう思った。

 背伸びした。

 届かない。

 もう少し、自分の背が高ければ。

 いや、そうでなくても。自分に空を飛ぶ能力があれば、爪先が地面から少し浮けば、ルピナの唇にぼくの唇が届くのに。

 もっと力をこめて、爪先が地面から浮き上がった時、ぼくの背が縮んだ。

 届きそうだった唇が、僅かにルピナの唇にそっと触れたような気がする。

 ぼくの足が地面から離れたからだろうか。

 蔓が切れて、魔法が解けてしまった、ということだろうか。

 触れた、と思っていた唇は離れた。

 引力に引かれてぼくの体は地面に落ちた。まるで猫科の動物のような敏捷な動きで、四本の脚で着地する。

 ぼくの視点が極端に低くなったため、ルピナのワンピースの裾の奥が見えてしまった。白と薄緑色の縞々が、ちらりとだけど覗けてしまった。


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