Ⅷ-202 未練との決着
澄み渡る風は爽やかに、緑を揺らし吹き抜ける。見上げた空も草むらも、青く青くただ快い。肺から吐き出すため息は、爽やかに葉に吸われゆく。
黒イナリが、俺の手首を掴んだ。
「……とどめを、刺さないんですか?」
背中合わせに座り込んだまま、黒イナリは呟いた。
その声色はか弱く、少し前まで対峙していた彼女とはまるで別人だ。
「まあ、まずは聞けって」
真っ黒な手を両手で包んで、せめてもの温もりを分け与えた。
ああ、セルリアンの手は冷たい。
俺の手も、こんな風に凍り付いてるのかな。
「……まだ、俺は後悔してる」
「後悔…?」
「ああ、終わった話だ」
この記憶を口にするのは何度目だろう。
血みどろに染まった教室、白狐との巡り合わせ、全てを忘れた呑気な一年、思い出してしまったあの日、遥都に嘘をついたあの夕暮れ、取り返しのつかない願い。
苦々しい記憶を口にして、熱い吐き気が身体中を駆け巡った。
「二人兆候に気づいていれば、命懸けにでも止めていれば……いや、もっと早く、どちらか一人に選んでいれば」
どうなっていたんだろうな。
もしかしたら、少なくとも片方は絶対に死んでいたのかもしれない。
誰一人として、死なずに済んだのかもしれない。
だけど俺は、選ばないままに失わざるを得なかった。
選ばなかった後悔が、自責の念が膨れ上がって……そして今日、また俺を傷つけたんだ。
「夢に出てくるんだ……『忘れるな』って言われてんのかな」
「でも…でも、そうすれば必ず良い結果になったなんて、言えないんでしょう…?」
「はは、正論だな」
過去は変えられない。
だから悔やむよりも、割り切った方が健康的だ。
それは分かってる。論理的には理解している。
理解しているだけで、感情が追い付かないんだ。
「……あの現実よりは、少しでも良くなったんじゃないかって。そう、思っちまうんだよな」
「……」
黒イナリが俯く。はは、呆れられたか?
そう思って覗き込んだら、プイッとそっぽを向かれてしまう。頬に垂れていた雫は見間違いだと思うことにした。
だから、何でもないように話を続ける。
「なぁ…お前の輝きって、俺の未練だろ?」
ピクリ、黒い手が脈を打つ。
図星か、やっぱり分かりやすいな。
…誰に、似たんだろうな。
「だから……そう思ったから。お前に、止めを刺す訳にはいかなかった」
黒イナリは、俺の輝きを取り込んで動くセルリアン。
もしも倒せばその瞬間、外の世界への未練に関する記憶が全て消えてしまう。
ならば、その
それを考えた結果、余計にコイツを倒せなくなった。
「お前、本当に色々知ってたよな。俺を昔から”カムくん”と呼んでた、なんて話までしてた訳だし」
「…はい」
肯定、弱々しく。
「一応聞いとく、どこまで知ってる?」
「………全て、文字通り全部です」
真実、最も厳しく。
「なるほど…やっぱりか」
未練、外の記憶の全て。
「そりゃ、倒さなくて正解だったよ」
安堵、そして新たな不安。
これから、どうしようかな……
―――――――――
「…もう、長くはこうしていられませんよね」
「そうだな、結界も壊しちまったし」
今のオイナリサマに、どれ程のダメージや後遺症が残っているのか…俺には推し量りようもない。
だから確実を取るなら、今すぐ行動を起こすべきだ。
この事件の行く先の主導権を、俺だけが握っていられるうちに。
でも…最善の道が解らない。
「どうにか、匿う方法があればな……」
見つかれば十中八九、黒イナリは殺される。
俺もコイツも、先の戦いでエネルギーはすっからかんだ。
十分に休む時間があったオイナリサマに勝てる可能性なんて、万に一つにも無いと思った方が良い。
…やばいな、お先真っ暗だ。
どうしたものか、もしかして始めから詰んでたのか?
負のスパイラル、考えるほどに落ち込んでいく感情。
そこに、一枚の葉っぱが添えられた。
「……えへへ」
「ど、どうした…?」
黒イナリの手がペタリと、俺の両目を覆う。
まるで、『何も見なくていいんだよ』と囁きかけるように。世界が、色の無い明暗に包まれる。
「カムくん。もう少しだけ、こうして休んでいませんか?」
甘く、破滅的な誘い。
黒イナリはそうした先に待っている結末を知りながら……俺を、堕落の道へと引き摺り込もうとする。
「ワタシは別に良いんです。輝きなら、返せばいいだけですし」
「だから、その方法が………なっ!?」
けれど、溺れてなんていられない。
視界を覆うモノクロを取り払って、黒イナリと相対して。
俺は、フルカラーの現実に言葉を失った。
「……うふふ、どうしたんですか?」
黒イナリの、思ったよりも小さな手に一杯に握られ、俺に向けて差し出されている宝石。
赤く脈打つそれを見て、瞬きする間もなくそれが黒イナリの心臓、つまりセルリアンの核であることを理解した。
「なんだよ、それ…」
「もう、分かってるくせに」
敬語を捨て、真夜のような口調で詰め寄ってくる黒イナリ。
赤い宝石を俺の左手に握らせ、心臓から伸ばした管を薬指に挿して繋げた。すると心臓はずぶずぶと、音を立てるように俺の身体の中へと沈んでいく。
心臓が完全に沈むまでの間ずっと、戻ってくる記憶は走馬燈のように流れ、俺はそれらを一つ一つ振り返らされていた。
「これで、記憶は全部戻った。だからワタシが死んでも、カムくんはもう大丈夫」
「……は?」
黒イナリは笑う。儚げにはにかむ。
「ごめんねカムくん。ワタシのせいで、こんなにボロボロにしちゃって」
謝罪の言葉を聞かされて、余計に別れが際立った。
俺は、お前が消えてしまうのをただでさえ恐ろしく思っているというのに。
「いいんだよ。ワタシは所詮再現。この口調も君への呼び方も、神無岐真夜についての記憶を取り出したコピーでしかない」
「嘘…だろ? 嘘、つくんじゃねぇよ…!」
コピー。
なんて無機質で、無情な言葉だろう。
俺は…戦いの中でお前と相対した俺には、そうそう受け入れられる物言いじゃない。
だけど、そんな俺を、黒イナリは嗤う。
「ワタシを、真夜だと思うの? ワタシは
そう言って、グイっと近づく。
黒イナリの、オイナリサマらしい部分を強引に見せられる。
そうしているうちに、抱いていた疑いも薄れていく。
「そうだな、有り得ないよな……亡霊でも、取り憑かない限り」
「……うふふ」
また嗤う。
可愛らしい声が不安を煽って、俺は思わず聞き直す。
「…なあ、本当に違うのか?」
「何度も言ってるでしょ? ……でも、いいよ。カムくんが夢を見たいなら、見せてあげる」
ステップ、スピン、足でねじって、腕を広げて、クルクルと舞って、止まって、最後にアイツはクイズを出した。
「……さて、どっちでしょう?」
だけど、俺はそれどころじゃなかった。
黒イナリの正体がどうとか、考えている余裕なんて無くなった。
「お前、体が……」
「あはは。核が無くなったからだね、もうそろそろ限界みたい。でも、心配しないで?」
薄れていく虹の色を撒き散らして、透けて見える向こうの森に手を振って、アイツは俺に抱き付いた。
「今のワタシは消えちゃうけど……私はずっと、カムくんを見守ってるから」
腕を放して、離れていく。
向こうへ歩みを踏んで、踏んで。
その度に、アイツの存在が希薄になっていって。
…そして、終わり?
「………え?」
そんなの、俺は嫌だ。
「行かせるかよ、みすみす」
「ちょ、ちょっと、カムくん?」
アイツの身体を引いて、心臓と同じように、俺の身体にめり込ませていく。
出来るはずだ。
心臓だって出来た、槍と同じ要領だ。
簡単な話だ。
俺の中にさえいれば、オイナリサマからだって匿えるはずだ。
『……い、いいの? 中に取り込んでも、私しばらくは眠ってるよ? エネルギーも無くなっちゃったし、カムくんの分を取っちゃうかもだし…』
「構いやしないさ、居てくれればな」
論理なんて知るか。
”行かせてはいけない”って、俺がそう感じただけだ。
『…………あは、嬉しい』
失わなくていい方法があるんだ。掴まなくてどうする。
『じゃあ、早速だけどおやすみ……』
「ああ、いい夢見ろよ」
頭の中に、寝息が響く。
「……結局、どっちだったんだろうな」
俺が深読みしただけで、本当にただのコピーなのか。
それとも、何か別の魂が入り込んでいたのか。
「多分、これからも分かんないんだろうなぁ……」
だが、それでいい。
今は、自分のやりたいように出来た。
それだけで満足だ。
「…ここに居たって意味ないな」
そろそろ様子を見に行こう、オイナリサマはどうしているだろう。
アイツにやられた怪我も、あんまり酷いものじゃないと良いけどな。
「そう言えば、祝明は帰ったのか?」
困った。
気になることが多すぎる。
折角事件が一つ終わったというに、何故俺がこんなに心を配る必要があるのか。
「でもまあ、そんなもんか」
とりあえず神社に行こう。
それから、この先のことは考えよう。
その前に、一言だけ。
「……サンキューな」
ある意味、お前のせいだ。
でも、恨まないさ。
お前のおかげで俺はまた、もう少しだけ、前を向けそうだ。
―――――――――
「わわっ、イヅナ…!?」
「えへへ、捕まえたー!」
神社の境内で、祝明とイヅナがじゃれ合っている。
「もう、いきなりどうしたの?」
「あれ、鬼ごっこはまだ終わってないよ?」
「えぇ…?」
元気なイヅナと、呆れる祝明。
あんな災難に巻き込まれた後だけど、二人とも平常運転に見える。
「…じゃあ、明日一日デート?」
「そう、当然でしょ?」
鬼ごっこか……そういえば、戦いの途中で聞いたような気もする。
しかし、”捕まったらデート”とは妙ちくりんな約束をしたものだな。
「まあ、それは良いけど……それよりっ! イヅナ、怪我はない?」
「バッチリ無事だよ、ノリくんは…疲れてるね」
「あはは、油断できない戦いだったからさ…」
ああ、本当にギリギリの戦いだった。
祝明のアドバイスや助けが無ければ、俺が輝きの正体を思いつくのが遅れていたら、今頃負けていたかもしれない。
「……そっか。ノリくん、勝てたんだね」
「…まあ、神依君が居てくれたおかげだよ」
「それでも、ノリくんの力あってこそ。想像だけど、そうじゃないかな?」
なんだ、アイツも良いこと言うじゃねぇか。
ずっと『ノリくんノリくん』と呟いてる妙なキツネだと思ってたが、少しだけ見直したぞ。
……ほんの一瞬だけ、睨まれたような。
気のせい…だよな?
「……強くなったね、ノリくん。私の教えをしっかり吸収しているようで、嬉しいな」
「あはは、ありがと」
その後もしばらく、俺は木陰に身を隠しながら二人の様子を眺めていた。
出て行って声を掛ければ良かった……と、今では思っているが、最初に隠れてしまったせいでタイミングを失ってしまった。
……でも、二人とも元気そうだ。
俺のせいで余計なトラブルに巻き込んじまったからな、何事もなくてよかった。
「じゃ、遊園地に戻ろ!」
「えっと、良いのかな…」
「平気だって、神依くんが何とかしてくれるでしょ」
「そ、そうかな…」
腕をグイグイと引っ張られ、祝明は不承な顔をしつつもついて行く。
ああ、別にそれでいい。
神社の後片付けもオイナリサマのことも、俺に任せてくれればいい。
―――ま、精々元気でな。
「…さて、そろそろ俺も行くとするか」
オイナリサマは下の方か、探すのは疲れそうだな。
でも、探さない訳にもいかない。
やれやれ、困った神様だ。
「全く、どうして向こうから来ないんだか…」
俺がその理由を知るのは、もう少し後。
オイナリサマとの関係に変化が訪れる時までも、あと少し。
―――未練との決着はついた。次は未来を見るときだ。
「……ふっ」
石段を下りる足音は、コツコツと軽く朗らかに。
希望の音を踏みならして行く、正午の日が差す刻だった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます