第16話
希久美が石津先輩を連れていったのは、テレサから薬を受け取ったと同じホテルの高層階にあるクラブラウンジだ。
あいにく夜景が見えるボックス席が満席だったので、ふたりはカウンター席に並んで座った。希久美は、もともと胸元の広く開いたドレスシャツを着ていたが。さらに胸の谷間が強調されるように、少し肩をすぼめてハイチェアに腰かける。彼の視線の先を探ったが、希久美の胸元には関心がなさそうだった。
ちくしょう!対面席だったら、きっと私の胸を見たに違いないのに…。計画がひとつ狂った。
「ご馳走させていただく最初の一杯は、私が決めてもいいかしら?」
「お好きに」
希久美はバーテンダーを呼ぶと、カクテルの名前を言った。
「ブランデーエッグノッグをふたりにいただけるかしら」
希久美が指定したカクテルは、ブランデーに砂糖と卵黄1個をシェークし、牛乳で割る曲者だ。薬を混ぜ込み、飲む時に違和感を覚えないよう、事前に調査してこのカクテルを選んでおいた。やがてカクテルと呼ぶにはあまりにも濁った液体が、しゃれたグラスに注がれてふたりの前に並ぶ。
「さあ、ふたりの再会を祝って乾杯しましょう」
「再会?」
思わず出た言葉に、希久美は慌てて言葉を足した。
「今夜の偶然の出会いのことよ。ほらグラスを持ちなさい」
石津先輩は、首をかしげながらグラスを持った。
「ちょっと待って、ワイシャツの襟に口紅が付いているわよ」
「えっ」
「キスマークでも付けられたの?不愉快だから乾杯の前に消してきて」
「すまん…」
石津先輩が慌ててレストルームへ駆け込むのを確認すると、希久美はバッグから薬を取り出した。やりたくなる薬とやれなくなる薬を間違えないように…。慎重に袋を破って、薬を彼のカクテルに混ぜ込んだ。
「またいじめか?そんなものないぞ」
レストルームから帰って来た石津先輩が、希久美に抗議する。
「あら、そうでした?私の見間違えかしら。ごめんあそばせ」
希久美はまったく動じない。
「それでは、気を取り直して乾杯」
再びグラスを手にしたその時、今度は希久美の携帯が鳴った。田島ルーム長からの電話だ。
「ごめんなさい。ちょっと、待っててね」
希久美は携帯を手に、席をはずした。石津先輩は、こんな時間になっても、嫌な顔ひとつせず、熱心に仕事に対応する希久美の姿をしばらく眺めていたが、やがてバーテンダーを呼んで言った。
「自分は女性経験が乏しいので、教えて欲しいのですが…」
「私でわかることでしたら」
「ビンタくらわしたり、昼食を同席するにも泣くほど嫌がった女性が、急にカクテルをおごると言い出すのは、どういうわけがあるんでしょうか?」
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