第15話

 希久美は、日頃の調査と立案の能力を発揮して、綿密に復讐劇のシナリオを練った。そして、決行の日は、石津先輩の歓迎会がある今夜とした。


 職場のメンバーが企画した歓迎会に希久美も誘われたが、当然断った。しかし、歓迎会の場所も日時も知ることができたので、終わるころを見計らって、会場の出口が見えるカフェで、彼を待った。

 この夜の為に、一度家に帰り、シャワーを浴びて勝負服と勝負下着に着換えてきた。何度もバッグの中の薬を確認しながら、緊張で高まる胸を落ち着かせた。果たして、歓迎会が終わったメンバーがトラットリアから出てきた。

 石津先輩は、契約社員の女子の何人かに2次回を誘われているようだ。2次回に行かれてしまっては、この計画は延期せざるをえない。幸いなことに彼はニコリともせず女子の誘いを断り、早々に仲間と離れて地下鉄の駅に向かって歩き始めた。


 希久美は席を立ち脱兎のごとく石津先輩を追った。長い脚を比較的大股に使う泰佑の、歩くスピードは速い。必死に希久美は追うが、人ごみの中に一瞬泰佑の後ろ姿を見失ってしまった。確かあっちの方向だったけど…。自分の感を信じて進んでいくと、しばらくしてスターバックスの屋外席に、見覚えのある彼の背を発見した。アイスコーヒーを飲みながら酔いを醒ましているのだ。

 高校の河川敷グランドで大勢の野球部員が練習する中でも、遠目で眺めた石津先輩の姿を見失ったことなど一度もない。さすが私よね…。変なところに達成感を感じながら、しばらく彼の様子を眺めた。

 久しぶりに落ち着いて眺める石津先輩の姿だ。長い脚を投げ出して、ストローを口にしながら遠くの何かを見ている。何を考えているんだろう。仕事のこと? 家のこと? 趣味のこと? 彼女のこと?…。考えてみれば、自分は石津先輩について野球部員であったこと以外何も知らない。

 きっと彼も私のことは何も知らない。お互いのことを話す間もなく、希久美は路傍の石のごとく捨てられたのだ。あの日の以前そして以後を、彼はどのように生きてきたんだろう。それなりに見栄えのするスタイルと顔だから、きっと私と同じような女を山のように生み出したに違いない。そうよ、その人たちのためにも勇気を出して始めなければ…。希久美はゆっくりと石津先輩に近づいていった。


「あら、石津さんじゃない。こんなところで会うなんて、偶然ね」


 希久美は、自分の第一声が緊張のあまり震えていなかったかどうか心配になった。しかし声の主が希久美であることに気づいた石津先輩が、驚きのあまりコーヒーを気管に入れてせき込む姿を見て、まずは先制攻撃の成功を喜んだ。


「たしか今夜は、歓迎会だったんじゃない?」


 彼は苦しそうに咳き込みながらもうなずく。


「もう終わったの?」


 ようやく空気の通る様になった気管に安心して、唾を飲みながら再度うなずく。


「そう、残業で出られなくて残念だったわ。でも、せっかくお会いできたんだから…。もしよろしければ、今からでも歓迎の一杯をご馳走したいんだけど、お嫌かしら?」


 希久美は、可愛らしい笑顔を作って彼の顔を覗き込んだ。復讐する女とは、こんなにも女優になれるのかと、みずからを恐ろしく感じた。

 石津先輩は希久美からの思いがけない申し出に、言葉を失っている。なんとか答えろ、この悪党!なかなか返事をしない彼に焦れて、希久美の笑顔も崩れかけきた頃、ようやく石津先輩は口を開く。


「今夜はビンタなしか?」

「私がそんなことするわけないでしょ。やあねぇ」

「今夜は泣かないな?」

「お誘い断ったら、泣くかもしれませんわよ」


 しばらく考えた石津先輩は、まさにプレゼンを始める直前にみずからを奮い起こすように、はずしていたワイシャツの襟ボタンをつけ直し、緩んだネクタイを締め直して席から立ち上がった。


「わかった。どこにする?」

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