Ⅶ-181 遺灰も燃えたあの夜が


「すぅ……はぁ…」


 深呼吸。

 部屋の空気が肺の中を一杯に満たす。


 懐かしい匂い。

 また見たかった光景。

 ずっと来たかった…悪夢が始まった場所。


 そのどれもが、わたくしの記憶のそのままに残っています。


「まるで変わりませんね……森と同じ、自然みたい」

「そう、でしょうか?」

「…何か?」


 後ろから、ホッキョクギツネの声が聞こえる。


 振り向いて目を合わせると、彼女はぽつぽつと話し始めた。


 腰の引けた仕草をして、それでも芯の通った瞳でこちらを見据えながら。


「…いえ、何と言うか…自然って、ちゃんと変わってると思うんです。例え見た目が同じでも、中身は確かに違うんじゃないかなー…って」

「……そうかも、しれませんね」


 彼女の言う通り。


 もうあの瞬間のロッジには、どれほど願ったとしても帰れやしないのです。


「…あ、ごめんなさい。口を挟んでしまって…」

「大丈夫ですよ…本当に、そうですから」


 そう、戻って来ない。

 絶対、帰って来ない。


「いらっしゃい、お泊りかな?」

「こんばんは。タイリクオオカミさん…でしたか?」


 ロビーの奥からやって来たタイリクオオカミさん。

 記憶の中のロッジにはいない存在です。


 彼女もこの十年のうちに、ロッジに居着いたのでしょう。


「うん、知ってもらえて光栄だよ。そうだね…暗くなって、外も少し冷えてきただろう、お茶でも飲まないかい?」

「頂きます。…アイネさんも、飲みますよね?」

「…ええ、ありがとうございます」


 オオカミさんの持ち掛けは、実に丁度良い提案でした。


 過去の思い出に触れられるのは素晴らしいことですが……なにぶん気持ちが昂ってしまって、どうにも抑えが利かないのです。


「そこに座って待ってくれたまえ、すぐに用意してくるからね」


 指し示された椅子に座って、近くの窓を開け放つ。

 新鮮な冷風が吹き込んで、飛び出していくロッジの空気が頭を洗う。


 そのどちらもが懐かしい。


 も、わたくしはこんな風に過ごしていた。


「……パパ」

「…お父様が、何か?」

「いや…気にしないでください、唯の独り言です」

「…そう、ですか」


 言い訳は心にも無く、心はここに在らず。


 わたくしが抱いた興味は全て過去へとそのベクトルを向け、もはや感じ取れないほど希薄になった繋がりを血眼になって探ろうとしている。


 きっと今感じているこの感覚さえ錯覚。


 十年前が分かるものなんて、一切合切朽ち果ててしまったのでしょう。


 けれど。


 だからと言って、わたくしの時計が動き出す道理は無いのです。



 むしろ。

 もしも、全てが消え去った後なのならば。


 わたくしの時間さえ、一緒に朽ちて動かなくなるべきなのです。



「お待たせ。コーヒーと一緒に、私の話は如何かな?」

「ぜひお願いします。アイネさんは…」

「…お好きにどうぞ」

「ふふ、じゃあそうさせてもらうよ?」


 こちらを向いて、くつくつと喉を鳴らすオオカミさんの目は。


 まるで珍しいものを観察するかのように、三日月の形に細まっていました。




―――――――――




「…これは、私が古い友人から聞いた話だよ」


 そんな前置きから、彼女の怪談は始まった。


「その日の夜は、とても月が明るかったそうだ。森の動物たちも普段より活発で、真夜中になっても…葉っぱのさざめくような音が途切れることは無かったらしい」

「…騒がしい夜、ですか」


 珍しい、確かにそれは記憶に残ることでしょう。

 そう…わたくしのように。


「ふふ、一言で言ってしまえばその通りだね。けど、もっと風情のある言い方をしようじゃないか」

「オオカミさんはロマンチストなんですね」

「ああ、その方が好きだからね。…その友人が話すには、アレは”虫の報せ”だったらしい」


 彼女の語り口は童話を読み聞かせるかのよう。

 ホッキョクギツネさんは目を輝かせて、”早く続きを”と急かします。


 対してわたくしはと言うと…さほど、彼女のお話に興味はありませんでした。


 心は未だ過去の中。

 勿論、お話そのものは耳に入れています。


 ただ、味わう気になれないだけ。


「……さあ、その報せとは何だったんだろうね?」


 わたくしの胸中を察しているのか、オオカミさんはこちらを真っ直ぐに見据え、そんな疑問を投げかけます。


 しばらく目を合わせていましたが…答えが無いと知ると、肩を竦めて続きを語ります。


「…友人も、いつまで経っても止まない騒めきに不穏なものを感じたらしい。どうせ眠れないからとベッドを出て、外に様子を見に行った」


 言葉の終わりに席を立ち、丸い窓から腕を伸ばす。


 引っ込めた手の先には、緑の葉っぱが摘ままれていた。


「そこで友人は…在り得ない光景を目にしたんだ」

「…ありえない?」


 白い狐の問いかけに、狼はぐいと目を寄せる。


「そう、普通では考えられないほど、恐ろしい景色だ」

「っ……」


 額が触れ合ってしまいそうな距離で囁かれた低い声色に、彼女はゴクリと息を呑む。


 ふわり。


 窓から吹き込んだ風が、オオカミさんの髪の毛をぐしゃぐしゃに揺らめかせた。


「空を見たんだ…暗かったから月を確かめたくてね」


「確かに有ったよ。黄色く丸く、美しく。でも、様子が変だった」


「「どうしたんだろう」と足を踏み出した……その瞬間!」


 …激しい語調の後。


 風だけが鼓膜を揺らす静寂の中。


 恐る恐る、ホッキョクギツネさんが尋ねる。


「…どう、なったんですか?」

「……月が、降ってきたんだ」


 …え?


「正しく言えば、黄色くて丸いセルリアンだったけどね」

「なんだ、セルリアンでしたか……って、良くないですよね」


 わたくしも驚かされました。


 いつの間にか話にのめり込んでいる…とても恐ろしい話術です。


「そうだね。でも状況はもっと悪かった。周りを見てみると、どこもかしこもセルリアンだらけだったんだ」

「……!」


 ……あれ?


「すぐに理解した。ずっと止まなかった騒めきは、セルリアンが起こしていたものだと」

「ひっ…」

「ふふ……そしてね、私の友人はそれに気づいて、居ても立っても居られなくなったんだ」

「どうして、ですか?」


 この話、何処となく…似ているような。


「友人の友人…フレンズだけどね。その夜彼女は、綺麗な月を高い場所から見たいと、火山に登っていたんだよ」

「……あ」


 分かってしまう。

 この話の終わりが。


「友人は急いだ。友を助けるため、必死に火山を駆け上っていった。転んで、すりむいて、血を出して。それでも、足を止めなかった」


「そして…どうなったんですか?」


「山頂で…そのフレンズはセルリアンと戦っていた。火口の間際に追い詰められて、一歩踏み違えば滑り落ちてしまうギリギリの場所で」


 それを聞いて、ホッキョクギツネさんもまた息を呑んだ。


 わたくしと同じように、結末を察してしまったのだろう。

 けど彼女はまだ幸せだ。


 わたくしと違って、から…


「…そう、悲しい顔をしないでくれ。あんまり良い顔じゃないよ」

「でも、友人の友人さんが…」

「大丈夫…だって友人は、彼女を助けるために山を登ったんだから」

「…じゃあ……!」


 希望に、白い狐の目が輝いた。


「ああ、ギリギリのところで助けに入って、なんとかセルリアンを打ち倒せた。そして二人はお互いにボロボロの体を支え合いながら、このロッジに帰ってきたんだ」

「ふぅ…良かった…!」


 ハッピーエンドに二人は笑う。

 わたくしはそっと顔を伏せる。


「ふふ、ドキドキしたかい?」

「はい、とっても…!」

「それは良かった。…あぁ、良い顔だね、ぜひ絵にしたいよ」


 なんて在り来たりな幸せでしょう。


 ええ、分かっていました。

 どんな物語だって、度を超えた理不尽はそうそう出てこないものです。


 …現実と、違って。


「…あれ、アイネさん?」

「少し、外の空気を吸ってきます」




―――――――――




「……ふぅ」


 ロッジから抜け出し、真上に昇った月を見上げる。

 胸のざわめきが、この島に来てから一番大きく感じられます。


 あぁ…なんで、関係ないはずのお話で、こんなにも深い傷を負わなくてはならないのでしょうか。


 いいえ…傷口に塩を塗られただけ、かもしれませんね。


「あのお話のように、助けられたら良かったのに…」

 


 …パパ。



―――――



『アイネ、大丈夫か!?』

『…パパ?』


 敢えてあのお話に登場人物を当てはめるなら、わたくしは『友人の友人』。

 そしてパパは、『友人』という立ち位置になる。


 でも実際は、わたくし達は一緒に火山に来ていた。


 十年前のあの日、綺麗な月を二人っきりで見たいと、パパに駄々をこねて連れて行ってもらった。


 その結果…セルリアンに襲われた。


『くっ…アイネには手を出すな…!』


 パパは勇敢に戦った。

 力の弱いヒトだし、滅多に運動をしない研究員だし、勝てる訳はなかった。


 だけど、わたくしを守るために、歯を食いしばってそこに立ち続けていた。


『アイネ…逃げろ!』

『そんな、やだよ…! パパと一緒じゃなきゃやだ…!』

『ふ……うおおっ!』


 聞いたことのない雄叫びを上げて、パパはセルリアンを投げ飛ばした。


 一体。

 たったの一体だけど、そのセルリアンは砕け散った。


 パパはそれに目もくれず、一直線にわたくしの元へと駆け寄ってくれた。


『アイネは仕方ないな…逃げるぞ、一緒に』

『…うん!』


 嬉しかった。

 頼もしかった。

 パパが一緒にいてくれることが。


『よし…走れるか?』

『うん、大丈夫だよ!』


 パパが居てくれるなら、何も怖くない。


 そう思った。


 きっと、だからだ。


『…っ! アイネ!』

『えっ……?』


 神様は、わたくしからパパを奪っていった。


『そ、そんな…』


 目にも止まらぬ速さで現れた、大きな図体をしたセルリアン。


 ソイツはパパにぶつかって、勢いのままに突き進む。


『くっ…アイネ…!』

『あっ、そこは…』


 もう、分かるでしょう。


 火口。

 

 この島の全てのサンドスターを放出する、生と死が混ざり合ったかのような穴の中。


 パパは、そこに落ちていった。


『パパ…パパッ!』

『来るなっ!』

『っ…』

『来るなアイネ…逃げろ、お前だけでも……っ!』


 その後も、パパは何かをずっと叫び続けていた。


 穴の中に落ちて、聞こえなくなってしまうまで。



―――――



 パパが何を口にしていたのか、わたくしはもう覚えていない。

 あの後、自分がどのように助かったのかも、詳しくは知らない。


 だって、自分を守りたかったから。


 あの経験をそのまま持ち続けていたら、きっと今に至るまでに壊れてしまっていたから。


「…あそこに居たんだよね、パパ?」


 十年。十年という月日が経ってしまった。


 周囲の人はわたくしを気遣ってくれた。

 或いは、辛い記憶から遠ざけようとさえしてくれた。


 でもわたくしは、パパの近くに居たかった。


 パパと同じような職に就いて、同じような人生を送りたかった。


 そして、パパの残した何かに触れたかった。

 だから偽りの復興を推してまで、ここに来た。


 …でも。


「パパ…本当に、ここにいたの?」


 分からない。

 もう何も無い。

 パパに繋がる物なんて、ここでは何一つ見つからなかった。


 やっぱり研究所?

 

 あそこを起動すれば、パパのデータがある?


 でも、もうパパの書いた論文は全部読んだ。

 経歴も隈なく調べて、キョウシュウ以外にあるパパの痕跡は全て手に入れてきた。


 今更、あんな場所に…


「…やっぱり、あそこの天辺?」


 パパが最期を迎えた場所にこそ、きっと何かがあるはず。


 ううん、なければ可笑しい。


 だから例えわたくしだけでも…行かなくては。


「…ですが」


 研究者として、調査隊リーダーとしての体面もある。

 本心と建て前を両立するのは意外と難しい。


 さて、どうしたものでしょう――



「…アイネさん、わたしも一緒に見て良いですか?」

「……いえ、わたくしは中に戻るので」

「そうですか、残念です」



 とりあえず、今日は休みましょう。

 また明日…火山を調べる算段を立てよう。



 ……パパ。


 私は絶対に。


 見逃したりなんてしないから。




―――――――――




「…で、どう?」

「……残念ながら。やっぱり、秘密を探るのは難しいですね」

「ふーん…ま、いいや。ノリくんも心配してるし、私は帰るよ?」

「はい、わたしもそのうちに」


 ふわり、イヅナさんの姿が虚空に消える。


「……パパ、ですか」


 何となく、深い親しみを込めて口にしていたようなその言葉。


「それって…『ノリアキ様カミサマ』みたいな存在なのでしょうか?」


 こてり。

 首を傾げて上を見る。


 夜空に浮かぶ真円が、わたしの白を照っていた。



 『月が綺麗だね』



 そう、言われてみたい。


 ノリアキ様。


 そちらの月は、綺麗ですか――?


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