第6話 クラプトン

 クラプトンと、ぼくは彼を呼んだ。

 彼を本名で呼んだことは、ほとんどなかった。

 彼は音楽と女性にしか関心を示さない単純で、軽いタイプの典型のような男だった。そのキャラクターのばかばかしさが、かえって人の良さに見えて、不思議と好感が持てるのだ。ぼくが、からかうような意味でクラプトンと呼んでも、彼はそんなことは意に介そうともせず、彼にとって不名誉な名ではない、そのクラプトンを喜んで受け入れていた。

 知り合って三日目、彼からの電話がいきなり鳴った。番号は西山から聞いたのだろう。

名乗るなり、こうだった。

「なあ、女を紹介してくれないか?」

「オレがかい?」

「そうさ。おまえさん、もてるって、評判だぜ」

「よしてくれ! ちっとも、もてないぜ! それに、これでも受験生なんだぜ……」

「心配するなよ。オレ達の大学に来ればいい。だれでも、入れっから……」

 翌年、けして彼の勧めをありがたく受けたわけではなかったのだが、結果としては同じことになった。

 彼が大いに歓迎してくれたのは言うまでもない。いっしょにブルース研究会を発足しようとか言い出し、無理やりB・B・キングなどのレコードを一抱え持って帰らされた。

 ちょっと長身ではあったが、それにしても小汚い男だった。ただ放っておいたといった感じの、自慢のナチュラル・ロングヘア。口のまわりから顎や喉にまではびこった不揃いな無精ひげ。膝が丸ごと飛び出すぼろぼろのジーンズときたら、間違いなく三ヶ月間は洗濯せずにはき続けていたはずだ。その当時、膝の抜けるジーンズなんて、だれも履いていなかった。

 ぼくは何度も、そんな調子では女なんて寄りつきやしないと助言したのだが、そもそも、彼の価値基準が世間のものとは違うのだから仕方ない。

 ある夜、彼に誘われてライブハウスに出掛けることになった。さすがに音楽を選ぶ耳だけは確かだった。その夜の出演バンドは無名ではあっても、素晴らしい演奏を聴かせてくれた。

 ブルースのうねりが、ゆっくり宙を舞い上がり、すっかり天空まで登りつめた時、プレイヤーと聴衆を分ける理由などなくなっていた。

 共に居合わせた者同士を区別する必要もなく──ぼくがあなたで、あなたが彼で、彼が彼女で、彼女がぼくになってしまう。それは、この世では間違いなく非常識な体験であり、不可思議な感覚だった。その非常識が常識となり、不可思議が当然となって、永遠につづく世界があるなら、それこそが天国ではないだろうか。

 ぼくらは、等間隔に並べられたビア樽に、七、八センチもある分厚い板を横に渡して作られたテーブルに着いていた。

 ぼくの右手が、テーブルの上でリズムを刻んでいた。掌が痛くなるほどに。

 興奮が手の痛みも、なにもかも忘れさせていたから、テーブルの上を水の入ったグラスが、少しずつ滑りながら動いていることにも気づかなかった。

 気づいたのは、隣にいた女性の膝の上に、グラスが落下した後だった。

「あっっ!」

「だいじょうぶ! だいじょうぶ! ぜんぜん平気よ。ただの水だもの!」

 それまで一度も見たことのないような彼女の大きな瞳に、ぼくの目は釘付けになっていた。



 ぼくは彼女との初めてのデートの時にも、またもや失態を演じた。液体をぶちまけるという。

 遊園地のレストランのテーブルの上を、味噌汁ですっかり満たしてしまったのだ。近くにウエイターの姿もなく、その場をどう切り抜けていいやら皆目見当もつかず、ただうろたえるだけだった。

 すると、彼女は音もなく立ち上がり、まっしぐらに厨房の方に向かい、しっかりと台ふきを握ってもどってくるではないか。ぼくが彼女に本気で惚れ込んでしまったのは、その時だった。

 四つも年上だった。シズカという名のとうり無口で、びっくりするほど大きな瞳をしていた。そんな女性は、いつもそうなのだが、笑顔が似合わない。そのせいか、ぼくにはどうしても、彼女の笑顔が思い出せない。

 最も無邪気に過ごしたはずの、その日の記憶の中にさえ。

 二人乗りのミニ・ジェットコースターに、彼女をうしろから抱きしめて乗った。コーナーを、九十度に曲がるようなスリルに、二人で絶叫していた。

 ぼくは飛んでいた。

 彼女の甘い髪の香りに、酔いながら……


 家に帰ると、電話が鳴っていた。クラプトンだと、受話器を取る前に分かった。

「最高だったぜ! おまえ、どうだった?」

「うん…… 彼女をうしろから抱きしめてやった」

「ええっ! ほんとかよ?」

「二人乗りのミニジェットコースターでだよ…… なんだ、おまえたち乗らなかったのか?」

「ああ、そうか。そんな手があったのか? 頭いいよな、おまえ」

 シズカはあの夜、友人に連れられて、初めてライブハウスに足を運んだのだと言っていた。その友人というのが、不思議なことに、クラプトンとぴったり息が合ってしまったという、カーリーヘアの底抜けに明るい女性だった。

「やっぱり、おまえ。さすがだなあ……」

「なにが?」

「水こぼして、きっかけ作ったり……」

「なに言ってんだ、ただの偶然さ!」

「いやいや、ちゃんとわかってるぜ……」

「なに言ってんだよ!」

「まあ、とにかく、ありがとう。今年の春は、いい春だ……」

「ああ……」

「夏が来たら、四人で海に行こう!」

「海かあ……」

 妙子と川端と、三人で見に行った海を思い出した。なにもかも、波がさらっていってしまった。

 だが、今度は四人なのだ。


 ぼくのシズカへの思いは、妙子に対して持っていたものとは、まったく違っていた。

 妙子とは、人生の希望と不安を共有することを通して、魂の触れ合うのを感じたが、そのせいか異性としての意識が希薄だった。しかし、シズカに抱いた思いは、その根底に紛れもない女性に対する憧憬の念があった。

 そうだ! 確かに、シズカが女性であることに、夢中になっていた。

 ぼくには、女性を自らの神に仕立て上げてしまうようなところがあった。たぶん、それが憧れの極致だからだろう。

 ぼくが小学五年生の時だった。クラスの担任は若くてまだ経験の浅い、しかし教師にはまずいないような綺麗な女性の先生だった。ある時、ぼくは昼休みに教室の 窓辺に立って、グランドで遊ぶ級友達の姿をぼんやり眺めていた。ふと気がつくと、先生が側にいて、同じように外を見ていた。そして、幼子に話しかけるよう に、ぼくに呟いた。

「ボ・ク…… 外で、みんなと遊ばないの?」

 なんという、呼びかけをしてくれたことか?

 そして、なんて答えたのか、覚えていない……

 頬を赤くし、胸の苦しさに喜びながら、ただ立っていた。

 憧れはいつでも、美しい。先生は完全無欠のぼくの神だった。

 だからいつも、心惹かれた女性の眼の中に、神を見ようとしてしまう。うっかり、顔の皮膚の下を走る青い血のすじを見てしまったり、肉の下に隠れているだろう醜い骸骨のことを思い起こしたりしたなら、とても幻滅した気分になった。

 そんなふうに、勝手に女性を神格化してしまうのだから、相手の女性にとって、こんな迷惑なことはない。シズカはそれが、息苦しいとはっきり言った。

 シズカの家のある住宅街から表通りに出て、坂を下りきった角に、待ち合わせに使っていたケーキショップがあった。紅茶とアップルパイを食べながら話している時だった。

「あなたが思っているような、女じゃないわよ、きっと……」

「ぼくが思っているようなって?」

「たぶん、もっと、つまらない女よ」

「だれにとって? ぼくにとってなら、ぼくが一番よく知ってる」

「だれかの歌にあったように、あなたはわたしの幻を見ているだけなの……」

「………………?」

「わたしの父は警察署長で、とにかく厳しい人なの…… 妹が一人いるけど、この子は父のお気に入りで、小さいころから婦人警官になるのが夢というような子。剣道だって熱心にやってるし…… それにひきかえ、わたしときたら、やることなすこと父の癇に障ることばかりで……」

「……………………」

「わたしには、心に決めた人がいるの…… でも、両親とも大反対で……」

「………………!」

「ちょっと、わけがあって、今は仕事もやめて…… とりあえず、家事手伝い。おかしいでしょ?」

 彼女のぽっかりあいた胸の空白に、タイムリーに飛び込んだぼくは、彼女の心の憂鬱を癒すには子供すぎたのだ。

 もうすぐ自動車の免許が取れるだの、どんな車が好きだの、どんな音楽が好きだのと、彼女にはどうでもいいような話を、一方的に喋り続けていた。


 クラプトンは、ぼくが免許をとるのを、それは楽しみに待っていた。教習所の費用のうち、三万円もの大金をカンパしてくれたぐらいだった。

 彼とカーリーヘアのレイコは実に相性がいいというか、変わり者どうしが互いに必要とし合う、いい関係を作っていた。クラプトンがどんなにつまらない冗談 を言っても、レイコは必ず甲高い笑い声で応えた。それが、いつでも本当に楽しげに笑うのだ。ぼくの記憶の中で、レイコはいつも明るかった。

 海へドライブしよう!

 彼らと会うと、別れ際の合い言葉のようになっていた。

 そして、夏休み半ば、ついに免許証を手にした。

 ガレージには、兄がほとんど乗ることのなくなった、古いワーゲンが埃にまみれたまま眠っていた。そいつを、クラプトンと二人、半日がかりで磨き上げた。

 彼の口からは、鼻歌やスキャット、口笛が、ノンストップ・パワープレイで飛び出して……

 水色のビートルが、夏の陽射しにまばゆい光沢を放ち、ついに目覚めた。

 翌朝四時半にガレージを出て、三人を順々に拾って走り、六時には海岸通りに出ていた。


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