Ⅰ-102 稲荷寿司をお一つ ~サンドスターを添えて~

 残月の光が色淡く世界に降りかかり、他の誰もが寝静まっているであろう早朝。

 小鳥の囀りも風の音すらもなく、無意識のうちに足音は殺される。

 

 眠たげに瞼を擦る彼を引っ張り、おおよそあり得ないと思っていた願い事を口にした。


「…お願い神依君、料理を教えて!」

「……へ?」


 眠気と、驚き。

 混濁した意識に入り混じった呆け声が、外へと逃げて山へ響いた。


 彼は髪の毛を掻きむしり、あくび混じりに喋り始める。


「ん、ああ…料理それなら別に何でもないだろ、出来るんだから」

「あ、あはは…それが…出来なくなっちゃってて…」

「あぁ~…、さては、腕が鈍ったな?」


 目をパッチリ開き、彼は得意げに厨房へと歩き出す。

 ともあれ、教えてくれるようでよかった。


「その、お手柔らかにね…?」

「分かった…保証はしないけどな」



 ――彼の名前は天都神依。

 

 色々あってセルリアンになってしまったけど、見た目は僕とそっくりだ。

 もちろん、髪の色とか耳とか尻尾とかは違う。


 それに、同じはずの顔つきも表情のせいか印象が違う…と前にキタキツネが言っていた。


 さておき、僕が宿っているフレンズの体は本来神依君の物。

 僕は、イヅナの手で彼の体に宿された別の人格。

 

 少し前までは二重人格のように共存していたんだけど、神依君がセルリアンとして生き返るときに分離してしまった。


 その経緯については、詳しく説明してあるものが別にあるからここでは省こう。


 神依君は元々外で暮らしていたヒトで、この島で初めて目覚めた僕と違って外の知識がある。

 

 料理も得意で、体を通じて知識やスキルも受け継いでいた…はずだったんだけど。



『あれ…あれ?』

『ノリくん、どうしたの?』

『包丁が、使えない…』


 特殊な技術も必要ない、ただ包丁を下ろして切るだけの動作。

 いつの間にやら、そんな初歩的なものさえ全く覚束ない体になっていた。


『少し前まで簡単に出来てたのに、なんで…?』

『じゃあ私がやるよ、ノリくんは座って待ってて?』

『うん…お願い…』


 そんなに長い間手放していたわけでもないのに、一体なぜ。

 考えても分かる筈はなく、結局その日はイヅナのお世話になった。


 …でも、なんだか悔しい。


 初めてすることじゃなくて、少し前まで当たり前に出来ていたことだったから、無性に腹が立つ。また出来るようにならなきゃ気が済まない。


 多分、この気持ちを分かってくれる人も少なくないはずだ。



「まずは手の形から、怪我をしないことが一番だからな」

「確か、こんな風に丸めるんだよね」


 よく見えるように指先を丸める。

 神依君の顔を覆うように伸ばすと素っ気なく払われてしまった。


「…ま、それくらいは覚えてるよな」


 眠いせいかな、神依君の対応がいささか冷たいような気がする。

 

 でも、僕だってつい最近寝起きで連れ出されたことがあるし、もうちょっと頑張ってほしい。


 …って言えたらよかったんだけど、流石に酷なことをしちゃったかな。


「そんで、何処からできない?」

「切るところから…」

「初歩の初歩か…分かった、じっくりやろうぜ」


 ニンジンがまな板の上に置かれる。

 置いた神依君は、生暖かい目でこちらを見ている。


「……か、神依君?」

「ん? ほら、まずは好きに切ってみろ、どれくらいひどいか確かめてやる」


 …なるほど。


 コン、コン……コン。


 まな板と包丁が触れる音が不規則に響き渡る。

 怪我無く切れてはいるものの、形も厚さもまばらで料理に使うには少しトリッキーすぎるかもしれない。


 そして怪我がないことに安堵している時点で、僕の腕がどれほど凋落してしまったのかも察してしまえる。

 

 はぁ、こんなはずじゃないのに。


「おぉ…ひどいな」

「改まって言われると、ショックだな…」

「でもまあ、いいんじゃないか? そもそもがお前の腕前でもなかった訳だし、これが本当の始まりってことでさ」

「あはは…頑張ってそう思うことにするよ」


 結局その日は、ニンジンの切り方だけを練習して終わり。

 出来ればレタスもやりたかったけど、時間が足りなくて諦めた。


「…もうじき起きるんじゃないか?」

「そうだね。じゃあ、また明日」

「明日っ!? …分かった、明日のこの時間だな」

 

 僕達はその後も料理の特訓をすることを約束し、イヅナやキタキツネには秘密の料理教室がこっそりと早朝の宿で開かれることになった。




―――――――――




「んじゃ、そろそろ何か作ってみるか」


 料理教室を始めてから一週間、ついにこの時がやって来た。

 包丁を握り、無数の野菜を肉を断ち切り、骨の多い魚には手を付けさせてもらえず。


「でも…何作るの?」

「ああー…何ができるか…?」

 

 包丁しか触っていないせいで切ることしか覚えてない。

 焼くとか、炒めるとか、茹でるとか…一切できない。


 お米ぐらいなら炊けるかな…?


 でも、そこのところは全部神依君にお任せだ。

 料理に慣れている神依君なら、それらしいアイデアも簡単に出せることだろう。


 長く静かな熟考を終え、固く閉じていた口を開く。


「……悪い、思いつかない。適当に頑張ってくれ」

「嘘ッ!? どうして、教えてくれるんじゃなかったの?」

「ほ、包丁の使い方は教えただろ…?」

「料理を教えてって言ったのに…神依君の嘘つき…!」


「…なんかお前、最近に似てきたよな」

「それって2人のこと? …あはは、照れるな」

「ああ、勝手に照れててくれ…」



 神依君は若干投げやりにそう言って、そっぽを向いてしまった。


 仕方ないから、自分ひとりで作れるものを考えよう。

 イヅナだったら、何を作るかな。


「ご飯…あんまり火を使わない料理…お寿司とかかな」


 確か油揚げもあったし、酢飯を作るための酸っぱい粉もあったはず。

 そんなに難しくないから、今朝は稲荷寿司を作ってみよう。


 じゃあ、まずは食材集め。

 

「あった、すっぱいパウダー!」

「…グミによく付いてる粉だろ、それ」


 料理の仕方はすっかり忘れてしまったけど、食べ物の置いてある場所はキッチリ覚えている。

 今日は…Cのパターンのはず。

 

 ギンギツネが良く配置を変えるからその都度覚え直さなきゃいけないのが大変で、繰り返しているうちに覚えるのが上手になってしまった。


 最近はキタキツネも配置を予測できるようになって、的確にお菓子をサルベージしてはつまみ食いしている。

 

 こうなっては、ギンギツネの対策もやむなしと言ったところだろう。

 まあ、結果として減るのは僕達のおやつなんだけど。



「ご飯を広げて、粉を掛けてよく混ぜてー」


 白いご飯粒に白い酢の粉で、どれくらい掛かったのか分かりにくい。

 ここは慎重に調整しよう、未来の僕のお口のために。


「…なぁ、俺が居る意味はあるのか?」

「え、食べてかないの?」

「気分次第だな…じゃ、普通の食事なんて意味ないから」


「普通の食事じゃない…まさか神依君、フレンズを襲って…!?」


「そんな訳あるかっ! 俺は俺で上手いことやってるよ」

「ほ、他のみんなにバレないように…?」

「…本当に違うからな?」


「うん、知ってる」

「……急に正気に戻られても反応に困るな」



 一通り神依君をからかい終わったら、今度こそ集中して稲荷寿司を作ろう。

 


 あったかいご飯をすだれに広げ、パラパラとその上にお酢の粉を掛ける。

 さっくりと混ぜたら味を見て、お好みで酢の量を調整しよう。


 酢飯がお気に入りの味わいになったら、次は油揚げ。


 だし汁に砂糖に醤油を混ぜたタレと切って開いた油揚げを一緒に煮込んでしばらく置いておく。

 それで…まあ…程よい感じになったら、取り出してご飯を詰める。


「…どんな風に入れればいいかな」


「ん…どれ、ちょっと貸してみろ」


 鮮やかな手際で油揚げがあっという間に稲荷寿司へ姿を変えていく。


「神依君って、料理だと何でもできるんだね」

「俺の取り柄って言ったらこれだからな…ふう、後は出来るか?」

「もう覚えたよ、ありがとね!」




―――――――――




 それからおよそ一時間の半分、つまり三十分。

 全ての油揚げがご飯で膨らみ、大皿に整然と並べられている。


 その光景は美しいという表現を通り越して、一種の感動さえ覚える。

 一週間練習してきた成果…をほとんど使わずとも、ここまでのものが作れるというのか。


「おぉ…完璧」


 神依君が仕上げた稲荷寿司は脇の皿に除けておいて、イヅナたちには僕が仕上げたものを食べてもらおう。


 ついでにも入れておいて…っと。

 キタキツネもよくやることだし、多分大丈夫。


稲荷寿司~サンドスターを添えて~…って感じでどうかな。

…別に、名前はどうでもいいか。

 

「ふふ、丁度そろそろ起きる時間だね」


 真っ白な月は光を失い、太陽の明かりが風の音と一緒に厨房へ吹き込む。

 僕はその場所を後にして、二人が眠る寝室へと向かった。


 そっと襖を開けると、僕の影が膨らんだ布団に掛かる。


 枕の上で白と黄色の耳がピョコンと動き、音を聞きつけた二人はほぼ同時に目を覚ました。


「…おはよう、起こしちゃった?」

「ん…いいよ、ノリくんは何してたの?」

「ちょっとね…さあ、早く支度して食べよ?」

「…でも、ギンギツネまだ寝てるよ?」

「大丈夫だよ、もう用意してあるから」

 


―――



「わぁ…! これ、ノリアキが作ったの?」


 皿いっぱいのお寿司を見せると二人とも驚いた。


 片やキタキツネは口の端からよだれを零し、片やイヅナは神妙な表情で並ぶキツネ色の数々を眺めている。


「そう、全部僕の手作り」

「ノリくん、いつの間に…?」

「あはは…が、頑張ったよ!」


 イヅナに向かって手でキツネの形を作ると、イヅナも同じように返してくれる。


「…ねぇねぇ、食べていい!?」


 微笑むイヅナとの間にキタキツネが割り込んで、サンドスターより鮮やかに輝く目をして僕に尋ねた。


 いいよと言い切る前に一つ消えて、それを皮切りにどんどんとキタキツネの胃袋に放り込まれていく。


「えへへぇ…ノリアキの味がする…!」

「キタちゃん、私の分も考えてね…!?」

「もぐもぐ…早い者勝ちだよ…?」


 キタキツネの挑発するようなハンドサイン。

 稲荷寿司の消える速さは二倍になった。




 ――やがて名残惜しくも食べ終わり、僕はお皿を片づけるため居間を後にした。


「よいしょっと……あれ」


 さっきより少し厨房が広くなったような気がする。

 何故かとしばし思案して、神依君がいなくなったからだと結論付けた。


「どこ行っちゃったんだろう…」


 神依君が仕上げたお寿司も蓋を掛けたままになっているし、何も食べずに帰ってしまったのだろうか。

 

 一応お礼を言っておかなければと思って神依君を追いかける。


 外には寒々とした快晴が広がって、よく見渡せる景色にも彼の姿は見えない。


「…あーあ、せっかちだなぁ」


 別れの言葉の一つくらい聞いて行ってもよかったのに、でもわざわざ追いかけるような事情もない。

 また会ったらその時に伝えておこう。


 そうして考え事を片づけると、まだお皿を洗っていないことを思い出した。

 

 宿に戻ろうとしたその時、背中からもふもふに包まれる。

 

「…イヅナ?」

「……」


 静かに抱き締める腕の力は強く、張り詰めた表情から普通ではない何かを感じる。

 

 どう言葉を掛けようか悩んでいるうちに、耳に暖かな声が流し込まれる。


「ノリくん、聞いてもいい? あのお寿司、一人で作ったの?」

「え…神依君にも少しだけ手伝ってもらったけど…っ」


 力が一段と強くなる。

 腕を通して、辛さが伝わってくるような気がした。


「そっか、そうだよね…でも、?」


 今度は正面から、覗き込むように僕を見る。

 その暗い瞳に、吸い込まれてしまいそうだ。


「なんで私じゃないの? 何かいけなかった? 信じられなかった? ねぇお願い…悪いことがあるなら直すから、私を頼って…?」


「イヅナ……」


 秘密が、何気なく作った軽い隠し事が、イヅナを傷つけた。

 意味なんてなかった、あるとすれば少しだけ、イヅナに頼むのが恥ずかしかった。


 それが致命的だったんだ。


 今からでも意味を与えよう、傷は浅いのが一番だから。


「…不安にさせちゃったんだね、ごめん」


 向かい合って、僕の方から抱き締める。


「ちょっとだけ驚かせようと思っただけだったんだ、でも…もうしない。次からは、イヅナにもちゃんと伝えるよ」

「そ、そんな…気を遣わなくても…んっ!?」


 唇で言葉を留める。

 何も、言わなくていいから。

 

「……」

「……♡」


 その時、雪山に強い風が吹く。

 舞い上がった粉雪が僕達を隠して、まるで、世界に二人きり――




―――――――――




「…あはは、大胆なことしちゃったな」


 少し前までならこんなこと逆立ちしても出来なかったのに。

 長らく過ごしているうちに、僕も随分と変わったものだ。


「…ノリアキ」

「キタキツネ、どうしたの? ……んぐ」


 厨房にやってきたキタキツネは、他のものには見向きもせず一直線に僕の元へとやってくる。


 そして、当然のことのように口づけをした。

 唇を離して悠然と佇むキタキツネに、僕は訳を尋ねずにはいられなかった。


「えっと、いいんだけど…どうしていきなり…?」

「イヅナちゃんばっかりじゃズルいもん」

「…み、見てたの?」


 こくんと頷くキタキツネ。

 

 風も朝の闇も粉雪も、キタキツネの目からあの光景を隠すには足りなかった。


「…あ、後でゲーム、しよ?」


 やりたいことをやって、言いたいことを言って、気ままなキタキツネは行ってしまう。


「でも、後でってどうして…あ」


 まだ洗ってなかったんだった。

 手にした大皿をくるりと回して、恥ずかしさから逃れるように一心不乱に洗い耽る。


 後で、水の無駄遣いだとギンギツネに叱られた。 

 その間も僕は、あの時の感触で頭がいっぱいで。


「…ねぇ、聞いてるのかしら?」

「え、あ…ええと…」

「もう、手際のいい洗い方なら教えてあげるわ、だから――」


「いや、いいよ」


「いいって、そういう話じゃなくてね…?」

「大丈夫、その時はイヅナに教えてもらうからさ」

「そ、そう…」


 そう口にすれば、ギンギツネはそれ以上何も言わない。 

 僕はゲームをしに、キタキツネの部屋へ向かう。


「~~」


 足取りがほんのりと軽い。

 何となく、気分が浮いているような気がする。

 

 彼女たちへのただの理解や共感じゃなくて、少しことが出来たような。 

 そんな感染にも近い同調が、僕の心の何かを埋めていた。


 だからこそ、足りなかった部分が酷く痛む。 

 この痛みが癒えた時、僕はどんな姿をしているのだろう。


 願わくばそれが、僕のよく知る姿でありますように。

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