第7話

 希久美が勤める会社は、広告代理店として単体では世界で最大の売り上げ規模で、連結売上高は2兆円を超える。単体の売上高でいっても、国内2位の代理店の約2倍、3位の代理店の約4倍と、名実ともに日本最大の広告代理店であり、「広告界のガリバー」の異名を持つ。その圧倒的なシェアゆえ、市場の寡占化が問題視され、公正取引委員会によって調査がなされたほどだ。従業員数はグループで1万7千名を超え、単独でも6千3百名を超える。


 シオサイトに置かれている東京本社ビルは、ビルで働く約6千人の社員がウォーターフロントを眺められるよう、南側を曲面としたブーメラン状の断面を持つ斬新なデザインとなっている。

 外壁に面するエレベーターは、平均待ち時間を30秒程度に収めるため、1階のエントランスホール、6階・14階・25階・36階・44階に停止する高速シャトルエレベーターと、中速運転のローカルエレベーターを組み合わせた、デュアルエレベータシステムが採用されている。建設当時は世界最高速であったが、あまりの速度に役員が恐怖を感じたため、運転速度が落とされたという逸話まである。

 そんな最新の施設でも、傷はかならずあるものだ。本社ビルのタクシープールは、設計したフランス人建築家の不勉強のために、右側通行用に設計、建設されてしまった。そのため、ビル前の道路で乗り降りする社員が多く、周囲を通行するドライバーから顰蹙を買っている。設計した当の本人は施主側との意見の対立により、本来の制作意図が叶えられなかったことを理由に、自身の作品として公表されることを望んでいないと言われている。


 そんなビルに勤務する希久美であるが、仕事は気に入っていた。実際、宣伝担当取締役のお義父さんのコネで、この大会社に入社したわけだが、『大きな仕事と取り組め、小さな仕事はおのれを小さくする。』などと謳われた「鬼十則」を規範とした大勢の社員の中でもまれて、なんとか一人前の営業としての地位を確立していた。

 今では、パブリック担当営業として、自治体や公共団体をクライアントとして立派に売り上げを積み上げている。


「みんな、忙しいところすまないが、少しこちらに注目してくれるか」


 営業室長が、部下に声をかけた。営業室はふたつのルームにわかれている。明日の打合せに備えて、デスクのPCで予算をチェックしていた希久美は、モニターから顔を上げた。


「今日から新しいメンバーが加わることになったので紹介する」


 室長は、横についていた青年に自己紹介を促した。


「はじめまして、石津です。よろしくお願いいたします」


 名前を聞いた希久美は開けた口から心臓が飛び出そうになった。


「えーと、こちらが斉藤ルーム長、そして…」


 室長がひとりひとりを紹介し始めた。泰佑は、室長の後を、礼をしながらついていった。希久美は、挨拶して回る男が本当にあの悪党であるかどうかを確認するために姿を目で追った。自分に近づくに従い、確信するようになった。

 大人びてはいたものの、確かに顔の輪郭とつくりは高校時代に希久美が目で追っていた彼のものであり、そしてその声は、ラブレターを渡した時に聞き覚えたそのものだった。

 信じられない。こいつは本当にあの石津先輩だ。胃液が逆流した。希久美は10年たった今でも、決して薄れることのない怒りを自覚した。


「それから、こちらが、田島ルーム長、そして、山田くん、深江くん、そして…」


 息が苦しい。希久美は心臓が肥大し、肺を圧迫しているような気分になった。自然にこぶしに力が入り、持っていたボールペンが砕けた。お産の時でもこんなに力むことは無いかもしれない。いよいよ室長と泰佑が、希久美の前に来た。もし、もう半歩近づいていたら、確実に飛びかかっていただろう。


「彼女が、青沼くんだ」

「よろしくお願いします」


 泰佑は、希久美の顔を見ながら軽く会釈した。


「青沼くん、大丈夫か?顔色が良くないが…」

「たかが生理ですから、気にしないでください」


 室長の問いかけに投げ捨てるように返事を返す。


「そうか…」


 聞いてはいけないことを聞いてしまったような気分になった室長は、これもセクハラになるのかどうか悩みながら、泰佑を引き連れてもとの位置に戻った。


「石津くんには、当面斉藤ルームで財団関係を担当してもらう」

「みなさん、よろしくお願いいたします」


 希久美は、深々と頭を下げる泰佑をにらみ続けた。彼はことさら希久美を見返す様子はない。あいつは、気づいていないのか?それともふりをしているのか? いや、雑草を踏むがごとくバージンを奪い去った私のことなんか、とっくに記憶にないに違いない。

 永久に格納するはずだった古い記憶が鮮やかに蘇り、得体のしれない感情が高速で渦を巻く。頭の中でドラム缶を叩くような音がガンガン鳴り響いた。


「田島さん。得意先行ってきます。遅くなると思いますので、そのまま直帰しますよ」


 そう言うが早いか、ルーム長の返事も聞かず、希久美は上着を持ってオフィスを飛び出た。とにかく、今はここにはいられない。石津先輩と同じ空気を吸うなんてありえない。落ち着くまで外に居よう。そうだこういう時は、何も考えず髪の毛をいじるのが一番だ。彼女は行きつけのヘアスタジオへタクシーを飛ばした。

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