第7話 セカンド・ハンド・ニュース
「う・み・だ・あ……」
海面は複雑に歪んだ鏡になって、朝の光を粉々に砕いて輝いた。
風はとても湿っていた。潮の薫りをのせて、シズカが開け放ったばかりの助手席の窓から流れ込み、頬を心地よく叩いた。
「ねえ、シズカとわたしって、どうして友達なのかわかる?」
「そういや、ぜんぜんタイプ違うよな」
「幼稚園からの幼なじみなんだろう?」
後部座席でレイコとクラプトンが話しているところに、ぼくが口を挟んだ。
そう言いながら、大野のレコードから録ったフリートウッド・マックのルーモアの入ったテープを、カーステレオに差し込んだ。
「どうして、わかるの?」
シズカが驚いたように言った。
「わかるからさ」
セカンド・ハンド・ニュースのシャキシャキしたギターの金属的な音が、エンジンのパリパリ鳴る音に重なった。しだいに音楽が厚さを増し、エンジンの音を遠ざけた。
「よせよ、そんな曲! マックもだけど、エア・サプライだとか、クリストファー・クロスなんてのも、かんべんしてくれよな」
「あら、いいじゃん。この車に合うと思うよ」
レイコにそう言われると、クラプトンは弱かった。
「そうかなあ、だんぜん、ライ・クーダーなんかの方が合うと思うぜ……」
ルーモアを片面だけ付き合わせることにし、それを聴きながら、大野達はどうしているだろうかと、思い出したり、近頃の自分のこの軽さはなんだろうと、苦笑したりした。
まさしく芋を洗うような混雑したビーチで、時を忘れて、ぼくらは小犬たちがじゃれ合うように戯れた。
やがて黄昏が近づき、帰ることになり、ふたたび車に乗った。こまったことに、とんでもない渋滞にはまってしまった。夕闇の中を、たくさんのテールランプが連なり、もぞもぞ動くのをずっと眺めていた。
シズカは疲れたせいか、黙り込んでいた。
しかし、後部座席のカップルは乗りに乗っていた。ディレク・アンド・ザ・ドミノスの “いとしのレイラ ” が流れた時は、まさに絶頂だった。われらがクラプトンはバドワイザー片手に、完全にクラプトン気取りで、声を重ねて歌った。ただし歌詞の一部を替えて 。つまり、《レイラ》を《レイコ》に替えて、絶唱していた。
やっとのことで市街地にたどり着くと、二人はライブハウスに行くと言って、さっさと車を降りた。シズカとぼくはレストランに車を止め、とにかく空腹を満たすことにした。
やっと食べ物が腹の中に収まって、気分が落ち着き、ゆったりとコーヒーを飲んでいる時だった。シズカが口にしたことが、こうだった。
「自殺したいって…… 思ったことない?」
「えっ…… ?」
「自殺したいって、思ったことないかしら?」
ちょうど四年前の妙子との出会いの時に戻った、まるで振り出しに戻されるような奇妙な感覚に襲われ、返答に戸惑っていた。
「そりゃ、一度ぐらいは……」
「そうね、だれでも、通過するものかもしれないわね」
「……………………」
「妹のことは話したけど…… 弟もいたのよ。あなたと同い年で、同じ高校に通っていたから、きっと知ってるわね……」
「………………?」
「学校で、自殺した子がいたでしょ……」
「……………!!!」
そうだ! 苗字が同じという偶然を、一度も疑わなかったなんて!
死神とは、執念深いものだ。あくまでも、こんな話を聞かせるつもりらしい。
そんなぼくの心中など気づくこともなく、シズカは話し続けた。
「でも、よかったわ…… レイコが立ち直れて」
「………………?」
「あなた達のおかげ…… レイコ、自殺未遂の常習者だったの。学生時代は、マリファナにも手を出したり…… 弟が死んだ時、自分の影響だと言って、自分を責めていた。小さいころから、弟のようにかわいがっていたから……」
ぼくは言葉を失っていた。なにを言えばいいか、さっぱり分からなかった。
人間関係とは、見えない世界で、だれかが仕組んでいるものなのだろうか?
レストランを出て、家まで送ると彼女に告げた。
車内では、気詰まりな沈黙が続いていた。
彼女の家のある住宅地への入り口の角に差しかかった時、赤信号だった。それは決まっていつも、長い停止を強制する信号だった。
「きのう電話してくれた時、父が取ったでしょう? なにか言わなかった?」
「ぼくが名乗ると、『娘の新しいボーイフレンドだね?』と聞かれたけど、うまく答えられなくて黙っていたら、なにか言われるのかと思ったけど…… そのまま、少々お待ちくださいといって、取り次いでくれた。それだけだよ……」
信号が青に変わり、アクセルを踏んだ。
「曲がらずに、行って!」
「えっ! どこへ?」
シズカの視線は、まっすぐ前方へ向けられたまま、凍りついていた。そして、彼女のものとは思えないような低い声で呟いた。
「新しいボーイフレンド、ですって……?」
一キロほど走ってから、車を路肩に寄せた。
「どこへ行けばいいんだい?」
「きまってるでしょ! そこまで言わせるの?」
「……………………」
「ごめん。無理にとは言わないわ……」
「いや、だいじょうぶさ……」
力のない返事だった。
「そんな気には、なれないわよね……」
「いや、きみが行けと言うなら……」
「いいのよ……」
「………………」
「わたしが、ほしいなんて、思わないわよね?」
「そりゃ…… だけどきみは、ぼくなんか、弟の身代わりぐらいにしか、思ってないんじゃないのか! なぜその彼と、いっしょにならないんだ? 親の反対なんて関係ないじゃないか!」
「あなたには関係ないことよ!」
「オー・ケー! 行けと言うなら、行くさ!」
意を決して、チェンジレバーを握った時、それを制して、彼女が言った。
「わたしが、どうこうじゃなくて、あなたが、どうしたいのかが、聞きたいのよ!」
「………………」
もちろん、そんな気が全くないわけではなかった。だが、突然のことに強い戸惑があった。彼女の自分勝手な態度に、素直になれない気分にもなっていた。だが、なにより、それをためらった理由は、彼女を外泊させることが、ことのほか困難なことに思えたからだった。あの父親の野太い声が耳に残っていた。
「もう、いいわ!」
憤然と彼女はそう言い、次に、とびっきり辛辣な言葉を容赦なくぼくに浴びせた。
「あなたって、ほんとうに、退屈な人だわ!」
そう言い捨てると、彼女はドアを肩で押し開け、閉めもしないで、すたすたと後ろに向かって歩き去った。
なんてひどい日だったことだろう……
あの首吊り少年に姉さんがいて、その姉さんにぼくは熱を上げていて、その上、最も恐れていた言葉 “退屈なやつ” を言い渡されたのだ。ぼくは十分に傷ついていた。
しかし彼女もまた、同じぐらいに、あるいはもっと、傷ついていたのかもしれない……
とにかく、疲れ果てていたのだ。
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