Ⅲ-131 帰還、再び海を越えて

 俺たちがキョウシュウへと帰る日の朝。日も十分な角度で差し込む朝食の刻。


「あ、カレーだ!」

「私の最新作です、どうぞ召し上がってくださいね!」


 その日ばかりは、普段は熟睡している祝明も食事の匂いに釣られて早くに起き上がってきた。


「美味しそうだね、神依君」

「…そうだな」

「えっと…神依君?」


 これが、この神社で食べる最後の食事なのか。

 そう思うと、感傷でスプーンを握る手に力が入らなくなる。


「何でもない…いただきます」


 カレーを口いっぱいに頬張ると、スパイスの良い香りが鼻を伝う。追って、舌が甘辛いルーの風味を感じる。


 わずかに残る果肉の食感で、林檎が入れられていると分かる。


「美味しい…!」

「そうでしょう? 今日の為に用意した、特別な食材を沢山使っていますから」

「もしかして、あの球根も…?」

「うふふ…さあ? コカムイさんはどう思いますか?」

「あ、あはは、僕はどっちでもいいかな…」


 苦笑いと共にカレーを食べ続ける祝明。

 

 ゆらゆらと体のあちこちを揺らしながら口を動かすオイナリサマ。


 全て今日限りの光景、俺たちがここに置いていく景色。


「…神依君、食べるの早いね」

「あら、おかわりしますか?」

「頂くよ…だけど、一つお願いしていいか?」

「うふふ…何でしょう?」


 だからせめて、最後に一つ確かめてみたくなった。


「このカレー、うどんと一緒に食べてみたいな」


 オイナリサマは、その白い服でどんな風に”カレーうどん”を食べるのか…と。



―――――――――



 十数分の後、うどんを茹で終えたオイナリサマがボウルとざるに白い太麺を入れてやって来た。


 器に汁を注ぎ、麺を入れ、上からカレーを掛ける。


 一分にも満たない簡単な作業で、この極上の料理は完成する。ああ、外にいた時も何度もお世話になったっけ。


「出来ました。”カレーうどん”…で、良いんでしたっけ?」

「ああ、ありがとう。良かったら、オイナリサマも食べてみないか?」

「ではそうしましょう。私も、このような不思議な食べ方は初めてです!」


 更なる料理の可能性に目を大いに輝かせるオイナリサマ。


 しかし…これは罠だ。


 ”カレーうどん”という料理には、その名前からはおおよそ想像も付かない程凶悪な罠が仕掛けられている。


「コレは…ふふ、早く食べてみたいです…!」


 そうだ。食べるがいいさ、神様。


 下手な啜り方をすれば、飛び散ったカレーの汁がその美しい毛皮を汚すことになるだろう。ふふふふふ。


「初めて見るよ、神依君のこんな悪い顔…」


 祝明が何か言っているが、オイナリサマから目を離している暇はない。


 それよりも、早く食べるのだオイナリサマ。さあ、早く!


「では、いただきます」


 麺の隙間に箸を入れ、引き上げて勢いよく啜る。よし!


 吸い込まれる麺からは当然のようにカレーの汁が四方八方へと飛び散っていく。その調子だ。


 そして…!


「おお…!」


 ピト…と擬音の付いた動きで、オイナリサマの白い服に染みが生まれる。



 不思議と、俺は感動的な気分になった。何とか堪えたが、涙も出そうになった。

 


 のような例外はあれど、俺の中でオイナリサマとは完璧な存在であった。


 美しい外見に非の打ち所がない立ち振る舞い。神様と呼ぶのに一切の抵抗を生まない魅力。


 ここまでとなると、例え見つからないと分かりきっていても、何かしらの瑕疵を探そうとしてしまうのがヒトの性。


 だが、見つからないままでは俺も安心して未来…ではなくキョウシュウに帰ることが出来ない。


 だから、ささやかなイタズラ…もとい妥協策として、オイナリサマにカレーうどんの汁を浴びてもらうことにした。

 

 今朝のカレーを見て立案した、行き当たりばったり極まりない作戦。


「でも…良いな…!」


 作戦は成功した。


 完璧と称されるべき真っ白な布に、国民的料理の色を付けることが出来た。


 感無量なのである。



「あら…汚してしまいましたね」


 とうとう気づいたか。だがもう遅い。


 そんな風に指で拭ったって、白地に付着したカレーの色は…


「よし、取れましたね」

「…え?」


 嘘だろ?


 …マジで消えてる。


 俺がかつてカレーでYシャツを汚した時は何時間もかけて洗濯して…嫌だ、もう思い出したくない。


 それを、オイナリサマは、この一瞬で…?


「ちょ、ちょっと待ってくれ。今の、一体どうやったんだ?」

「…ああ、コレのことですか? …どうもこうも、神様ですから!」

「さ、流石だな…!?」


 もう、まともな言葉が出てこない。



 神様は…カレーうどんよりも強かった。




―――――――――




「…神依君、そろそろ元気になったら?」

「別に落ち込んでるわけじゃねえぞ…?」


 どっちかと言うと、落ち込むことになるのはこれから先だ。


 何故なら今から俺たちは、オイナリサマに長い別れを告げなくてはならないのだから。


「また、寂しくなるんだな…」

「あはは、それってオイナリサマの台詞じゃない?」

「かもしれねぇが、俺もだ」


 俺が彼女に対してどれほど大きな親しみを覚えているかは、今更語る必要も無い。


 なら俺が抱えている寂寥だって、『さもありなん』と誰もが言うさ。


「そう…? 僕は早く帰りたいけど」

「お前はそうだろ、アイツらがいるからな」


 羨ましいね、自分の帰りを熱烈に待ってくれる人がいるなんて。


 あの病み病みパニックの中に投げ込まれるのは御免だが、俺だって料理じゃなくて俺自身の帰りを待ってほしい。


「あぁ…もう一泊増えねぇかなぁ…」

「え、そんなに名残惜しいの…!?」

「まあな。かと言って、駄々こねてここに残ったりはしないさ」


 使う度に妖力が必要と言われちゃ、そう何度も世話になるのは忍びない。


 オイナリサマなら頼めばきっと聞いてはくれるが、それでもだ。


「はぁ…」


 仰いでみれば、もう見慣れた虹色の空が俺たちを見下ろす。


 この空だってとうとう今日で見納めだ。存分に眺めてやるとするか。


「なぁ祝明、アイツらが待ってくれてるのって…どんな気分だ?」

「まぁ、一言で言うなら…嬉しいな、とっても」


 隣に見えた微笑みは雲のように柔らかく、明るかった。


「へぇ、そんな感じか…」



 視線を空へと戻す。

 

 祝明は立ち上がって、向こうの黄色い畑へと歩いていく。


 俺はただ無為に時間を費やす。贅沢に時を使い、長き夢想に耽っている。


「美味そうな雲だなぁ…」


 呟いた言葉は何処までも無意味。


 目に焼き付けた景色も数分後には忘れ去っている。

 

 その代わりに、こうしていれば他の全てを忘れられる。


「神依君、空を見て!」

「ずっと見てるんだが…?」

「ほら、虹色のキラキラが飛んでるんだよ!」

「キラキラ…?」


 何だ、”キラキラ”って。


 確かに空は満遍なく輝いて見えるが、今日に限って何か変わったことがあるようでもない。


「俺の所からは何も見えねぇぞ…?」

「神依君が神社の下そんな場所にいるから屋根で見えないだけだよ…!」


 …ああ、そうか。祝明からは見えてるんだな。


 居る場所が変われば見え方も変わる…考えてみれば当然か。


「いいよ、俺はここでゆっくりしてるさ」


 アイツと俺とじゃ、見えてる世界が違うんだな。


「寂しいですか…?」

「別にそんなんじゃ…わっ!?」


 気が付くと、隣にオイナリサマが腰掛けていた。


「お、驚いた…!」

「うふふ、ごめんなさいね?」


 オイナリサマは美しい髪を揺らめかせ、尻尾の先に付いた輪っかで俺の手をコツコツ叩く。


 じっと俺の様子を伺う彼女の目に、じっとりとした雰囲気を感じた。


「その、魔法陣の準備は出来たのか?」

「出来た…というか出来てました。ずっと前から、妖力さえ注げばすぐに起動できる状態でしたよ」

「手際が良いんだな」


 もふもふから手を引っ込めて、俺はなんとなく立ち上がる。


 さっき祝明が見た”キラキラ”、まだ残ってるかな。そんな思考で足を出した俺は、後ろから手を引かれた。


「神依さん、今日で…帰ってしまうのですね」

「ん、あぁ…」


 肯定すると、俺の手を握る力が強くなる。


 腕を引かれ、何か言えばいいのかも分からず呆然とする俺に、彼女は囁く。


「神依さん…ここに、住んでみませんか?」

「…え」


 思ってもみない申し出に、驚いて俺は彼女を振り返る。


 そうして見つめた彼女の目には、間違いなく本気の色が浮かんでいた。


「住むって、この神社に?」

「この場所のこと…気に入ってくれてるんですよね」

「まあ、そうだが…」


 一昨日の夜にも言った、俺には帰る必要がある。ただの…義務としてでも。


「帰らなくても良いでしょう? どうせ、仕方なかったって諦めてくれますよ」

「い、いや、そんなはず…」


 無い、とは即座に言い切れなかった。


 やはり俺にとって、博士たちあの二人は唯の同居人のようで、向こうにとってもそれは同じとしか思えない。


「ほら、神依さんもそう思ってるんでしょう? なら、心配する必要も在りませんよ」


 …そうなのか?


 ここは居心地がいい。優しく気に掛けてくれるオイナリサマもいる。趣味の料理の話だってできる。


 帰る必要なんて、やっぱり無いのか…?


「…ちょっとだけ、考えさせてくれ」

「うふふ…あまり長くは待てませんよ?」

「分かってる、答えはすぐに出すさ」


 ここまで言って、ふと感じた。やっぱり俺は、逃げるのが得意なんだな…と。




―――――――――




「…何してるんだ?」

「え、見ての通り寝てるんだけど…」


 しばらく考え込んでも答えの出せなかった俺は、祝明に助けを求めることにした。


 それにしても…祝明が納得できる答えを出してくれるかと聞かれれば、首を傾げるしかないが。


 相談したら普通に「住んでもいいじゃん」と言われてしまいそうなのが怖いところ。


「でも、何か用? もしかしてオイナリサマが呼んでたりする?」

「いや、俺も唯の暇つぶしだ」

「あ、そう…」


 興味を失った様子の祝明は、力を抜いてバタンと横になる。


「祝明は、帰ったら何するんだ?」

「んー? さあ、元に戻るだけじゃないかなぁ」

「…かもな」


 旅行は非日常への冒険。それが終われば、人々はまた同じ生活を繰り返す日々に戻ってゆく。


 俺にとってのその『生活』と、ここに住むことで送るであろう『未来』。


 それを天秤に掛ければ、俺の取るべき選択も見えてくるのかもしれない。



「俺、今まで何してきたんだろうな」 


 キョウシュウでの思い出か。何か…あったか?


 図書館にだってそんなのは無いし、他の場所にだって思い出せるような記憶はない。


 …いや。


「そういえば、コレがあったか」


 懐から取り出したのは小さなジャパリコイン。俺が、俺としてジャパリパークで受け取ったほぼ唯一のモノ。


 他に貰ったものなんて、セルリアンの体くらいしか思いつかないな。


「でもコレも、別に…」


 この”思い出”の為にオイナリサマの誘いを断れるかと聞かれて、首を縦に振れる自信はない。


 ああ…つくづく、俺は優柔不断なようだ。


「神依君、悩み事ー?」

「ああ、何と言うか…俺、本当に帰った方が良いのかな、って思って」

「じゃあ、帰ったらいいじゃん」

「え…」


 予想外な答えに驚く。もしかして、祝明も意外と俺に気を掛けてくれているのかもしれない。


「だってほら、またここに来たいならイヅナに頼めばいいじゃん。僕がお願いしてあげるよ」

「え…あ…そうか」


 よく考えてみればそうだ。何度も頼むのが申し訳ないってだけで、やろうと思えば不可能なことではないのか。


「ありがとう、じゃあ頼めるか?」

「勿論だよ。お悩みも解決したみたいでよかった!」


 何だかんだ言って、頼りになるな。


 自分とよく似た、しかし俺よりもずっと穏やかな顔を眺め、俺も顔を綻ばせた。




―――――――――




「そろそろ…時間みたいだね」

「ああ、そうらしいな」


 俺たちは、揃って魔法陣のある方向を向いていた。


 目線の先では、虹色の粒子が狼煙のように立ち上がっている。


 恐らくオイナリサマが上げたのだろう。もしくは、魔法陣を起動したせいかもしれない。


「じゃあ行こっか」


 イヅナたちのことを考えているのだろう。軽やかな足取りの祝明に続いて、俺も虹の根元へと歩いていった。



「うふふ、やっぱり来てくれましたね」

「そりゃ、よく目立つ煙だったからな」


 虹の始まる場所――つまりは魔法陣――の傍で、オイナリサマは待ってくれていた。


 地面から放たれる光は、かつて雪山の宿で見たものと酷似している。間違いなく、魔法陣は起動している。


「これで帰れるんだよね、オイナリサマ!」

「ええ、今すぐに使えますよ」


 それを聞いた祝明は大きく跳び上がった。


 そして魔法陣の一歩手前で、白線の内側ギリギリで電車を待つ通学生のようにわたわたと足踏みをする。


 まあ、狐耳と尻尾を持った学生なんて見たこともないが…


「ほら神依君、早く帰ろ!」

「あ、あぁ。でも…」

「…神依さん」


 オイナリサマの目は暗い。俺は、祝明に言った。


「先に行っててくれ、少しくらいなら魔法陣も保ってられるだろ。…だよな?」

「ええ、大丈夫ですよ」

「分かった、じゃあ行くね!」


 尻尾をプロペラのように振り回して、祝明は光の中に消える。しばらくすると光も消えた。これで、もう一度起動しなくてはならなくなった。


「…悪いな、もう一度起動してもらうことになりそうだ」


 俺の言葉で全てを察したのだろう。俯いて彼女は言う。


「やはり、行ってしまうのですね…」

「でも心配しないでくれ。祝明に頼んで、もう一度こっちに来るつもりだからさ」

「…そうですか」


 そしてオイナリサマは、魔法陣へと歩みを進める。


 手を翳し、力を込めたように見えると、魔法陣は…





 …欠けた。





「…え?」


 次の瞬間、俺の体は暖かく柔らかい感触に包まれる。


「オイナリ、サマ…?」


 体重のままに倒されて、視界を遮られて、唇を塞がれる。


 何処までも一方的なアプローチに、一切の反応が出来なかった。


「っ…ど、どうして…?」

「どうしてって、神依さんは意地悪ですね。…あなたのことが、になってしまったからに決まっているでしょう?」


 好…き…?


 耳を塞ぎたくなる言葉にも、もう腕は動かせなかった。


「神依さん、本当に戻ってくるつもりだったんですか? もしかして、そのままいなくなっちゃう気じゃなかったんですか?」

「違う、そんなつもりは…!」

「…いえ、それだってもう、どうでもいいことですね」

「どうでも、いいって…」


 とっくに気づいていた。オイナリサマの行動の意図も、もたらされた結果も。


 聞きたくなかった、真実を、彼女は、その口で…!




「さあ、これでずっと二人きりですよ…神依さん♡」




 ――目の前が、真っ白になった。

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