Ⅱ-109 銀色の密会

 夜。

 

 丑三つ時を迎えれば、ただの狐も白い妖狐も等しく寝床に就く。

 僕は布団を抜けて、こっそりと外へ出てきた。


 今日はイヅナともキタキツネとも別々に寝ていたから、恐らく気づくことはないだろう。


 対策は大丈夫。

 むしろ眠気の方が危険かもしれない。


 向かう先は温泉、開けた湯気舞う空間に足を踏み入れる。

 丁度、示し合わせたようにギンギツネが現れた。 

 

「来たよ、約束通り」

「あら…ふふ、丁度いいタイミングね」

「…それは?」

「あの洞穴まで持って行った毛布よ、覚えてるでしょ?」

「…あはは、忘れられる訳もないよ」


 からは既にかなり経っている。

 だからかな、その毛布は毛の先まで凍り付いていて見るだけで寒々しい。


「今日まで粘って正解ね、焦って取りに行ってバレちゃったらしょうがないもの」


 ギンギツネは押入れに毛布を仕舞い、代わりに絵の具と筆を持ってやってきた。


「さあ、始めましょうか?」

「それは良いけど…何をするの?」

「見ての通りお絵描きよ、それとも苦手かしら」

「あはは、あんまり得意じゃないかな」

「緊張しなくていいわよ、ただの描き直しだから」

「それって…看板の?」


 ギンギツネはコクリと頷いて僕に筆を手渡す。

 そして、温泉の端っこに立て掛けた看板とまっさらな看板を並べて、バケツに温泉のお湯を汲んだ。


「この絵、私は気に入ってるけど不評だったじゃない?」

「まあ…そうだったね」


 原因の大体十割くらいはそこに煌めく赤い矢印なんだけど。


「だからやり直すわ。だけど私一人じゃまた同じ結果になりそうじゃない、それでコカムイさんの意見も聞きたいと思ったの」


 ギンギツネは腕を組んで頷いている。

 まあ、真っ当な考え方なのかな。


「でも、なんで僕に?」

「真摯に向き合ってくれそうだから…かしら」

「そんな、買い被りだよ」


 僕にそんな誠実さがある訳ない。

 二人に感付かれるリスクを背負ってまでモノを頼むような存在じゃない。


 誠実なんて、真摯にだなんて…だ。

 

「あなたが自分をどう思っているかは分からないけどね、私はあなたならやってくれると思った、だからお願いしたの。」


「………」


「大方、あの二人のせいでしょうけど、あなたは十分良く向き合ってると私は思うわよ?」

「あ、ありがとう…」

「なんか湿っぽくなったわね…うふふ、温泉だからかしら」


 そんな冗談を言って、ギンギツネは看板に取り掛かり始めた。


 …全部、お見通しみたいだね。


 どうしてだろう。

 悩むのが変なことのように思えてきた。


「ねぇ、僕は何処を手伝えばいいかな?」

「ああ、それなら――」



 ギンギツネの態度はイヅナともキタキツネとも違う。


 二人は、僕の存在そのものを受け入れてくれた。

 これは、僕がしてきた行動への肯定?

 

 存在そのものだけじゃなくて、為してきたことも無駄じゃないって。

 

 今までとは違う、別の暖かさ。

 どう形容すればいいかな、僕はそのための言葉が分からない。


 ただ、何とかして例えるのなら…


 彼女の言葉を、僕はそんな風に感じた。




―――――――――




「ふぅ…景色は出来たね」


 描き始めた時から、月は殆ど傾いていない。


 もう少し掛かるかとも思ったけど、案外早くに背景は完成した。


 まだ矢印と文字のスペースを塗らずに空けてあるものの、もう看板としての貫禄を十分に放っている。


「そうしたら後は文字と矢印だけど…ええと…」

「…僕がやるの?」

「も、もう仕上げまでお願いしちゃっていい!?」


 ギンギツネは手を組んでチラチラとこちらを上目遣いで覗く。

 

 つまり、文字も矢印も苦手だから僕に丸投げしてしまいたいのだろう。

 

 まあ…いいけど。


「仕上げくらいは少し手伝ってね…?」

「ええ、勿論よ!」

「…それと、静かにね。二人が起きたら大変だよ」

「え、ええ…勿論よ…」


 筆を持って、黒い絵の具を付けて文字の方から取り掛かる。

 

 筆で文字を書くのは初めてだけど、習字のようにやれば大丈夫なはず。


 …あれ、習字もやったことないや。もう感覚で書こう。


 結果として、元の看板よりかはいいけどそんなに綺麗ではない。

 言うなれば微妙な案内メッセージが完成した。


 普通に読む分には問題ないだろうね。

 

 の時点で読めるフレンズの数が少ないのは大問題だけれど。


「矢印もそのままお願いね…!」


 でも、だけど、まだ矢印これが残っている。


 文字が読めなくても、記号ならば何とか出来るに違いない。


 しかしはてさて、今度の矢印は何色で描こうかな。

 

 まず赤は論外。

 白は雪景色で見えにくい。

 黒は文字と色が被って彩に欠ける。

 黄色は色自体が見えにくくてよろしくない。


 紫…オレンジ…緑…ううむ、どうだろう。

 青もまあ悪くはないかな…?


 そうだ、折角なら聞いてみよう。


 大失敗したギンギツネだからこそ、それを踏まえた選択が期待できる。



「…ギンギツネは何色が良いと思うかな、矢印」

「赤はダメだから…朱色がいいわね」

「あぁ…僕が決めるね?」

「銀色も好きよ、絵の具には無い色だけど」

「大丈夫、僕が決めるから」


 ギンギツネに成長は無かった。

 少なくとも、全てを犠牲にする壊滅的な美的センスは変わらなかった。


 でも、それが正解かもしれない。


 ギンギツネが間違っている訳じゃない。

 ただ、ほんのちょっぴりだけ僕らの間にズレがあっただけ。



 矢印は『目に優しい』という謎の理由で緑色を選んだ。


 結果、形以外特に尖っていない矢印が出来た。


 これでよかった。

 後悔はしていない。

 二の舞だけは演じさせなかった。


 それで、十分じゃないかな…?




―――――――――




 それから数十分。


 協力して仕上げに取り掛かり、最初よりはまともな看板が出来上がった。

 

 結構楽しかったし、ギンギツネと少し仲良くなれた気もする。


 でも、一つだけ。


「ねぇギンギツネ…これさ、夜にやる必要はあったの?」


 仕上げの途中から、ずっとそれが気になっていた。

 

 些細なことだと忘れるのは簡単だった。

 

 ギンギツネの様子が普段と大して違わなければ、ただの日常の延長線上だったなら、簡単に片づけられた。


 でも、そうじゃなかった。

 

 表情からは浮つきが見て取れるし、手足や尻尾の一挙一動も落ち着きがない。

 

 こればっかりは感覚だけど、とにかく不自然で仕方なかった。


 僕のそんな疑問を、ギンギツネは歯牙にもかけずに一蹴する。


「いいじゃない、別に…ね?」

「そ、そう言われても…」

「私は、コカムイさんと一緒にお絵描きが出来て楽しかったわよ」

「僕も楽しかったよ、だけど……っ?」


 ギンギツネは僕の唇に指を添える。

 

 その指は彼女の唇の上を滑り、ペロリと舐めて彼女は言った。


「コカムイさん…私、あなたに訊きたいことがあるの」

「…それが、こんな時間に呼んだ理由?」

「さぁ、どうかしら」


 彼女は誤魔化すように肩を竦める。

 彼女の目は肯くように見開かれる。


「で、訊きたいことって…?」

「あの二人…特にキタキツネかしらね。コカムイさんは、あの子が好き?」


「…今の?」


 ギンギツネはそこを強調して僕に尋ねた。

 

「昔と比べてあの子は変わっちゃったわ。見ての通りにね」

「…そう、だよね」


 僕と会うまでは、キタキツネも全く違う日常を歩んでいたんだ。

 きっと、とても平穏に。


「でもどうしてかしら、私には変わったように思えないの」

「ど、どっち?」

「両方。外面は変わったけど、中身はそのまま」

「昔からキタキツネはあんな感じだったの?」


「そんな訳ないわよ。きっと、がいなかったんじゃないかしら?」

が…僕?」

「そうよ。私じゃ、キタキツネのになれなかった」

「それは違う…と、思う」

「うふふ、気休めが上手なのね?」


 ギンギツネは自嘲するように笑って、昔話を語り始めた。


 ギンギツネとキタキツネが、初めて出逢った時のこと。

 吹雪の中で、二人は巡り合った。




―――――――――


―――――――――




『…ねぇ、待って?』

『えっ? ……あれ、あなたは?』


 誰もいないはずの雪の中から、自分を呼び止める少女の声が聞こえた。

 

 私がその方へと歩いていくと、あの子が雪の中から姿を見せた。


『ボクは…キタキツネ…? そんな、気がする』

『キタキツネ…ね』


 金色の毛皮は雪の中で際立って輝く。


 不用意に触れたら崩れてしまいそうな姿に、その美しさに私は目を奪われた。


『…そうね、一緒に来る?』

『…うん』


 彼女の前髪に掛かった結晶を払って手を引き歩く。

 

 キタキツネは、私の手を両手で掴んで強く引いた。


 痛かった。

 だけど、何も言わなかった、振り解けるわけもなかった。


 この腕の痛みよりずっと激しい痛みを、キタキツネは胸の中に抱えている。


 傍にいる人が離れて行ってしまうことを何より恐れている。

 腕を引くキタキツネの仕草から、私はそう感じたから。



『キタキツネは何処から来たの?』

『わかんない…気が付いたら、そこで寝てた』

『…今度の噴火で生まれたのかしら』


 名前を尋ねた時も自信なさげな答えだった。


 多分…そう。

 私は頭の中で出した結論に納得するのと一緒に恐怖した。

 

 この子はフレンズになって間もないのに、不相応に大きな不安を抱えてしまっている。


 動物だった頃、何か恐ろしい出来事に遭ったのかな。

 それとも、フレンズになってから?


『大丈夫よ、お家に着いたら何か食べましょう?』

『食べもの…うん、欲しい』


 どっちでもいい、これからキタキツネには私がいる。


『…うふふ』




―――――――――


―――――――――




「きっと嬉しかったのね。私を頼ってくれる子と会えたことに」

「……」

「もしかして悪く思ってる? あなたが私からキタキツネを引き離したんじゃないかって」

「そう…かもしれない」


 キタキツネはギンギツネに対する興味を殆ど…いや、全てと言っても良いほどに失っている。


 つい最近、それを間違い様がないほどハッキリと目の当たりにした。



「……!」



 ギンギツネは遠くの空を見上げ、うわ言のように呟く。



 透き通った綺麗な声が、僕の耳には痛くて堪らない。 


「…なんて、昔の私なら思ってたんでしょうね」

「え…?」


 ギンギツネはこちらを向いて微笑む。

 と言いたげな顔で、僕は彼女に化かされた。


「何よ、私がそんなに未練がましい狐に見える?」

「もう、気にしてないの?」

「ええ、あの子もお陰ですごく幸せそうだもの」

「…そっか」


 ギンギツネも、どこか冷めているようで。


 でも、まだキタキツネに対する情が残っているようにも思える。


 …前向きに捉えよう。嘆いたってしょうがない。



「今日はありがとう。看板作りも手伝ってくれて、お話も聞いてくれて」

「大したことじゃないよ…でも、どういたしまして」


 朗らかに笑って、柔らかい欠伸が湯気の中に溶けだした。


「…もう寝ましょうか、明日は早いわ」

「博士たちが来るんだよね?」

「そう、準備はこれで万端よ」


 看板を二枚抱え、ギンギツネは向こうの景色を眺め始めた。


「先に行ってていいわよ、私は少し涼んでるから」

「そっか…おやすみ、ギンギツネ」


 ワクワク、と呼ぶのだろうか。

 遠足の前夜みたいに浮足立って、僕は中々寝付けなかった。


 …でも、どうして?

  

 高揚感だけじゃなくて、大きな不安も僕を寝かせない。

 

 何も…起きないよね。


 …起きないで?


 ああ、早く寝たい。

 明日は、起きたくない。




―――――――――




「…絶対に、思ったりしないわ」


 あの人に描いてもらった看板を、雪の中に念入りに隠す。

 

 いつかあの子がイヅナちゃんにやったみたいに、絶対に見つからないように。


「あなたの気持ち、今なら本当によく解るから」


 でも、それじゃあ見つかっちゃうかしら? …いいえ、私は見つけて欲しいの。


 密会はこれ限りで終わり。

 これからは隠れることなく、堂々と逢いましょう?


 そのためなら、私は――


「だから、あなたも解ってね?」


 どんな策を弄してでも、その未来を手に入れるから。

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