第8話 ヤー・ブルース

 シズカを見舞いに行った二度目の日、彼女はぐっすり眠っていた。

 その前日に病室を訪れた時に、少しだけ話すことができた。ちょうどあの日、ぼくらがライブハウスで初めて出会ったあの日の夜に予定していながら、三ヶ月間延期することになった睡眠薬自殺を、今回思い切って決行したのだと、さらりと彼女は言った。

 目が覚めたころに、もう一度顔を出そうと思い、病室を出た時、ばったり彼女の両親と鉢合わせになった。

 父親が話をしたいと言うので、一階のロビーまで、しぶしぶついて行き、いっしょにソファーに腰掛けた。

 思っていたより、小柄な人だったが、ぼくをたっぷり威圧するだけのエネルギーに満ちた風貌の持ち主だった。生え際が下がり、逆立った白髪まじりの頭部は猛禽を思わせ、その眼球は睨みつけられたら、顔に穴があきそうなぐらいに鋭く光っていた。

「娘がどうして、こんなことになったのか… きみなら、わかるんじゃないかと思ってね……」

「ぼくは、まだ、お付き合いして、三ヶ月ですから……」

「わからないかね……?」

「……………………」

「……………………」

「……実際のところ、シズカさん、まだあきらめてないんじゃないですか?」

「ああ、あの男のことだね? 知っていたんだね」

「詳しくは、知りません。心に決めた人がいるとしか……」

「いや、あの男はいかん。妻子がいて、歳の差は二十もある。子供はまだ小学生だというではないか…… たとえ離婚したとしても、子供はどうするというのか?」

 そう言いながら興奮し、一気に顔を赤らめていた。

「……………………」

「とっくに、あきらめていると思っていたんだが……」

 知らなかった。深い事情などなにも。だが、親の不理解は、子にとって共通の敵だった。なにか言わねばと、ぼくは口を開いたのだが。

「でも…… 離婚する意思は、相手にはあるんでしょう?」

「娘に、他人の家庭を破壊させに行かせる父親が、どこにいると思うんだね!」

 このことには、けして触れてはならなかったのだろう。シズカの父は、明らかに冷静ではいられなくなっていた。

「そんなことになるぐらいなら、死んでくれた方が、まだ、ましというものだ!」

「そんな……!」

「わかっているよ。本気で言ったわけじゃない…… だが、あの子がなにを考えているんだか、さっぱりわからないんだよ……」

 この人は、すでに息子を失っていた。そして、娘までが自殺未遂。まさに家庭が崩壊の危機を迎えていた。

 気がつくと、シズカの父は視線を床に落とし、弱々しくうなだれていた。その姿は、ぼくから敵意をきれいに取り去ってしまった。シズカに反対する態度も、父として当然のことに思えた。それまで感じていた畏怖の念はみるみる萎んで、いつのまにか、言いようもなく哀れに思えていた。


 病室にもどると、シズカはベッドで、上体を起こしていた。

「やあ、顔色だいぶ、よくなったね」

「ええ……」

「さっき、きみのお父さんと話をしたよ」

「そう、どんなこと?」

「いろいろと……」

「あの人のことも?」

「うん……」

「あきれたでしょう?」

「いや…… だけど、少し驚いた」

「他人の家庭を壊すようなことはさせないって、言わなかった?」

「うん……」

「きっと、あなたも、そう思ったでしょう?」

「いいや、そんなとらえ方もあるんだなって、思っただけさ……」

「すべて、わたしが悪いのよ……」

「そんなことはないよ…… しかたないさ、最初から壊れているような家庭だったとしても、みんな、表面しか見ないからね……」

 絡めた両手の指に落としていた怠い視線をぼくの方に向け、口もとにかすかな笑みを浮かべて、シズカは言った。

「ありがとう。こんなことは二度としないわ…… それに、ほんとに、あなたのせいなんかじゃないんだから、もうわたしにかまわなくって、いいのよ」

「いや、ぼくが退屈な男だったからさ! とにかく、勝手にそんなふうに理由をつけて、会いに来たがってんだから、わざわざ追いはらうって、手はないと思うけどな……」

「ひどい言い方、したのよね、わたし……」

 その時どうしたことか、ちょっとした衝動に駆られて、数分前まで自分でも想像すらしていなかった言葉をぼくは口走った。その衝動が起こったことより、それが軽すぎたことが問題だった。彼女の瞳が悲しげで、あまりに綺麗だったからだ。

「結婚してくれないか?」

 彼女の瞳が一瞬、輝きを増したように見えたのは、勝手な思い込みだったのだろうか?

「ありがとう。十年たって、もらい手がなく、独身だったら、お願いするわ」

「…………………」

「おばかさん……」




 あれから、半世紀もの時が過ぎた。それなのに、あの日々の記憶が、今でも生々しく、いつも蘇り、わずか数年まえの事のように感じられる。だから、ぼくは年を取れないのだ。

 今、思い起こしてみると、ひょっとしたら彼が自分の姉の生命を守ろうとして、ぼくを呼んだのではないかと思えてくる。とにかくあの時、ぼくはワンポイント・リリーフの役目を果たした。シズカはあの事件から五年後に、お見合いをして、結婚したということだけは聞いた。

 

 大野は一時期、代議士の秘書をやっていたが、すぐに方向転換した。四十を過ぎた頃、二十歳近くも年下の若妻をもらい、すぐに二人の娘をもうけた。現在、自営の不動産会社を経営している。

 クラプトンは、やはりレイコと結婚し、子供はいないが、今でも仲良く暮らしているようだ。弟の焼鳥屋を手伝いながら、やはり今でもバンドマンを続けているというのが驚きだ。

 残念だが、川端とは音信不通。

 妙子は、四十年連れ添った夫を昨年亡くしだが、三人の息子に手を焼きながら忙しくも賑やかに暮らしている。三人とも結婚はおろか、独立もしようとしないからだ。そんな暮らしぶりを、ラインなどの通信手段で知らせてくれたり、今でも変わらず気にかけてくれている。妙子は実にいろんなことを教えてくれた。だから今、人生についてなにか言えるとしたら、彼女に頼るところが大きい。ジョン・レノンは、イマジンを書いて、神と決別したが、ぼくには彼女がいたおかげで、そうはならなかった。

 

 そうだ、ぼくが親元を離れ、就職先の遠い街で一人暮らしを始めて二十数年が過ぎたころ、妙子が訪ねてきたことがあった。

「ぜんぜん帰ってこないから、わたしの方から来ちゃったわ。どうして結婚して落ち着こうとしないの?」

「どうしてかな? そんな必要を感じないからかな……」

「わたし、わかったのよ──どうして、あなたがそうなのか。わずらわしがらずに、聞いてちょうだい! あなたに神様がわからないのは、あなたの家族に対する情の薄さに原因があると思うの。結婚して家族がほしいと思わないし、故郷に親兄弟がいるのにめったに帰って来ないなんて、いつまでも、そんなんじゃ、だめ」

「それが神がわからないのと、どう関係があるんだい?」

「親の愛がわからない人には、神の愛もわからないからよ」

「神の愛? そんなものが本当にあるなら、こんな憐れな人間どもを、神はなぜ救わないんだ!」

「救おうとしているわよ! いつだって…… わたしたちが、それに気づかないだけ」

「こんな不完全な世界を創造した神なら、そんな神は、ぼくには必要ないんだよ」

「親になってみないと、わからないことがあるのよ。もしも、あなたに真実の愛を注ぐ息子や娘がいるとしたら、どうやって育てるか、考えてみて。あなたにけして逆らわない、操り人形のような人間にしたいと思う? 自分の頭ではなにも考えない、ロボットに育ててみたい? 自転車は危険だからって絶対に乗せないで、年頃に なって悪い男が寄ってこないようにって、部屋に鍵をかけて閉じ込めでもする?」

「………………」

「神だって、同じだったのよ! 成長すれば、対等の立場で愛し合える子供がほしかったのよ…… わたしたちはみんな神の子なの。 だから家族って、特別なものなの、とっても」

 

 自殺者の心の奥底にある動機とは、神に対する復讐だと、妙子は言った。満たされない人生を与えられたことへの……

 子供の親に対する反抗は、子供を非行と暴力に走らせるが、神に対する反抗となると、並大抵の手段では効果が得られない。

 神にとって、なにが一番都合が悪いかを知っている者なら、この手段を選ぶだろ。それこそが、自殺だ。

 自殺志願者とは、神をゆする脅迫者なのだ。自分自身の生命を人質にとって神を恐喝しようとしているのだ。

 しかし、神ならば、そんなゴロツキのようなような手口に、一度たりとも乗ったことはないと、ぼくは思う。

 妙子がいうように神が親なら、ぼくにとって神は、常に厳格で毅然とした表情を崩すことのない冷徹な父だ。なぜなら、ぼくにとって父親とは、どこか恐くて近づきにくい存在だったからだ。

 大野にとっては、おそらく違うだろう。もっと身近で、ひょうきんな友のような神に違いない。

 そして妙子にとってはやはり、懐かしい憧れの父としての神なのだ。


 ぼくは文筆家として生計を立てることはできず、さまざまな職業を転々とした。それでも結局、結婚はするにはした。出産にも三度立ち会った。だが、愛情深い立派な父親にはなれなかった。いや、まだ時間が残されていないわけではないので、そんな言い方はよそう。許されるなら、言い訳をさせてもらいたい。なりたい自分になれない苦痛が体の中で疼くせいだと。

 父になった時、あまりに感動が軽く、実感を持てない自分に悩んだ。ぼくはそれを演じようとして、それまでの自分を強制終了させた。その時、ぼくは自分を違う何者かと、すり替えてしまったような気がする。


 ぼくは、ぼくの少年をそっくりそのまま、開かなくなったギター・ケースの中に封じ込めてしまった。物置の奥の暗闇に押し込んだままにして──

 今でも時折、こっそりと、ビートルズのヤー・ブルースを聴くことがある。

 なんとも気恥ずかしく、面映ゆい気持ちになりながら。

 Yes, I'm lonely ……

 胸がしめつけられるような、少年だった記憶を呼び覚まし、

 しびれるような郷愁につつまれて……


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ヤー・ブルース 藍野 克美 @aikatu

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