第8話

「希久美。ここだ、ここだ」


 先に席に着いていた義父が、彼女を呼んだ。


「おそかったな。まあいい。ここに座れ」

「お義父さんと恋人じゃないのに、なんで隣に座らなきゃならないの」

「文句を言わず、今日は素直にここに座れ」


 義父は笑ながら、椅子を引いて希久美を招き入れた。

 どんなに憎まれ口をきいても、希久美は義父に逆らえなかった。感謝の気持ちが大きすぎるのだ。希久美を産んで早くに離婚した母は、愛娘を育てるために必死に働いた。シングルマザーとして様々な迫害や屈辱にさらされながら秘書課の契約社員として働いていた母だったが、会社の役員だった義父が母の誠実な仕事ぶりと生き様に惚れ込んだ。

 エリートで、しかもなうてのプレイボーイとして独身貴族を貫いてきた義父が、なぜ子持ちの契約社員にプロポーズしたのかは、今でも七不思議として社員の話題となっている。希久美にしてみれば、連れ子の自分を、わが娘の様にかわいがってくれたことよりも、自分を育てるために長年苦労してきた母を愛し慈しんでくれていることに、本当に感謝しているのだ。

 顔に不満の表情を浮かべながらも、素直に引かれた椅子に腰かけた。


「さて、今夜の料理は何にする?」

「なんでもいいわ。お義父さん選んで」

「珍しい。今夜は人任せか?」

「忙しかったから…」


 いつもと違う様子に、義父は思わず娘の顔を見た。


「おや、おれとの食事の為に髪をセットして来てくれたのかな?」

「暇だから…」

「言ってることがむちゃくちゃだな…。心配ごとでもあるのか?」

「ストレスがそれなりにね」

「今の部署がつらいなら、もっと楽な部署への異動を、お前の会社の役員にお願いしてやるぞ」

「余計なことしないで。大丈夫だから」


 義父のおせっかいを迷惑がる表情を見せながらも、母と同様に、義理の娘にも思いやりを見せてくれる義父に希久美は感謝した。


「青沼取締役。遅くなりました」


 突然希久美たちのテーブルに見知らぬ青年がやってきた。


「おお、来たか。まあ座りたまえ」


 義父は、希久美と対面する席をその青年に勧めた。希久美は驚いて、義父と青年を交互に見やっていたが、やがて事態を理解して、冷たい横目視線を義父に投げかけた。義父は希久美の機嫌を盗み見しながら、青年に話しかける。


「石嶋くん、紹介するよ。私の娘の希久美だ」


 石嶋は緊張した面持ちで希久美に挨拶した。


「希久美。石嶋くんだ。彼はわが社の社員で、将来経営への参加を嘱望されている優秀な人材なんだよ」


 希久美は、しばらくの沈黙の後、義父への冷たい視線のロックを外して、石嶋に微笑みかけながら挨拶をした。少し安心した義父は、言葉を続ける。


「石嶋くんはね、仕事もそうだが、思いつきとか即興で物事を動かさないタイプなんだ。その点、希久美とは気が合うと思うんだが…」


 義父に恥をかかせるわけにはいかなかった。希久美は、笑顔を崩さず、その場は楽しそうに石嶋と義父との食事をこなしたが、こころはまったく別なところに行っていた。石津先輩に再会して以来、何をしていても、もう希久美のこころに平安なんて文字は見つからない。

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