Ⅵ-165 昔話に抹茶を添えて

「どうぞ」


 コトリと小さな音を立て、目の前の机に湯呑みが置かれた。


「あぁ、ありがとな」


 覗き込むと見える綺麗な緑色の液体が、仄かに香ばしい匂いを漂わせる。


 俺はそれをゆっくりと飲み干して、差し出されたハンカチで口元をそっと拭った。


 …視線を感じる。


 オイナリサマが、じっと顔色を窺うようにこちらを見ていた。


「…どうでしたか?」

「美味しかったよ、また飲みたい味だ」


 包み隠さず褒めてあげれば、オイナリサマは頬を桜色に染める。


 そして湯呑みを片づけに行く彼女を、俺はなんとも穏やかな気持ちで眺めていた。


「ふぅ…」


 安堵の溜め息をつく。


 この程度のやり取りで一体何だと思うかもしれないが…実は劇的で、とても喜ばしい変化が起きている。

 

 なに、思った通り大したことじゃない。気兼ねなく褒めることが出来るようになっただけだ。


 誰をって?


 ハハハ…オイナリサマに決まっているだろう。


「一週間抹茶まみれ…そんな目に遭うことは無いんだな、俺…!」


 あぁ、感激で涙が零れそうだ。結構長かったんだぞ、これ。


 …いや、涙は拭おう。訳が分からず困惑している彼らに説明をしてやろう。


 大丈夫、少しの質問で説明は終わる。


 ええと…まず、褒められたら嬉しいだろ?

 褒められたくて、また作りたくなるだろ?

 一週間くらい同じのを作っちまうだろ?


 そう、そういうこと。

 違うって思っても無駄だ、オイナリサマはその類だった。


 まあ、過ぎた話だ。


 辛かったよ、一週間油揚げじゃない方の揚げ物が出まくった時は泣きそうになった。


 結局必死の説得を続けて今日になってようやく、安全にオイナリサマを褒める土壌を作り上げられたんだ。

   

 最初はビックリしたさ、まさか他人ならまだしも…オイナリサマを褒めることすらアウトとか考える訳が無いだろう?


 いや、他の人を褒められない生活もアレだが…この際ノーカウントだ。


 とにかく、言葉に気を遣う必要がまた一つ無くなった訳だから…まあ、生きやすくはなったと思う。


「それにしたって、根っこは変わらないんだけどな…」


 今更変える算段も思い付かないし、その前に俺の精神が捻じ曲げられることだろう。


「はぁ、嘆いても無駄なんだよな…」


 前から忍ばせていた想いを独白し、一頻り想起したら、案の定考え事は底を尽きる。


 すると、まるでそれを待っていたかのように、オイナリサマが戻ってきた。


「お待たせしました。寂しくありませんでしたか?」

「…オイナリサマと同じくらいかな」

「まぁ、それはそれは…うふふ…!」


 最近覚えた言い回しだが、結構効果は覿面だ。

 分かりやすく笑顔になった彼女は、俺の左隣の椅子に腰を掛ける。


「まぁ、それは良いじゃないか。昔話…だろ?」

「あぁ、そうでしたね!」


 早い内から本題を持ち出し、”寂しさ”という言葉からオイナリサマの関心を逸らす。


 これもまあ地雷を踏んだ話で…前に痛い目を見たからな。

 詳しくは話さないけど察してくれ、ただの予防策だ。



「何から話しましょう…ですが、いつ頃からが良いのでしょう…?」


 首を傾げてこちらを見る。

 どうやら俺に決めて欲しいみたいだ。


 俺は少し考えて、覚えている限り昔の話をして欲しいと頼んだ。


 オイナリサマはそれに頷き、ポツポツと思い出を語り始めた。


「私の中にある一番古い記憶は…そう、神社の前で立っていた記憶ですね」


 気が付けば、オイナリサマはそこにいたという。


 今は結界の中で彼女と日々を共にする、大きな稲荷神社の前に。


「そうか、じゃあ…目覚めた時からの付き合いなんだな」

「思えばそうですね…もしかして、妬いちゃいますか?」

「まさか、俺は別に狭量じゃないぞ」

「うふふ…それもそうですね」


 大体なんだよ、って。その域に達したらもはや恐怖しかないぞ…?


 視線で恐怖の意を伝えると、私だってそんなことはしませんよ、と言ってオイナリサマはクスクス笑った。

 

「あぁ…次だ次。それで目覚めて、最初は何したんだ?」

「それがですね、覚えてないんですよ…」

「なんだ、忘れちまったのか」


 神様だからてっきり何でも覚えてるとばかり思っていたが、改めて考えればそんな訳ない。


 勘違いしたのはそう…同じ白い狐のほら、イヅナのせいだ。


 アイツは記憶を操るイカサマみたいな力を持ってるから、印象が混ざったのかもしれないな。


「…神依さん、考え事ですか?」

「わっ…ああ、何でもない、続けてくれ」

「…そうですか」


 視線を上げたら驚いた。


 オイナリサマが昏い目をして俺の顔を覗き込んでいた。


 多分、頭の中の考えを半ば読まれてたんだな。相変わらず、思想の自由も無い生活だ。


「神依さん?」

「ほ、本当に大丈夫だっ!」

「……」


 勝てない、従順になるしかない。


 俺は頭を真っ白にして、彫刻のように良い姿勢で固まってオイナリサマのお話の続きを待つ気持ちを見せた。


 …”お話してください”のポーズだ。うん。


「…次によく覚えているのは、四神の元を訪れた時の記憶ですね」


 そう呟いた彼女はおもむろに立ち上がり、横の棚から大きめのスケッチブックを取り出した。

 机の上でパタパタとそれをはためかせれば、間に挟まっていた何かの絵が滑り落ちてくる。


 手に取るとそこには…青、白、赤、黒…四人のフレンズらしき人物の、中々精巧な絵が描かれていた。


 つまり、彼女たちが四神なのだろう。


 話によれば、この絵はオイナリサマが暇つぶしに描いたものらしい。


 暇つぶし程度でこんな綺麗な絵を描けるなんて凄いな。思わずそう呟くと、舞い上がったオイナリサマは恍惚に身を捩じらせた。


 流石に話が進まないから、俺は続きを促した。


 コホンと咳き込み、調子を整えて話を続けるオイナリサマを見ながら俺は、まだまだ軽率に褒められやしないな…と、再び認識を改めた。



「四神とはそれぞれ…セイリュウ、ビャッコ、スザク、ゲンブ。私が最初に出会ったのは確か…ゲンブだった筈です」


 出会いとは、ゲンブが神社を訪れたのが始まりらしい。


 他の三柱と違い、彼女だけは神社にて初対面を果たしたのだとオイナリサマは言う。

 

「で、そのゲンブとやらが来た理由って何なんだ?」

「なんて言ってたんでしたっけ…『初めて目にかかるの。わしはゲンブじゃ。おぬしのような…』」


 途中まで妙な口調で――多分ゲンブの真似だろう――当時の会話を再現しようとしたオイナリサマだったが、突然に言葉が止まる。


 パクパク。


 声の出ない口は、その無音で必死さを教えてくれている。

 とりあえず、やんわりと続きを促した。


「…ような?」

「……ごめんなさい、これも覚えてないみたいです」


 かなり昔のことだからと、申し訳なさそうな言い訳をされる。


 だがそうだろう。


 オイナリサマは神様だ、普通のフレンズではない。果たして何年生きてきたのか見当もつかない。


 ”なら尋ねようか”という閃きが一瞬頭を過って、小胆がそれを抑えた。


 齢二十年弱。

 

 そんな短い人生しか送っていない俺に、人外の時間は長すぎる。


 数百年…数千年?


 想像するだけで眩暈がする。


 そして俺さえも、これからオイナリサマと共に永い時間を過ごすのだと想像した日には――


「っ…!?」

「か、神依さん、大丈夫ですか…?」

「ああ、すぐに治るさ…」


 正直堪ったものではない。


 だが心配はしていない、オイナリサマにはある種の信頼すら寄せている。

 どうせ受け入れさせられるんだ、数十年のうちにはな。


「気にしないで続けてくれ。思い出なら、他にもあるだろ…?」

「ええ、神依さんがそう言うのでしたら…」


 オイナリサマは落ち着かない様子で、繋がらない言葉を呟いていく。


 その音律もやがて聞き取れる形を持ち、聞き取れた文章は四神との別れの記憶を物語っていた。


「キョウシュウの火山にフィルターを作った時……四神のみなさんが体を張って、キョウシュウを救おうとした時の思い出…」


 それ以上の言葉を待つことなく、それがオイナリサマと四神の別れの話だと察しが付いた。


 だがそれにしては妙だ、オイナリサマの言葉に抑揚が無い。

 まるで普段の会話のように…今夜の献立を伝える時のように、何も無い。


 表情にも、それらしい起伏は認められない。



「あれから私はきっと、一人になっちゃったんですね…」



 唯一何かを感じられるのは彼女の言葉。静かな語調に隠された、どうしようもない哀愁の音。


 だけど絶対に、四神との別れを悲しむ感情などないことは確かで、俺はなんとなく笑ってしまった。


「…神依さん?」

「あぁ、悪い。オイナリサマにも、過去を悲しむ想いがあるなんてさ」


 皮肉を込めてそう言うと、オイナリサマも笑ってくれた。


 クスリ、目を細め、口を手で覆い、尻尾を揺らし、的外れな俺の言葉をあざ笑うように。


「そうですか? 悲しくなんてありませんよ。神依さんが居ますから」

「だろうな、分かってたよ」


 照れて笑って背伸びして、オイナリサマはまた語る。


 四神が消えた後の話。

 キョウシュウを去り、ホートクの神社に戻ってからの話。

 

 神社に結界を張って、中に閉じこもって一人暮らしを始めた話。

 

 面白いことに…話が進むほど、時間が今に近づくほど、話の内容に狂気が見え隠れしてくる。


 流暢で美しいオイナリサマの語り口だからこそ、俺はまるで彼女が過ごした狂気に至るまでの時間を再体験しているような気分になり、頭に集まった血液が血管を圧迫して痛めつける。


「どうしてか、出掛けて誰かと会おうとは思わなかったんです。…多分、無駄だと分かってたんでしょう」

「…どうせ、いなくなるからか?」


 神様の暮らす時間と、それ以外の生き物の時間は明らかに違いすぎる。

 

 それはフレンズになっても同様だったようで…動物をヒトの姿に変える奇跡でも、それだけは変えられなかったようで。


 同じ時間を共有できる相手である四神を失って…いや、普通に失ったのなら踏ん切りが付いたのかもしれない。


 四人が封印の礎となることで、他のフレンズのような再会の形すら奪われたのだ。


 強大な力を持つからこその別れが、彼女たちを永遠に隔てた。


「でもですよ、神依さん」


「…ん?」

「私は、これで良かったと思ってます」


 ホートクに閉じ籠って、読み切れない量の本を貪って、埋まることのない退屈に水を注ぎ続けた日々。


 オイナリサマはその空っぽな時間を、有意義だと言い切った。


「分かるでしょう? どうして私が、そう言えるのか」

「…ああ」


 今更白を切れるかよ。


 その一点の為に、為だけにアンタが行った凶行を、”俺には関係ない”なんて切り捨てられる訳ないだろう。

 

 だから、じっと耐えるのみ。


「何度でも言います、神依さん。あなたに会えて良かった」

「…ああ」

 

 何度も聞いた、何度も聞くだろう。耳を塞いだりなんてしない。


「神依さん、私はあなたに会って…全部を手に入れたんです」

「そう…か」


 じゃあ、皮肉だな。


 俺はオイナリサマに出会って、全部を奪われた。


 それじゃ飽き足らず…心まで奪う気か、神様?


 約束のように耳に囁く、嫌になるほど甘い言葉で。

 

「ずっと一緒ですよ、神依さん」

「ああ、改めて言われるまでもないさ。だって――」



 ――アンタは逃がさないだろ?



 ここでふと、オイナリサマが肯いたように見えた。


 いよいよ俺の考えは形を持つことなく消え去った筈であるのに、間際で掬い上げられたように錯覚した。


 或いはただ微笑んだだけかもしれないのに、俺の心は白い毛並みに捕まえられて不安に揉まれてゆく。


「そうだ、次はあのお話にしましょう」


 この動揺など知る由もなく、昔話は続きゆく――



 

―――――――――




 しばらく話して小一時間、とうとう話題が尽きたと見える。


 俺は遊ばせていたシャーペンを置いて、オイナリサマに問いかけた。


「…もう話すこともないだろ、昔話はここまでにして良いか?」

「はい。じゃあ次は、現実的なお話ですね」


 ハリボテ神社を建設するための大量の資材を運ぶ方法。

 

 オイナリサマの考える案とは一体全体何だろう?

 自信満々だから一応期待はしているが、まともな方法であることを願っておこう。


「長くなりそうですし、もう一杯お茶を淹れてきますね」

「分かった、待ってるな」


 抹茶を口に、お菓子を茶請けに、真夜中の雑談は終わらない。

 

 今夜の月は、長かった。

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