名前をください、もう一度(お題:海岸線)

名を呼んでくれる人がいなくなってから、私は名前を失った。


「海」と呼ばれる場所が好きな人だった。あの人に連れられて度々一緒に訪れたその場所に、私は今単体で佇んでいる。


初めて海に来た時は驚いた。その場所は一面水なのだ。のどが渇いたなあ、と思ってペロリと舐めたその水が塩辛かった時の衝撃といったら! 

さらに、水が音を立てて動くのだ。足をつけたら、あっという間に「波」とやらにのまれてしまったことがある。もちろん、一緒に来ていたあの人がすぐに助けてくれたけれど。


あの人は、「サーファー」というものだったらしい。

「海」「波」「サーファー」

どれも人間の会話で覚えた言葉だ。もっとも言葉を覚えられても、それを音声として発する機能を私は具えていない。彼らとは、発声の仕組みが根本的に違うのだろう。


「サーフィン」に行く時、私はよく一緒に連れ出された。あの人が海の上で波をつかまえている間、私は砂浜で座って待っている。

しばらくすると、海から「サーフボード」を持って、あの人があがってくる。

そして私の隣に腰かけ、「ただいま」と言い、砂浜に寝ころぶ。それが、一連の流れだった。


あの人に、こんなことを言われたことがある。

「海の上は、夢の世界みたいなんだ。波の上を漂ってると、これが現実だっていうことを忘れちゃうんだよ。それが楽しいんだけど、たまに戻ってこれなくなる気がして怖くなるんだよな。でもお前の隣に戻ってくると、ああこれが俺の現実だってほっとする」

あの人はそこで身を起こして、まっすぐ前を指さした。

「あの海岸線が、夢と現実の境目なんだよ。お前は海岸線のこっち側で、俺の現実にいてくれよな」

頭をなでてくれたあの人の手を、私はペロリと一舐めした。海から上がってきた彼の手は、やはり塩辛かった。


それは数か月前、よく晴れた秋晴れの、まだ夏の暑さが残る日のことだった。「絶好のサーフィン日和だ」と、あの人が言ったことを覚えている。

いつもと同じ海に、いつもと同じように出かけた。いつもと違っていたのは、波打ち際で子どもたちが遊んでいたことだ。まだ暑い日だったからだろうか。彼らは、水をかけあったりしながら遊んでいるようだった。

私はいつもと同じように、砂浜に敷かれたビニールシートの上に座った。

子どもの叫ぶ声がしたのは、あの人が日差しよけや私が飲む水を用意してくれている時だった。

「誰か! 助けて!」

声のした方を見ると、子どもが一人波にさらわれていた。足でも滑らせたのか、急に高い波が襲ってきたのかは分からない。

とにかく、あの人がその声に反応して駆け出し――


その後のことは、よく分からない。

横たわったあの人の顔をペロリと舐めた。全く動かないのに、海の味だけはいつもと変わらなかった。

私はその場所をそっと離れ、そして、名前を失った。

もうあの名前で呼ばれることはないだろう。呼ぶ人がいないのだから。


帰る場所がなくなった私は、ただひたすら歩いた。向かうあてがない道を、ただひたすらに。

どれだけ歩いたのか分からなくなった頃、ふと、懐かしい匂いを感じた。

風を頼りに匂いをたどる。やがて着いた場所は、あの人が好きだった、一面の青だった。

青を前にして、私は佇む。

少し離れた場所に、あの人と同じサーファーと呼ばれる人たちがいた。

名前を知らない感情が込み上げて、海岸線をとぼとぼと歩いてみる。あの人が、「夢と現実の境目」と言ったその場所は、青と白に別れていた。


私はただぼんやりと歩いていた。だから、自分が徐々に青側に寄ってしまっていることに気がついたのは、波が私の身体を覆った時だった。

この場所はなんなのだろう。もがいてももがいても、前に進まない。息がしたくて口を開けても、口の中に入ってくるのは水だけだ。だんだんと意識が遠のき、ふわふわと宙を漂っているような感覚に襲われていく。

ああ、きっとここは、あの人が言っていた夢の世界だ。夢の世界ならば、きっとあの人がまた名前を呼んでくれるに違いない。


意識が完全になくなりそうになったその時、誰かが私の身体をつかんだ。

その人の腕の中で、私は思い切り息をはいた。口の中から大量の水が出てくる。

そして海岸線を越えて、私は陸地に降ろされた。夢の世界から現実に戻った私を迎えてくれたのは、一人の青年だった。

「危なかったな~お前。俺がいなきゃそのまま波にさらわれてたぞ」

青年がそう言って私の頭をなでてくれた。重くなった身体をどうにかしたくて、ぷるぷると身を震わせると、水が飛沫となってそこいらに飛び散った。

「うわっと。はは、助かってよかったな。お前、ご主人は?」

何も答えようがなくて、私はただ喉をならした。

「う~ん、首輪もしてないし、野良か……」

あの人が付けてくれたそれは、しばらく前に他の個体とケンカをした時にとれてしまっていた。

「……よしっ、これも何かの縁だ。俺の家に来るか! 今一匹いるんだけどよ、あいつも友達ができたらうれしいだろうしな。今日も連れてきてるんだ。車にいるから、よかったら挨拶してくれよ」

そう言って、青年はもう一度私の頭をなでた。その手をペロリと舐めてみる。

あの人と同じ、海の味がした。

「ちょうど今から帰るとこなんだ。ついてこいよ。な?」

私は青年の目を見た。きれいな海のように澄んだその目は、優しい色をしていた。


ご主人、私は、もう一度名前をもらってもいいのだろうか。

あなたと同じ海を感じるこの青年に、あなたがつけた名前とは違う名前をもらってもいいのだろうか。孤独に生きるのは、人間で言う「寂しい」という感情を私にもたらしてしまうから。

返事はもちろんない。でも寄せては返す波は、「当然だ」とささやいてくれているようだった。


青年はおそらく、ご主人と同じサーファーだろう。すっかり見慣れた格好が、そのことを物語っていた。

ご主人が海にのまれていった瞬間を、私は忘れることはできない。この青年にも同じことがおきないとは限らない。私を助けてくれたように、もし目の前で誰かが溺れていたらこの青年も同じ行動をとるだろうから。

それでも孤独に生きるより、誰かのそばで私は生きたい。海岸線を越え、陸という現実で夢から帰ってくる人を待っていたいのだ。青年は、夢から帰ってきた時になんと言うのだろうか。


「ほら、おいで」

歩き出した青年が、手招きをして私を呼んだ。

私はその後を追って歩き出した。そんな私を見て、青年はうれしそうに笑った。

「まず名前をつけてやらないとな。みんなで考えるから、ちょっと待っててくれな」

私は一声大きくほえて、青年に応えた。

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