Chapter Ⅱ 白銀世界にあなただけ。

Ⅱ-106 吹き付ける風が冷たくて、吹雪の中で眠ります

―――――――――


 …静かな海。


 空に浮かんだ月の明かりが、さざめく波を煌びやかに照らしていた。


 …静かだった海。


 いつの間にか凪の時間は終わっていて、段々と海の様子が荒れてきた。

 

 強い風に吹かれ、切り立った波に僕は飲み込まれた。


 空に手を伸ばすと、誰かの指先と触れ合って――



 僕は、吹雪の中で目を覚ました。




―――――――――




「はぁ、はぁ……く、うぅ…」


 片方は闇、もう片方は光。


 光の差す方は空を飛び交う雪で真っ白に染められている。

 闇でくぐもる方は洞穴の奥、雪山の脅威から僕を守ってくれている。


「あぁ…あったかい…」


 狐火が僕の体を照らす。


 普段は青いこの炎も、随分と赤混じりで不完全な焼け方になっている。

 別に、酸素が足りないわけではないけれど。


「あはは…迎えに来て、くれるかな……?」


 あの瞬間、僕は死ぬのだなと思った。


 生きているのは奇跡だ、僕の命の灯火は今この瞬間も赤く、不安定に揺らめいている。

 

 …奇跡は、いつまで続くかな。


「……」


 ゆっくりと思い起こす。


 この状況になった経緯を、一つ一つ。

 そして、彼女たちの気配を魂の感覚で探る。


「分からない…どこ…?」


 雪に遮られたか、何も感じ取れない程弱ったか。

 だけど、微かに誰かが近づく気配がした。


 それが雪に映った手の届かぬ蜃気楼でないことを願い、僕の意識は名残惜しくも現実を手放した。




―――――――――




「セルリアンの大量発生…それが、もうすぐ起きるって?」

「研究所のデータを漁ってたら、”その可能性が高い”…ってそこの赤いのがな」


 ある日、神依君が彼に貸していた赤ボスを引き連れて雪山にやって来た。

 

 どうやらそれは危険を知らせるためみたいで、博士や助手も島中を回り、セルリアンハンターは来るべき瞬間に備えているという。


 とそこで、何処で聞いていたのかイヅナがひょこっと飛び出して疑問を呈した。


「それって本当? 赤ボスが間違えたんじゃないの?」

「い、イヅナ…」


 最近になって、イヅナの赤ボスへの当たりが強くなったと感じる。

 赤ボスを神依君に預けるよう提案したのも彼女。


 もうちょっと、構ってあげるべきかな。


 対する神依君はイヅナの様子など意にも介さず、淡々と予測を告げる。

 …ちょっぴり、こういうところには憧れている。


「出るとしたら向こう三日だ、それくらいなら気を張ってても悪くないだろ。…誰かが酷い目に遭うよりは、な」


「…! そ、そうだね…」

「い…イヅナ?」


 神依君が付け足した一言が、イヅナの心を変えた。


「大丈夫、ノリくんは私が守るから!」


 コロコロと神依君への対応が変わるイヅナに戸惑う。

 話す言葉にひどく困って、つい適当に口走る。


「あ…折角だから、何か食べてかない?」

「いや、俺はまだ行く場所があるからな…悪い」

「ああ、気にしないで…ええと、気を付けて」

「そっちもな。それと、赤ボスは返しとくぞ」


 抱えた赤ボスを目を合わせる。

 心なしか、赤ボスの目が輝いているように見えた。


 イヅナの目は……別に、まあ、ね?


 …その日は本当に何事もなく終わり、運命の日となった今日。

  

 神依君が忠告にやってきてから、丁度のことだった。




―――――――――




「結局、何もなかったんだね…」

「まあね…あ、右から来てるよ」

「ホントだ、ありがと」


 セルリアンの話にはまるで興味が無さそうに、キタキツネはジャパリまんをくわえながらゲームと向き合う。

 

 張り詰めた緊張の糸が緩み、若干拍子抜けな気もするが僕はホッと胸をなでおろしていた。

 何だかんだ言って、何も起きないのが一番良いのだから。


「…静かだね」


 灰色の雲から空の欠片がしんしんと降り注ぎ、音を伴わぬ風が袖を揺らし頬を刺すように撫でる。

 

「ん…でも、変な感じ」

「変…って?」

「ムズムズする…磁場が、おかしい気がするんだ」


 磁場を感じる――キタキツネの第六感。

 彼女の勘が掴み取った異変は……


「…何も、ないよね」


 事実だけ言ってしまえば、それはの前の静けさだった。

 

 赤ボスの演算ミスだったのか、或いは途中で条件が変わったのか知る手立てはない。

 だけど、この”一日”という狂いが運命を大きく変えてしまった。



 ――轟音。



「っ…!」

「ノリアキ…何が…!?」


 空気が揺れた。

 遠くの山肌が、崩れて落ちていく。


 ああ…雪崩だ。

 しかも、ただの自然現象じゃない。


 それは、雪と共に滑り落ちる群青の川が嫌になるほど証明していた。


「セルリアン、まさか今になって…!」


 他の何を考えるよりも早く、僕はイヅナにテレパシーを飛ばしていた。



『イヅナ、雪山にセルリアンが!』

『そんな!? もう…赤ボスのポンコツ! とにかくすぐ行くね、待っててっ!』



「キタキツネ、少しだけギンギツネと一緒に待っててくれる?」

「わ、分かった…」


 イヅナは図書館で本漁り。

 三日間何も起こらなかったこともあって完全に油断していた。


 飛んで来るまで大体十分。

 セルリアンが先かイヅナが先か、願う前に出来ることを考えないと。


「でも、結構速いような…?」


 確たる根拠はない。

 しかし、セルリアンは一直線に宿へ向かっているように見える。

 このペースだと、イヅナは確実に間に合わない。


「…行くしかないか」


 せめてもの報せをイヅナに残す。


『イヅナ…やっぱり僕、先に行ってくるね』

『待って、私もすぐに――』


「…ごめん、必ず無事に戻るから」


 二本の刀を持って宿を発つ。

 倒しに行くこと、キタキツネには言わない。きっと止められてしまうから。


 雪の上を低く飛んでいき、青空が裏返ったかのような白と青の境界へと僕はその身を投じた。




―――――――――




「ねぇ、キタちゃんッ!」

「い、イヅナちゃん…?」


 宿に辿り着くなり、私は感情の赴くままキタちゃんに掴みかかる。

 

「なんでノリくんを止めなかったの…?」

「…気付いたら、いなくなっちゃってた」


 じゃあ、何で追いかけなかったの?


 ああ、危ないから、きっとノリくんが待つように言ったんだ。

 一瞬で自問自答を終えて、さても消えない蟠りを抱えて。


 こんなことしてる場合じゃない。

 分かってる、分かってるから。


 俯く彼女をそっと放して、私は雪山の状況を確かめる。

 セルリアンは広く散らばり、山肌の所々に虹の欠片が撒かれていた。


「ノリくん、やっぱり一人で…!」


 テレパシーを送ろうかとも思ったけど、こういう時のノリくんはあんまり返事をしてくれないからやめた。


 それに、私のノリくんだもの。

 居場所は、私の心が知っている。


「イヅナちゃん、ボクも行く…!」

「そうだよね…まあ、邪魔にだけはならないで?」

「なる訳ないよ…!」


 溢れんばかりの想いを胸にした、何でもない一歩。

 外へと踏み出した途端、それと共鳴するように空気が揺れた。


 耳を塞ぎたくなるような恐ろしい音と共に、地面が壊れて流れていく。


「雪崩…また?」

「まさか、ノリくん…!?」


 恐ろしい想像に身の毛がよだつ。


 だけどこれは、想像というより予感だった。

 白いキツネの、確信にも近い予感。


 当たらないで、違っていて。

 そう願うほどに私の心は締め付けられる。


 一心不乱に飛び回る。毛先を凍らせるような極寒の向かい風にも、私の心は温度を感じ取れない。



『~♪』

『~♪』


「こんな、ことって…」


 少しずつ、灰色の空は吹雪いてきた。




―――――――――




「やだ…ノリくん…どこ…!?」


 どうして分からないの、なんで感じ取れないの。

 こんな吹雪ごときで、私たちの繋がりが遮れるはずないのに。


 ノリくんのいる方向が、分からない。


「わた、私は…ノリくんを…早く、見つけないと…」


 目の前にモノトーンな壁が迫って、通り過ぎていく。


 ああ、全部真っ白なのね。

 私たちも、まっさらになっちゃうの…?


「っ…邪魔しないでよ!」


 セルリアンが爆散する。

 

 散らばったサンドスターは吹雪に乗せられ飛んでいく。

 虹色と黒のグラデーションが、私の視界を走り去る。


「もしかして、これのせい…?」


 感覚を研ぎ澄まして、ノリくんのを探る。

 

 その感覚は空を舞うサンドスターに邪魔され、乱反射して地面に沈んだ。


「そっか、セルリアンが大量発生したから」


 きっと、ノリくんが倒したセルリアンの残骸から舞い上がっているんだ。


 それはサンドスター混じりの吹雪になって、セルリアンは死した後も私たちの邪魔をしてくる。


 これはさながら天然のジャミング。

 だけど悔しい、私は…こんなもので…!


「諦めない…私なら、私たちなら……あっ!?」


 一瞬にして目の前が真っ白になる。


 冷たい、顔が雪に埋もれている。


「っ…だれ…あ……ぁ…」


 首に受けた強い衝撃が、私の意識を雪に沈めた。


 私は…こんなところで倒れている訳にはいかないのに…



「……ふふ」




―――――――――




「ハッ、眠っちゃ、ダメだ…」


 過去を振り返っていると、夢に落ちてしまいそうな気がする。

 

 平穏だったころの記憶が、甘くて甘くて仕方ない。


 未来は光で閉ざされている。

 暗闇の方が、僕を癒してくれる。


「やっぱり…何も感じない…」


 普段なら、多少離れていてもイヅナやキタキツネの気配を感じられる。

 だけど今は何もない、全くの無だ。


 吹雪のせい? あるいは、僕が弱っているせい?


 宿

 こんな時に限って、これでは持っている意味が無い。


 手元にありさえすれば、助けを呼ぶことが出来たのに…


「……?」


 そんなささやかな自己嫌悪に僕が陥っていたその時、誰かの足音が吹雪の音を貫き僕の耳を揺らした。


 すぐに音の主は姿を現す。

 僕が予想だにしなかった、彼女がやって来た。


「大丈夫かしら、コカムイさん?」

「あ、ギンギツネ…?」



―――――――――



「ありがとう…助かったよ」

「元気は無いけど、大丈夫そうで何よりだわ」


 ギンギツネは沢山の物を持って来てくれた。

 寒さを凌ぐブランケットにジャパリまんに水筒入りの暖かい飲み物。

 口を暖かく潤せば、活気も自然と戻って来る。


 頭も段々明瞭になってきて、焦ってギンギツネたちに何も言わず出発したことを申し訳なく思った。

 

 僕がもう少し辛抱強かったなら、みんなもこんな吹雪の中を歩き回る必要が無かったのだから。



「ごめんね…本当に」

「気にしないでいいわ、今は吹雪が収まるのを待ちましょう」

「…イヅナとキタキツネは?」

「もちろん心配よ…だけど私も結構、しんどい感じなの」


 辛くとも気丈に笑うギンギツネ。


 よく見ると髪の毛の先が固まっている。

 無理もない、こんなに沢山荷物を持って吹雪の中をずっと歩いてきたんだから。


「それも、僕のせいだよね…ごめん」

「だから謝らなくていいのよ。色々多めに持ってきたから、ゆっくりしましょ」


 彼女は肩を寄せ、大きめのブランケットを一緒に羽織った。


 暖かい…もし二人がこの状況をみればただじゃ済まない。

 でも、今だけは…許されるよね。


「ん…んぅ…」


 どっと疲れが押し寄せてきて、ついと微睡んだ。


「寝てもいいのよ、私が付いてるから」

「うん…ありがとう…」


 もはや、憂い事さえも面倒だ。


 頭をギンギツネにすっかり預けて、柔らかな毛並みの中に体をうずめて、眠る。深い眠りに落ちる。



 吹雪は静かだ。

 風の音以外何も聞こえないから。


 それしか見えなければ、それ以外聞こえなければ。

 何も無いのと一緒だから。


 音に包まれた静寂が、僕を昏々と眠らせる。




―――――――――




「うぅ…あれ……?」


 目を覚ますと、吹雪はすでに止んでいた。


 あれほど厚く空を覆い隠していた雲も何時しか流れ去り、お日様が明るく照り付ける。


 、私はゆっくり立ち上がった。

 そうだ、ノリくんを探さないと。


「くっ…! あ…頭、誰が…?」


 そうは言いつつも、犯人なんて分かりきっている。

 キタちゃんだ、わざわざ私を気絶させるのなんてキタちゃん以外に有り得ない。


 セルリアンの可能性もあるけど…それなら私はとっくの昔に食べられている。

 

 だから、犯人はキタちゃんだ。


「もう、最近は大人しいなって思ってたのに…!」


 油断も隙も全く無い。ノリくんは変なことされてないかな。

 

 急ごう、また吹雪いて来ないうちに。


 もう私たちを阻むものは何もない。

 ノリくんの場所も手に取るように分かる。


 そして、その近くにいる――




―――――――――




 時は遡り、それは丁度雪山が吹雪に包まれた頃。


「やっぱりノリアキ、忘れて行っちゃったんだ…」


 ボクは無造作に放り出されたノリアキのジャパリフォンを掴み取る。

 

「…ふふ」


 手に持つだけでホッとする。

 だけど、早くノリアキを迎えに行かなきゃ。


 荒れた天気の雪山はボクだってすごく怖い。

 ノリアキがいなくなることは、それよりもずっと怖い。


 赤い端末を二つ、ボクたちの繋がりを手にして、ボクは――


「……?」


 何かを感じた。

 聞こえていない、見えてもいない、触れてもいない。


 直感が叫んだんだ、『振り返って』と。


 風が吹く。


 『それ』は暖簾を乱暴に揺らして現れた。


 飲み込まれてしまいそうな青色を携えて、『それ』は、蠢く。


「…ここは、壊させないよ」


 予定変更、とっても不本意だけど、ノリアキのことはイヅナちゃんに任せよう。

 

 ボクは宿ここを守る。

 ノリアキの帰る場所を。


 …試してみる?

 、食べられるかどうか。

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