第8話:しいらの言葉
8-1
街の静けさは、表面上、なにも変わらないように見えた。
だが、大気が震えている─────────。
〈
そう確信するのは、〈
殺気を感じていた。
それは、夜闇のそこかしこから流れてくるようだった。
────────どうも、簡単に行けそうな雰囲気じゃないな、これは。
〈
ビルの屋上を伝っての移動は、やめておいた。
今のベアーの体には、その跳躍と着地による衝撃の連続は、致命的な負担になるだろう。
堂々と車道を走っているのは、通信網が落とされた都市の状態を考えてのことだった。
都市の各所に設置されているであろう、監視カメラなども、今やまともに機能してはいまい。
それに、もう、人目を気にしている場合ではない。
散見される一般市民や一般車輌など、眼中にあらず。
残された不安要素は、武装した警察車輌に出くわすことだが、それは単に避ければいいだけの話だ。
そうなると、深夜で、車の交通が激減している車道は、僕ら〈
自由なる疾走にて、軽々と目的地へたどり着きたいところなのだが……。
周囲の気配を読んでいた僕は、思わず舌打ちしそうになった。
速度を
「……どうしたの?」
急に止まった僕を
その顔が、ビクリとこわばる。
「ニフシェ……!」
しいらさんは弾かれたように、僕と背中合わせに立ち、身構えた。
四方から、殺気の元が、姿を現してきたからだった。
─────────〈
その体毛は、薄汚れた黒灰色。
〈
いずれも、正体を失った眼をしていた。
数は十四。
じりじりと、こちらを包囲してきていた。
だが、どうということはない。
胸の炉心には、火が入ったままだ。
〈
その僕の〈力〉が及ぶ圏内に入れば、にじり寄ってくる〈
しかしそれでも、時間の限られた今の状況……ベアーの状態を思えば、わずかでも焦りが出る。
……落ち着け。
すう、と一息したあと、〈
─────鈍い。
まず感じたのは、その一点だった。
放つ殺気こそおびただしいが、〈
おのれの意志というものが、感じられないのだ。
〈
なんにせよ、蹴散らして進むことに変わりはない。
〈
──────が、途中でやめた。
覚えのある、鮮烈な〈気〉が、この周囲をかけめぐったからだ。
同時に、僕らを取り囲んでいた〈
否、動けなくなっていた。
不可視に等しいほどの細い糸に、全身を絡め取られているのだ。
そう、今、この場には、蜘蛛の巣のごとき糸の結界が、張りめぐらされていた。
先ほど感じ取った〈気〉の正体は、
その使い手を、僕は、一人しか知らない。
「ニフシェ様、お捜し致しました」
夜の闇から、
夜のストリートには、およそ不釣り合いなメイド服。
その左手には、ペリカン・ケースと呼ばれる、無骨な外観の、軍事用手提げ鞄。
ショート・ヘアの黒髪、その頭には猫の耳。
そして、知的に眼鏡をかけている。
姫様お付きの侍女、カガネアさんに他ならなかった。
……って、あれ、猫の耳?
そうか、カガネアさんは、〈
知ってはいたのだけれど、カガネアさんの、〈
むう……!
カガネアさん、猫耳メイドだったのか………!
不謹慎にも、思わず、妙な方向に感嘆してしまう僕だった。
「……ニフシェ様。この緊迫時に、なにか
開口一番、こちらの心中を見抜かれた。
あいかわらず、カガネアさんの僕を見る目は、冷ややかだ。
「いえ全然。まったく本当に」
冷たい視線で射抜かれ、反射的にそう応えてしまう。
自分で言ってて、一から十まで嘘っぽい返答だ。
だが、カガネアさんは、そうですか、と言っただけだった。
これは僕の返事に納得したわけではなく、それ以上追求する時間を惜しんだのだろう。
カガネアさんの目は、僕が抱えているベアーのほうに向けられていた。
「やはり、負傷されていたのは、ベアー様のほうでしたか」
「やはり、って……ああ、集合場所に行ったんですね」
たずねる前に、自己完結。
おそらく、カガネアさんは、例の集合場所で、ベアーの傷からできた血溜まりを見たのだろう。
「でも、どうして傷を負ったのがベアーだと?」
「匂いでわかりました」
簡潔に答えるカガネアさん。
匂いで判別できるのか。
〈
「治療用具は一式、持ってまいりました」
カガネアさんは、手にしたケースをかかげて見せる。
「よかった……! 助かりました、ありがとうございます……!」
心底、安堵の声をもらす。
「礼には及びません。さあ、ベアー様をあちらへ」
カガネアさんにうながされ、車道から歩道のほうへ。
魔法の糸で捕縛され、唸り声をあげてもがく〈
手頃な場所で、カガネアさんは手にしているケースを下ろした。
それからケースを開けるや、素早く白いシーツを取り出し、地面に広げる。
僕はその上に、ベアーの身体を横たえた。
カガネアさんはすぐさまベアーに近づき、その全身の傷を診断しはじめた。
「大丈夫でしょうか……?」
しいらさんが、はらはらとした声で、カガネアさんに問いかけた。
カガネアさんは、数秒無言だったが、こちらを振り向いて、ひとつ、うなずいた。
「もう半時間遅れていれば、危ないところでした。ですが、ご安心を」
言いつつ、カガネアさんの手は、すでに動いている。
治療剤が傷口に大きな刺激を与えたのだろう、ベアーの口から、大きな苦鳴の声がもれた。
「しいら様、手をお貸しください。ベアー様の上半身を起こします」
「は、はい」
慌ててしいらさんが傍に近づき、ベアーの体を慎重に引き起こした。
次に、カガネアさんは、その背面の傷へ、処置にかかる。
一連の施術の早さは、戦場の衛生兵さながらだ。
とてもメイドさんの業とは思えないほどである。
……さすがは姫様お付きの方だ、と思うべきなのか、それとも、アルトヴェリア王国のメイドさんにとっては、初歩的な修得技術なのか。
「ニフシェ様、時間がありませんので、このまま現状を報告させていただきます」
てきぱきとベアーの体に包帯を巻きながら、カガネアさんはそう言ってきた。
「はい、お願いします」
ようやく、新しい情報が手に入る。
〈
都市中に充満している殺気のことといい、どうも、僕らが〈
「ニフシェ様とギャノビー様が、ホテルを退出されて間もなく、姫様と私たちは、何者かに襲撃を受けました。完璧なまでの不意打ちでした。─────姫様でさえ、なんの抵抗もできなかったほどに」
淡々と話すカガネアさんの声が、言葉の最後、暗いトーンになる。
それを聞いたしいらさんも、顔をこわばらせていた。
すでにその事実は理解していても、改めてカガネアさんの口から聞かされると、不安と動揺を抑えきれないのだろう。
姫様が敗北した、ということは、ふたりにとって、それほどショックなことなのだ。
「私は、襲撃者の特殊な技で、気絶させられてしまったようです。………申し訳ありません、不覚を取りました」
いや、この場合、カガネアさんが不覚を取ってどうこう、という話ではない。
相手が悪すぎたのだ。
〈
おそらく、〈
そうでなければ、腐っても〈気〉の業に長けている僕が、あの集合場所でいち早く〈
魔法により気配を消す業であったなら、
だが、異質な体術による敵の接近は、いかな姫様でも、その直前まで、察知することはできなかったのだろう。
そして、突如として現れた敵─────〈
初手で、しかも、まったくの不意打ちで〈
おそらく〈
そんな反則技を使う相手を敵にしては、誰であろうと、無力というほかない。
「私が意識を取り戻したときには、姫様のお姿はなく……アウスト様までいなくなっていたのです。それから私は、緊急時の集合場所に向かい、ギャノビー様らと合流しました。あの現場の状態から、ニフシェ様達が敵と交戦したことを、我々は推測したのです」
「ちょっと待ってください。キャップは集合場所で、意識を失って、倒れていませんでしたか?」
「いえ、アウスト様のお姿は、ございませんでした」
「そうですか……キャップは、今回の事件の首謀者に、〈
「─────そうでしたか。そのような事態も想定していましたが……」
また、カガネアさんの声が暗いものになった。
しかし、カガネアさんの、ベアーへの治療処置の動きは、止まることはない。
〈
もし、〈無名〉に操られたキャップが、敵として立ちはだかるとすれば。
………想像しただけでも、背筋に冷たいものが走った。
キャップの不在は、こちら側の主戦力が削がれる、という意味でも、大きな痛手だ。
姫様の救出には、一人でも多く、戦力になる味方が欲しいところなのだが………。
「他の〈
「はい。電話はおろか、インターネット、あらゆる通信機器が機能しなくなっており、その異常に気づいた方々は、順次駆けつけてこられました」
すべての通信手段まで、抑えられていたか。
なるほど、それで、〈
大都市レベルで妨害電波を発生させるのなら、最適な場所と言えるだろう。
「我々は、集まってくる人員と戦力を確認しつつ、姫様をお救いすべく、索敵に従事していたのですが────今度は、〈
「数が多すぎるんですね」
再び、道路の方で動きを封じられている〈
いくら〈
─────あらゆる通信手段を断絶、そのうえ、〈
異変に気づいた都市外部の人間達が救援にやってきても……いや、既に駆けつけているのだろうけど─────ここまでの混乱を、夜明けまでに
推察通り、これらの目的が時間稼ぎであるならば、いっそ見事なまでに成功している。
「〈
僕の力が?
……一瞬、
「そして、ギャノビー様は、私に魔法の護符を託され、ニフシェ様をお捜しするよう、申しつけられたのです」
カガネアさんはそう言って、首に掛けた護符を僕に示してみせた。
そうか、それで先ほど、タイミングのいいところで、カガネアさんが現れたのか。
通信手段を断たれた広大な都市で、いち早く僕らと合流することができたのは、魔法の護符があればこそだったわけだ。
「それで、ギャノビーさんは?」
「敵の拠点と
「TV局。イノセント・ネットワーク、ですね」
「─────ニフシェ様には、いつも驚かされます」
ひたすら冷静に、黙々とベアーの体に包帯を巻きながら、カガネアさんはそう言った。
……いや、まったく驚いていないように見えますが。
カガネアさんは、言葉を続ける。
「ニフシェ様のおっしゃるとおり、敵は、そのTV局を
「そこに、姫様が……?」
黙ってベアーの体を支えていたしいらさんが、耐えかねたようにカガネアさんにたずねた。
「おそらくは。世界有数の〈
しいらさんがベアーの体から手を離したあと、カガネアさんは、ベアーの上半身を、ゆっくりとシーツの上に横たえていく。
ベアーの呼吸は、わずかだが、穏やかさを取り戻していた。
まだ危険な状態に違いはないだろうが、このぶんなら、いくらか安心して、僕は、姫様を助けに行ける。
そんな僕の気持ちを察したように、カガネアさんは治療の手を一端止めて、振り向いてきた。
「ベアー様のことは、お任せを。……ニフシェ様も、姫様をお救いに行ってくださるのでしょう?」
「もちろんです」
きっぱりと、頷いてみせる。
「それでこそ、でございます。────必ず、姫様を連れ戻ってくださいましね」
「はい。なにがあっても、姫様だけは、絶対に」
そう、僕がどうなったとしても、姫様だけは、絶対に助け出す………!
「ニフシェ様も、どうか必ず、無事にお戻りくださいませ」
「え?」
予期せぬ言葉に、思わず聞き返してしまう。
見れば、いつも無表情なカガネアさんの顔に、微笑が浮かんでいた。
「ニフシェ様がお作りになるご家庭の食卓に、お茶をお出しするのが、私の夢なのですから。そのためには、姫様と一緒に戻ってきていただかなければ、困ります」
そう言って、さらに
うわあ……。
カガネアさんが笑うところ、初めて見た気がする。
……って、それよりも、僕が作る家庭?
その食卓に、お茶を出す?
それが、カガネアさんの、夢?
よくわからないことだらけだったが、とりあえず、うなずいておこう。
「わかりました。その夢が叶えられるように、頑張ってきます」
すると、カガネアさんの微笑が、苦笑に変わった。
「……私が言っていることの意味を、理解されていらっしゃいませんね?」
本当に、
そうこぼしたあと、カガネアさんは、なにやらケースの中をまさぐりだした。
ほどなく立ち上がり、ケースから取り出したものを、こちらへ差し出してくる。
「ニフシェ様は、これがなくては、収まりが悪うございましょう?」
それは、僕の
集合場所に落ちていたのを、わざわざ拾ってきてくれたのか。
メイドさんの性分なのか、織布は、綺麗に折り畳まれていた。
「ありがとうございます。……なんか首元が寂しいな、って思ってたところで」
照れ隠しにそう笑って、
そのまますぐに、
敷物のように広がった織布に、いつもの動作で〈気〉を通し、超圧縮しながら、折り畳んでいく。
適度な大きさになったところで、マフラーのように、首へ巻き付けた。
…………うん、落ち着いた。
しいらさんからは、ヘンなこだわり、と言われてしまったが。
物事に向き合う際には、格好から入るのも、アリだろう。
気の持ちよう、精神の在り方。
赤いマフラーに、
それは、古くから受け継がれてきた、錆びることのないスタンダード。
……さあ、気合いも入り、準備は整った。
「しいらさんは、カガネアさんと一緒に、ベアーを看ててください」
いよいよ敵の本拠地に乗りこむとなれば、しいらさんをかばっている余裕があるかどうか、わからない。
戦闘能力の低いしいらさんには、後方待機してもらうのが無難だ。
しいらさんは、なにか言いかけたが、黙ってうなずいてくれた。
「─────カガネアさん、ベアーのこと、よろしくお願いします」
「ご心配なく。お気をつけください、ニフシェ様」
はい、とうなずいてみせてから、ベアーを見る。
「ニ、ニフシェ様……ご、ご武運を……」
傷の痛みが辛いだろうに、ベアーは、声を振り絞って、そんな言葉をかけてきてくれた。
「うん、ありがとう。ちょっと、頑張ってくるよ」
ベアーに応えたあとで、内心、苦笑する。
我ながら、軽く言ってしまった。
敵は最強、強大無比。
ちょっともなにも、ないものだ。
だけどまあ──────────いつものことか。
「それじゃ、行ってきます」
三人にそう告げて、走り出す。
───────あとどれくらい、時間が残されているだろうか。
車道を全速で走っていると、頭の中で、最大の懸念が鎌首をもたげだした。
カガネアさんと合流できたことで、時間のロスを減らすことができたのは、不幸中の幸いだった。
〈
それが大魔法であれ、なんであれ、短時間で事が済むとは思えないが、こちらに猶予があるとも思えない。
仙術レベルの〈
僕には、そこまでのことはできない。
僕の〈
理論的には、〈
が、それは、後先を考えなければ有効、という話だ。
〈
もし、〈
はっきり言って、没問題である。
普通に走ったほうが戦略的には正解、という、このジレンマ。
悩んでいても仕方がない。
ふ、と意識を集中し、さらに全身全霊で駆けようとしたとき、僕を追いかけてくる〈気〉の存在に気づいた。
「……ニフシェ! 待って! 待ちなさい!……待てぇっ!」
しいらさんの叫び声に、振り返り、立ち止まる。
息を切らせて、しいらさんが走り寄ってきた。
どうしたのだろう。
まさか、一緒についてくる気なのだろうか?
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