創作短編まとめ

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マイ・ブラザー(お題:正しい選択)

二種類のお菓子があったとする。「好きなほうを選んでいいぞ」と言われたら、心のまま好きなものを選んでいた。幼かった僕に、一歳違いの兄はいつでも先に選ばせてくれていた。お菓子も、おじさんからもらった二種類のプレゼントも、柄違いのタオルも、何もかも。幼かった僕には、「たまには兄ちゃんからいいよ」なんて言う心遣いがなかった。今にして思えば、僕の選んだものの方が、兄の好みだったと思う。兄は、遠慮を知らない僕の選択をどう思ったのだろう。そんなことも、もう聞くすべがない。

三日前兄は、事故に巻き込まれて亡くなってしまった。

兄はまだ、三十六歳だった。


両親は数年前に他界しているから、独身だった兄の身寄りは僕しかいない。

動揺している僕の心情を慮って、妻は葬儀の手配から最中まで本当によく動いてくれた。いつもはやんちゃな9歳と8歳の兄弟も、よく遊んでくれたおじさんの死に心を痛め、神妙な面持ちで葬儀に参列していた。

僕はといえば、ただ動揺するばかりだった。表面上は冷静に見えたらしい。「涙を見せずに気丈に振る舞って」いたらしい。涙を見せなかったのは、別にその時だけではない。

あんなに好きだった兄がいなくなったのに、僕は知らせを聞いたその時からずっと、涙を流していない。兄を失った、という現実が僕にはよく分からなかった。


しばらくはバタバタしていたけれど、四十九日が終わった頃にはようやく身辺が落ち着いてきた。気持ちの整理はまだついていないのに、時間だけは流れていく。


「あなた、大丈夫?」

どうやらぼうっとしていたらしい。夕食の席、箸を持ったまま止まってしまっている僕に、妻が心配そうに声をかけてきた。

「ああ、大丈夫だよ。お、このハンバーグうまいな」

あまり妻を心配させたくはない。少し笑って、食卓の上に並んでいるおかずに箸を伸ばした。それきり妻は何も言わなかった。妻は言うべきときには言うべきことをちゃんと言い、声をかけないほうがいいだろう時はそっとしておいてくれる。僕は、本当にいい人をもらったと思う。


リビングでは、先に夕食を終えた子どもたちが並んで宿題をしていた。下の子がひっかかっているわり算を、上の子が優しく教えてあげている。二人はとても仲のいい兄弟だ。

僕と兄も、仲のいい兄弟だとよく言われていた。


「終わったー!」

「僕も! ねえお母さん、宿題終わったらケーキ食べていいって約束だったよね?」

「はいはい。ちょっと待っててね」

隣にいた妻が立ち上がり冷蔵庫に向かう。入れ替わるように、子どもたちがテーブルに並んで座った。やがて戻ってきた妻の手には、小さな箱がおさめられていた。

テーブルに置かれた箱を妻が開く。そこには、苺のショートケーキとチョコレートケーキが二つ、かわいらしく並んでいた。

「珍しいな、ケーキなんて」

「評判の店なのよ。近くまで行ったついでに寄ったんだけど、ほとんど売り切れててこれしかなかったわ。私たちはまだ今度ね」

「はは。僕らはいいさ」

皿にケーキが載せられる様子を、子どもたちがキラキラした目で見守っていた。妻に似たのか、二人とも甘いものがとても好きだ。


「二人とも、どっちがいいの? ケンカせずに選ぶのよ」

「う~ん、ケンジ、先に好きなほう選んでいいぞ」

上の子の言葉にはっとした。それは、幼かった頃、僕が兄からよく言われていた言葉だった。

「ほんと? じゃあこっちのチョコレートのほう!」

下の子が無邪気に笑い、チョコレートケーキが載った皿をとった。それを見て上の子も、イチゴの方の皿に手をのばす。

「コウイチ、いいの? コウイチもチョコレート大好きじゃない。いつも弟にゆずってばかりいなくてもいいのよ?」

「いつも」と妻は言う。そういえばよく、上の子は下の子にゆずってあげている。兄が、僕にかけてくれた言葉を口にしながら。どうして今になって気づいたのだろう。

「そんなにいつもじゃないよ。でも、ケンジが好きな方を選んで、にこにこ笑ってるの見るの好きなんだよね。だからそうしちゃうんだよね」

「コウイチ、あなたいいお兄ちゃんね。なんかうれしくなっちゃうわ。ね、あなた?……あなた?」

妻の問いかけには答えられなかった。

溢れてくる涙をおさえることに、僕は必死になっていた。

「お父さん、どうしたの?」

子どもたちが食べる手を止めて、心配そうにのぞきこんでくる。

「なんでもないよ。コウイチとケンジが仲良しで、うれしいだけだ」

妻は何かを察したようだった。温かい手が、僕の背中をそっとなでた。


兄が亡くなってから、幼い頃のことをよく思い出す。

幼い頃の自分の選択を、大人になった僕は、兄を失ってからの僕は、少し後悔していた。なぜあの時、兄にゆずることができず、自分の気持ちを優先してばかりだったのだろうと。好きなお菓子やプレゼントでどっちを選ぶか、なんてささいなことだけれど、ささいなことだからこそ、小さなとげが刺さったみたいな痛みを僕の心にもたらしていた。


でも、あの時の僕の選択は、兄にとってはきっと正しい選択だったのだ。上の子が言ったように、兄も僕の笑顔を見て、満足していたに違いなかった。

涙を拭うついでに目を閉じると、幼い頃の兄の優しい目が僕をとらえて笑っていた。


兄がいなくなってから僕は、初めて涙をながすことができた。

その涙は、心にささったとげを静かに洗い流していった。

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