第13話

 今日は休日であるが、ナミは医局の自分のデスクで、最近の小児科学の医学論文を読んでいた。休日当番で病院に詰めていたのだ。


『荒木先生、急患です』


 院内PHSで呼ばれ、論文集を閉じて小児科診療室に急ぐ。

 診療デスクに着席して招き入れた患者は、5歳くらいの女の子とその父親だった。

「どうしました」

「朝から熱が出て…」


 女の子を抱いた父親が、心配そうに答えた。


「わかりました。とりあえずもう一度熱を測ってみましょうか。看護師さんお願い」


 ナミの指示で看護師が、父親から女の子を受け取ろうとしたが、女の子が父親にしがみついて離れない。


「おやおや、甘えん坊なお嬢さんだこと。それならお父さんに抱いてもらったままお熱を測りましょうか」


 ナミが体温計を女の子の脇に差し入れようと近づくと、今度は父親から離れてナミの腕の中にもぐりこんだ。


「おい、ユカ。先生が迷惑するだろう」


 父親が慌てて娘を離そうとしたが、ナミが制した。


「いいですよ。ここがいいなら、ここでお熱を測りましょう」


 ナミは女の子を抱きながら、あらためて父親を観察した。ずいぶん若い父親だ。


「ユカちゃんに咳、鼻水、嘔吐、下痢などの症状がありましたか?」

「ええ、朝少し咳をしていたようですが…」


 父親が心配そうにわが娘の顔を覗き込んで言った。


「ユカちゃんの普段の生活で、様子が変だと思うところがありましたか?」

「少し元気が無いようでしたが、特に異常なことはなかったです」


 ナミは、体温計を女の子の脇から抜き取り、温度を確認すると父親に言った。


「確かにお熱が高いですね。のどの腫れから考えると風邪でしょう。発熱の多くは、風邪などのウイルスの感染によって起こりますが、もともとはウイルスをやっつけるために、自ら熱を出してウイルスの住み難い環境をつくり出しているのですよ。高温になると活発になる免疫もあるし、ウイルス感染の殆どは自然に治癒しますから、安心してください」


 ユカは顔をナミの胸に埋めている。ナミの話す声が、胸の振動から直接聞こえてくるのが心地好いのか、すっかり安心して腕の中におさまっている。


「わかりました」


 父親はナミの診断に、安心したように娘の頭をなぜた。


「ユカちゃんの治る力を少し手助けしてあげれば、だいたい2、3日でよくなりますよ。解熱剤の処方を出しておきますから、帰りに薬剤部に寄って行って下さい」

「ありがとうございました。さあ、ユカ。家に帰ろう」


 父親がユカを引きはがそうとしたが、今度はナミから離れない。ナミは笑いながら言った。


「変な話ですけど、小児科医になって以来、ここまで患者のお子さんに好かれた経験はないわ」

「すみません。ユカも初めて会った人にこんなにベタベタすることは無いんですが…」

「いいですよ。これから薬剤部へお寄りになるでしょう?今日は休日だから他に診療もないし、病院出るまでユカちゃんを抱いてお送りしますよ」


 ナミはユカを抱きながら、若い父親と連れだって診療室を出た。


「ユカちゃん。お母さんは、今日はお仕事なのかな?」


 ユカは答えなかったが、ナミはユカのしがみつく力が強くなったような気がした。質問は父親が代わりに答えた。


「ユカの母親は、亡くなったのです」

「ごっ、ごめんなさい。変なこと聞いちゃって…」

「いえ、気にしないでください」


 石嶋は歩く歩調にあわせて、ゆっくりと話し始めた。


「実は、ユカの両親は3カ月に交通事故で亡くなったんです。ユカの父親は自分の兄で…。ユカの祖父母もとうに亡くなっているし、今はとりあえず自分が、面倒を見ているんです。早く適当な里親が見つけないと…。やはりユカも父親と母親がそろう優しい家庭で育てられた方が、幸せでしょうから…」


 患者のプライベートには立ち入らない。それは、冷静で正確な診断と治療を施す臨床医の鉄則である。ナミは父親の言葉には何の返事も返さなかった。3人は、誰も居ない廊下を薬剤部へ向けて黙って歩いた。薬が出るのを、待合ロビーのベンチで待つ間も、ユカはナミの腕の中から動こうとしない。ユカはナミの胸に、失った母親の懐かしい柔らかさを、見出したのだろうか。

 病院の出口で、父親はムズがるユカをようやくナミから引き離しタクシーに乗り込んだ。走り去るタクシーを見送るナミは、車内で彼女を見て泣いているユカの口が、先生と言っているのかママと言っているのか判断ができなかった。

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